黒田勇樹「がんばるということがわからなかった」〜ウツケモノの履歴書 vol.1(前編)〜

 「天才子役」「絶世の美少年」とうたわれた黒田勇樹さんが、引越しのバイトをしていると報じられたのは2010年のこと。その後しばらくして「ハイパーメディアフリーター」を名乗り、ネットで人気を博すも、役者仕事からは遠ざかっていた。

 そんな黒田さんが現在、演劇界に復帰。先月は役者人生初となる月2本の舞台をこなし、精力的に活動を続けている。睡眠時間を削って稽古に励むなか、「なんで、そんなにがんばっているの」と共演者に指摘され、「オレは今がんばれているんだ」と思わず泣きそうになった。そんな今の環境を”奇跡”と語るーー。

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黒田勇樹(くろだ・ゆうき)

1982年、東京都生まれ。幼少時より俳優として活躍。主な出演ドラマ作品に『人間・失格 たとえば僕が死んだら』『セカンド・チャンス』(ともに TBS)、『ひとつ屋根の下2』(フジテレビ)など。山田洋次監督映画『学校III』にてキネマ旬報新人男優賞などを受賞。2010年5月をもって俳優業を引退し、「ハイパー・メディア・フリーター」と名乗り、ネットを中心に活動を開始。2013年より俳優業に復帰。

公園でひとりベンチに座りながら飲む缶ビールが最高にウマい

「公園でビールを飲んでいるところを撮らせてくださいと言われて応じると、寂しそうな絵面だけを使われて『昔は六本木で楽しそうに遊んでいたのに今は…』と報道されてしまう。いや、そうじゃねぇんだよ。公園でビール飲むの、すげえ楽しいぞ。仕事だってすげえはかどるぞって言ったところまでは使ってもらえない」

 8月5日の昼下がり。炎天下のなか、俳優の黒田勇樹さん(33歳)と東京・吉祥寺駅で待ち合わせをした。つらい時期によく通っていたという井の頭公園は、今でも月に一度は訪れている。原稿を書くにも、セリフを覚えるにも、緑のあるところでやるほうがグンと集中できるという。芝居稽古の合間や楽日が終わって打ち上げが始まるまでの微々たる時間でも、コンビニで缶ビール1本を買い、近くの公園や河原へ出向いて、ひとり緑を眺める。ちょっとした隙間時間を使った貴重なリセット・タイムだ。

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▲お気に入りの発泡酒とカリカリ梅とともに

大ジョッキやロング缶は飲まない。グラスビールやショート缶のほうが気泡があっておいしいから。最近になって、そういうところを我慢しないほうが自分のパフォーマンスがあがることが分かって我慢しなくなった。でも、昔は違った。みんなが大ジョッキのときはオレも大ジョッキ。冷やしトマトをもう一皿お替わりしたいと思っても、しない。我慢というよりは、そこまで自分の感覚を信じていなかったのかな」と足もとに目を落とす。

 1歳でモデルデビュー。8歳の時にミュージカル『オリバー!』で帝国劇場最年少主役に。その後、NHK『花の乱』やTBS『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』など、数々の話題作に出演したのち、16歳で山田洋次監督の『学校Ⅲ』に出演。同作でキネマ旬報新人男優賞、日本映画批評家大賞、日本アカデミー賞新人俳優賞、全国映連賞男優賞など数々の映画賞を総ナメにした。

 「天才子役」から「実力派俳優」へ。その道を目指す人なら、誰もが羨むポジションを確かに得ていた。しかし、そうした栄光とは背中合わせに、黒田さんの心の内はコンプレックスで膨れ上がっていたという。

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がんばるという気持ちがわからなかった

 「1歳からデビューして常に仕事があった。その環境が当たり前すぎて、“がんばる”という感覚がわからなかった。周りはがんばれているのに、オレだけががんばれていない。そんな他人にはなかなか分かりづらいコンプレックスをずっと抱えていました」

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 映画に出演して話題になっても、それはプロデューサーと監督ががんばったからであって、自分の功績ではない。失敗したとしても、それは自分をキャスティングしたプロデューサーと監督の非であって、自分のせいではないと思っていた。

 一方、バイトと俳優業をかけもちしている共演者たちは、「この作品に賭けている」「二度とこんな大きな舞台に立てるチャンスはないかもしれない」と平然と口にして、一生懸命にがんばっている。「その時間、そこにいて言われたことをやるのが仕事だと思っていて、共演者たちのような情熱がオレにはなかった。派遣のバイト帰りに1時間カラオケボックスで寝てから現場に行く奴なんて、非効率だと思っていた」と振り返る。

「こいつらとオレとではモチベーションが違う。でも、残念ながらオレの方が芝居は上手だから仕方ねえ。一生懸命なのと、上手なのは違うからな」とクサクサした気持ちを持て余していた。

 そんなモチベーションの低さも影響したのか、26歳のときに体調不良で出演が決まっていた舞台を降板。それを機に仕事が減りだすと、ある不安が頭を過るようになった。

「このまま仕事がなくなったら死ぬな」

 がんばれていない自分より、がんばれている奴らがオレのポジションに座ればいい。仕事が見つかるかどうかより、役者を続けていく不安感のほうが勝っていた。

 黒田さんはいっさいの芸能活動をやめ、初めての”転職”をすべく派遣会社に登録した。28歳になっていた。

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Resume

コールセンターに、引越しのバイト…天職からの転職で”やればできる”を実感

 “天職”からの”転職”後、最も長く続けた仕事はコールセンターのオペレーターだ。「これが問題なのですけど、そこそこ上手にできちゃった」。

 クレーム対応や面倒見のよさが買われて研修の資料作りを手伝っていたところ、病欠した担当者の代わりに急きょ70人以上の研修を行うことに。その評判がよく、とんとん拍子で主任代行まで昇進した。

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 「お芝居という仕事が特殊なせいかもしれないけど、なりきって堂々とやるのが一番大事じゃないですか。できるかできないかなんて余計なことは考えず、まずは振られたことを堂々とやる。それはずっとやってきたことだったから、やってみたら意外とできちゃった」という。

 とはいえ、できなかったことができてしまうと、途端につまらなくなるのも人間の性。そこで今度は週末を利用して、引越しのバイトを始めた。力仕事に慣れておらず、車の運転もできなかった黒田さんは、黙々と作業を続けた。すると、冷蔵庫をトラックの荷台までひとりで運べるようになった。

「やればできるようになるもんだなぁと思って。そんなに働いているから、お金もすごくあって、女の子ともよく遊びました。コールセンターは女の子が多いですからね。黄色い声は電話より鳴りやまなかった(笑)」

 平日はコールセンターで主任代行を勤め、土日は引越しのバイトで汗をかき、夜は女の子とイチャイチャし放題。そんな“リア充”生活を送る黒田さんの引越しのバイト姿を、週刊誌がすっぱ抜いたのはその頃だ。あたかも転落人生のように書かれていた。

 「オレは普通の人が普通にしているように転職しただけ。でも、それが事実であろうとなかろうと、“子役のその後”を転落人生のように描きたがる風潮がある。そういう報道に面白いから対抗しようと思ったんです。 『辞めても元気ですけど、なにか?』って伝えるために、ただブログで書くだけじゃつまらないから、イベントスペースやネット媒体を使って触れ回りました。そしたら、今活躍している子役の子たちも、将来仕事を辞めやすくなる。辞めても全然楽しくやれるんだよ、という実例があまりないから」

真剣に仕事をするということは、いかにストレスまみれか

 あの黒田勇樹がとんでもないことになっている——“ハイパーメディアフリーター”を名乗り、歪曲報道を続けるマスコミを皮肉るように、歯に衣着せぬ論を発信したところ、これが大ウケ。次第にイベントの出演依頼や執筆依頼が増えていった。結婚を発表したのもちょうどその頃だ。しかし、その幸せは長くは続かなかった。

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「ふたりの生活のためにもオレは真剣に仕事をしなきゃいけないから、今日から家庭を省みなくなることを理解してくんねえかな、というところを理解してもらえなくて。実は役者を辞める直前、舞台を降板した頃に付き合っていた彼女とも同じ理由で別れていました。金を稼ぐためにはしたい仕事を断って、気が進まなくても儲かる仕事に行かなければならなくなる。すると “かまってくれなくなった”と相手に言われて、関係がギクシャクし始める。そのくり返しでした」

 真剣に仕事をするということは、いかにストレスまみれか。離婚報道が激化し、進んでいた映画製作の話も白紙になった。

 離婚報道から裁判で離婚が成立するまで10カ月の間は、ほとんど人にも会わず、家に引きこもっていた。こうなった以上、芸能関係の仕事はもう続けられない。野次馬的なものも含めて、くるオファーはすべて断った。コールセンターを辞めて雇用保険でしばらく食いついないだあと、新たに始めた仕事はひたすら肉をむしり続ける食肉工場でのバイトだった。

 「人の映画を観て、もう少しこうしたらおもしろいのに、と思うことはあっても、俳優をまたやりたいという気持ちはまったくなかった。今から戻っても負い目もあるし、がんばれない。やるべき人間じゃねえんだと思っていた」

 28歳で役者を辞めたときは“がんばれてない”だった。それが31歳を迎えた年、完全に“がんばれない”状態になっていた——。

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※うつけとは…「空け」と書き、愚かな、常識に外れた、という意味で使われる。織田信長が若い頃、「うつけ者」と呼ばれていた。

取材・文:山葵夕子 撮影:ヒダキトモコ

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