痴漢は性暴力ということを知った日。

 

先日、ある記事を読んでから心の中が波立っている。

その記事は、「痴漢は性暴力に入りますか?」と題打ってあった。ネットで目にした小川たまかさん(プレスラボ)の書いたものだった。

[ Yahoo!個人で記事を公開しました/痴漢は性暴力に入りますか?(小川たまか) - Y!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/ogawatamaka/20150416-00044878/ … ]

 

私は、その記事にひどく共鳴して自身のことを伝えたく返信を書いてみたが迷ってすぐに消した。自身の実体験を感想にして返信することが憚られた。その日を境に頭の中で言語化できない感情が渦を巻き、過去の記憶がよみがえってきて気分が悪くなった。妙な息苦しさから逃れる為には、どこかへこの膨れてくる不安を放出せねばならないと感じた。いつ消してもいいようにどこかへ書いておこうと思った。王様の耳はロバの耳と叫ぶように。

 

いくつかの体験のうち、消えない記憶のいくつかを。

はじめの記憶。

小学6年生だった。春に新しい教頭先生が赴任してきた。教師っぽくない親しみ易さと任侠映画に出てきそうな風貌が田舎の小学生には新鮮で着任早々大人気だった。わたしも例外なく皆で先生に誘われるまま教員住宅へ遊びに行った。先生は単身赴任中で料理も出来ないというから女子で簡単な料理を作ってあげたりした。部屋でかくれんぼか鬼ごっこした時だったと思う。先生は誰もいない間に私を抱きすくめた。親族以外の男性にそんなことをされたのは初めてだったので声も出せずただ驚いて腕から逃げようとした。すぐに友だちが来て先生は、ぱっと腕を放した。教頭先生は私を可愛がってくれようとしただけ、と思ったが違和感がぬぐえなかった。誰かに言ってはいけないような気がして誰にも言わなかった。その後も先生は、私のお尻を授業中おしゃべりした罰だと言ってブルマの上から触るように叩いたり、そういうのが何度かあった。

 

高校生の記憶。

高校まで30分ほど自転車通学をしていた。県道沿いでも田舎だったから、街灯の無い箇所があった。バスケ部で帰宅は20時くらいがざらだった。同じ部の先輩が面倒見の良い人だったから遅くなった日は必ず共に帰宅してくれた。先輩が卒業して、他の部活をやっている友達と待ち合わせし一緒に帰るようになったが時間の合わない日もあった。そういう日は家族が迎えに来てくれた。試合目前の強化練習をしていた時期だった。随分と遅くなり、その日に限って運転できる祖父はお酒を飲んでいて、父も母も仕事で帰宅していなかった。バスはもう無かった。土手になっている真っ暗な桜の並木道、私は独り自転車を走らせた。緑は生い茂ってて、生臭い匂いを放つ時期だった。

暗闇の中、土手下の方から声をかけられた。「○○へ行きたいのですが道を教えてください」と男性の声だった。昼間でもその道では何度か道を尋ねられたことがあったからブレーキをかけて止まった。瞬間、男がわめきながらこちらへ向かって走ってきた。男性器の名称を連呼して。(男の服装)ジャージの白い線のようなものが光って見えた。私はとっさに殺されると感じた。レイプされるかもしれないという考えではなく殺されると思った。そしてペダルに足をかけ猛スピードで逃げた。街灯のある場所へ行っても恐怖で頭に血がのぼったまま全身が激しく興奮していて進んでいるのかさえ分からなかった。後ろを振り返ることすらせず家まで足が痙攣するほどひたすら漕いだ。

体に危害を加えられた訳ではなかったし何もなかったけれど(当時はそういう風に思っていた)母に話した。母は訝しがった。そして明日担任の先生に言いなさいとだけ言った。祖母にも話すと、これからは必ずおじいちゃんが迎えに行ってあげるからと言ってくれた。祖母によると、同じ道で近所の同じ高校に通う先輩も自転車を押し倒され大声をあげて、たまたま人が通りがかり助かったと聞いた。そんなことがあったなんてと恐怖は増した。(今思えば、何でそのままにしてたんだろうと思うがそんな田舎だった)

翌日ホームルームの後、担任へ伝えた。男性担任は職員室でこの話をしていいかと私に伺っただけで、次の日のホームルームでこういうことがあったので皆さん気を付けて帰るようにと私の名を伏せて話しただけだった。私は殺されるかもしれないと感じた恐怖と恥ずかしさを堪え、何とかして欲しいと勇気を出して母と担任の先生に話したのに。私の気持ちをケアしてくれることは無かった。祖母と祖父だけは非常に心配し、卒業するまで独りになる時は送迎してくれたし、私の同級生も男女関わりなく乗せて帰ってくれた。たまたまラッキーだったし、祖父母に恵まれていたと思う。でもわたしは今でも暗闇が恐い。

 

 

大学生の頃。

学生課の初老の職員にお尻を触られた。学業優秀者だと認められれば授業料が返還なしで免除されるという手続きをしに行った時だった。最終選考に残った私は学長や理事長による二次面接に備え練習をすることになった。担当してくれたのがその初老の職員だった。学内のロビーで質疑応答の練習が行われた。一通りやると「彼氏はいるのか」「初体験は済ませたのか」そんな馬鹿みたいな質問をされた。私は信じられなかったけれど、この人に悪い印象を与えると奨学金がもらえなくなるのではないかと心配した。一年分の学費の免除と奨励金。兄も大学生、下には妹もいるから少しでも親の負担を軽くしたかった。奨励金で自動車免許も取れる。私は、馬鹿みたいに真面目に答えた。そして事務手続きの度にお尻を触られることになった。当時は、まだセクハラやパワハラなんて言葉も知らなかったし、ネットもなかった。大人の男性に不信感を抱いた。頭ではおかしいと思ってるのに止めて下さいと言えなかった。学費の免除と奨励金を手にしてからもその初老の男性には親しげにされ不快感を感じ続けた。親友に相談したら、えー気持ち悪いと言われた。どこに相談していいかもわからなかった。(現在では大学内にセクハラを相談する窓口は設けられているけれど当時わたしの通う大学には無かった。現在も担当者の知識や組織がちゃんと学生の為に機能しているか大学により差はあると思う)

 

 

社会人の頃。

電車通勤だった。痴漢被害によく遭ったけれど声をあげる勇気がなかった。その頃になるとようやく”痴漢”というものが世の中にあると実感した。そしてこれまでのいろんな違和感も”痴漢”だったのかもしれないと思った。

同僚の男性と電車に乗った帰宅時のこと、満員だったので人の波に押され離れた位置で立つことになった。雨の日だった。傘の取っ手を持つ手が向かいに立つ人の手に当たる。ふと見上げると背の高いキャップを深々とかぶった男だった。迷惑にならないように手の位置を変え、触れないように気を付けた。しかしそれでも当たる。次第にその手はお腹から胸に上がってきた。私はデニムのシャツを第一ボタンだけ外した格好だった。下はチノパン。いつの間にか胸を撫でられていた。恥ずかしくて声が出なかった。男の手は停車するまで執拗に触り続けていた。下車する時も男は私の腰に手を回した状態だった。降りた途端、男は人混みにまぎれて見えなくなった。同僚が私に追いついてきて言った「ねぇ、胸もまれてたでしょ」面白そうに言った。痴漢され続け、恥ずかしくて声を上げることも、何もできない惨めな気持ちで一杯だったのに、なんでこういう事を言うのだろう。なら助けてよ、平気なふりを装ってそう思った。そして駅員にも警察にも届けず帰宅してしまった。

 

 

働いた会社での記憶。

夢が叶って念願の会社で働けた。小さな個人経営の。上司でオーナーの男性は、その道で自分の持っている知識や仕事を丁寧に優しく教えてくれた。わたしは失敗も多く未熟だった。熱心に何でも吸収しようと挑戦し毎日仕事をすることが楽しかった。上司は、どこの現場にも連れてってくれ小さな仕事ならば任せてくれるようになった。自分の出した案が受け入れられ有頂天になっていた私は、同僚より仕事が出来ると勘違いしていた。帰宅時間がどんどん遅くなり、上司が車で送ってくれることが増えた。わたしは過去の記憶から用心していたものの終電がなくなるまで仕事が終わらなかった時は送ってもらわざるを得なかった。

なるべく終電前に帰ることや、やむなく送ってもらう時は、家から遠くの大通りで降ろしてもらうように努めた。ある時、降りる寸前に振りかえりざまキスされた。すごく嫌だった。気持ち悪かった。走って逃げた。それから仕事する時、ぎこちなくなったけれど、上司は露骨に好意を寄せてきた。彼氏がいますと言ったのに、帰宅すると鞄の中にプレゼントが入っていたり。棚卸と称して私ひとり残業させられ倉庫内でレイプされた。泣きながら訴えたけれど好きだからお願いだと上からのしかかられた。体の大きさ、腕力で敵わなかった。抵抗する力がなくなって体の力も頭の思考回路もスイッチを切った。皮肉なことにその上司から勧められて観た映画「ホテル・ニューハンプシャー」でジョディ・ホスター演じる長女が集団レイプされた時、「あたしのなかのあたしは誰も取りはしなかった」とかそういう台詞があって。こんなことは何でもない、わたしは大丈夫、とその行為が終わった後もそれ以降も、ぼうっと頭の中で呪文みたいにつぶやいてた。営業先から帰る途中ホテルへ連れていかれたり。車の中でも行為は及んだ。さからってクビになれば、転職すれば、こんな仕事の経験は出来なくなってしまう。自分が悪いのだ。我慢した。誰にも言えなかった。念願の夢だった場所を失う恐れ。わたしは顔にチックが出るようになった。上司の言葉に返答ができなくなってしまい周囲からも訝られるようになってクビになった。クビと書面で通知された時には頭が真っ白になった。裁判という言葉も浮かんだし、上司の家庭に私がされたことを知らせてやりたいとも思った。でも心と頭がプツンと切れて、死んだようになってしまった。女性の先輩と同僚にレイプのことは言えなかったけれど、セクハラとパワハラを相談した。驚いたことに、私の気持ちに添ってくれる人も味方してくれる人もいなかった。私だけエコひいきされてたんだからということを遠回しに言われた。ショックだった。経営者から辞めろって言われたんだったら仕方ないじゃん次の仕事を探した方がいいよ、あの上司だらしないとこあるけど良い上司だよ、とまるで私の方が言いがかりを付けた加害者みたいな言い方をされた。失業してからは、毎日家に籠って寝てばかりいた。何も伝えてない彼には好きだった仕事を諦めるなんて意味が分からない、我慢が足りないと言われた。

仕事を失って、精神的にも追い詰められて余裕がなく何かの機関に相談する気力もなかった。自分の落ち度だと責められるのが恐かった。実家へは迷惑をかけられないので黙ってた。それなのに上司はアパートまでやってきてプレゼントを置いて無言で帰っていった。狭いアパートから恐怖で出られなくなった。このままでは駄目だと思い失業保険が切れた時、彼との同棲を選んだ。堅い実家からは結婚もしてないのにと勘当されかけたけれど、彼のおかげで精神が少し安定し金銭的にもしばらくの猶予ができた。旅をすれば変われるのではないかと現実逃避めいて、なけなしのお金をかき集めて旅をした。いつまでも無職ではいられないので異業種のバイトをしながら面接をし元の職種に戻った。女性ばかりの会社を探し運良く採用された。充実した日々を取り戻したけれど数年後、倒産。それから10年以上経つけれど、いまでも夢に当時の上司が現れる。私は夢の中で必死にもがき逃げようとするけれど何処へ逃げても必ず見つけ出されてしまう悪夢。うなされて起きると汗をびしょりかいている。

 

 

当時の彼と長らく付き合った後、結婚をしたけれど本当の事は言っていない。似たような経験をした子が居てもそれをネタのようにしか言えない環境だったり、私の場合は同性の子に相談しても引かれることがあったし、嫉妬めいた態度を取られたこともあった。男性の場合、元上司のしたことに対して怒りの感情を表した人は、元上司と同じことをしようとした。身近な人に相談しても更に傷付く結果にしかならなかった。原因と結果を全て自分がまねいたんだ自分が悪かったんだ、そういう負の素養が自分にあるのだと自分の中にある怒りの感情を抑圧した。

数年前、鬱病に罹患して今も治療中。性暴力だけでなく、実家の母のこと、いろんなことが複合的に絡みあっているから原因はこれと断定できないけれど、仕事の挫折とワンセットで性暴力がいつもある。苦しいけれど性暴力被害にあった方の本を読んだり、番組、映画を見てしまう。きまってフラッシュバックして自分を責めることから逃れられない。今は薬でだいぶ楽になっている。起こったことは消せないし記憶からも永遠に消えはしないだろうと思っている。

今思うのは、家族と教育機関、テレビでもネットでもいい。いろんな所で誰もが目にする耳にするところで教育をして欲しい。被害に遭うということ。被害を相談することは恥ずべき事じゃないこと。自分の体も心も守るべき大切な、かけがえのないものであること。何でも無いことなんかじゃないということ。そこには大も小も関係ない。全ての人間がひとりひとり違うように。被害者の痛みに添う必要性。アフターピルや体を守る知識も。その後の人生の過酷さも。誰もがのり越えれるわけじゃない。のり越えたと思っても関係のないところで日常に影を落としていたりする。わたしに子どもは居ないが小さな子どもから大人まで性暴力に遭ったニュースに触れると苦しくなる。被害者の気持ちになってしまう。あくまでも本人の辛さには及ばないが。何か私に出来ることはあるのだろうか。今さらだけれど。

 思い立って吐き出すように書いた。