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Friday, September 04, 2009

◆彼らの呼び方についての覚え書き◆

[この文章は少しずつ手を加えながら定期的に繰り返しアップロードされます]

Revised Friday, November 22, 2010

start_quote「インディアン」という言葉は、今ではぼくたちのものだ。ぼくたちはインディアンである。インド人とはまったく関係がない。ぼくたちは、アメリカのインド人ではないのだ。ぼくたちはインディアン。「イン・ディン(In-din)」と発音する。それはぼくたちのものである。この言葉は、ぼくたちが所有しているのだ。誰が返したりするものかend_quote.gif

——シャーマン・アレクシー『The Unauthorized Autobiography of Me(ぼくについての独断的な自叙伝)』の一節より(シャーマン・アレクシーは1966年にワシントン州のスポケーン・インディアン・リザベーションで生まれた。アメリカ・インディアンの新世代の作家・詩人として注目を集めている。)

s_handこの「BLOG」をお読みいただくに際しておことわりがある。それは、わたしはこれまで自分の書いたり話したりすることのなかで「アメリカ・インディアン」「アメリカン・インディアン」「インディアン」「ネイティブ」「ネイテイブ・アメリカン」「ネイティブ・ピープル」「インディアン系アメリカ人」「ブラウン・アメリカンズ(茶色いアメリカ人)」「レッド・ピープル」「レッドマン」「赤人」「北米先住民」「先住民」「先住民族」「先住アメリカ人」「アメリカ大陸原住民」「原住民」といった言葉を、そのときどきの思いつきと気分と文脈とに応じて使ってきたし、これからもそうするだろうということである。気持ちが高揚すればあらゆる要素を盛り込んで「ネイティブ・ノース・アメリカン・アボリジナル・フアースト・ネーションズ・インディーニアス・ピープル」なんて単語だって使うかもしれない :-)

誰がネイティブ・アメリカンという言葉を考え出したのか?
北米大陸のネイティブ・ピープルにとっては、そうした言葉の指し示しているどれもが、ある程度の差はあるにせよ、同じくらいは「まあ間違ってはいない」と考えられているようだし、同時に、差こそあるもののどれもが正確に自分たちのことを伝えているとは言いがたいと感じてもいるらしい言葉ばかりであるからだ。それに、わたしはこれまでただの一度も自らを「ネイティブ・アメリカン」だと名乗る「インディアン」と会ったことがない。むしろそう紹介するとみな一様に恥ずかしそうな、困惑したような顔をする。(日本でも多くの場合「ネイティブ」は「生まれつき英語を話して育った人間」のこととして英会話学校の広告などで使われたりする)

1492
1492年のインディアンの土地
1820
1820年のインディアンの土地
1840
1840年のインディアンの土地
1860
1860年のインディアンの土地
1977
1977年のインディアンの土地
もともとアメリカ合衆国の内務省が「ネイティブ・アメリカン」という政治用語を発明したのは1970年のことで、人口構成の一覧リストをつくりやすくするのがたてまえではあったものの、おそらく真の目的はすべてのアメリカ国内の先住民の痕跡やアイデンティティーをきれいに一括消去することにあり、この「ネイティブ・アメリカン」のなかには、いわゆるアメリカ合衆国の先住民である「アメリカン・インディアン」のみならず、「ハワイ諸島のポリネシア系先住民(ハワイアン)」「エスキモー(イヌイット)」「サモアン」「ミクロネシアン」「ポリネシアン」「アリュート(アリューシャン列島の先住民)」なども含まれていた。

それ以前のアメリカ人は、ほぼ500年間、アメリカという国の先住民のことを「アメリカン・インディアン」と呼んでいた。アメリカ合衆国政府や合衆国の政府機関がそれぞれの部族と交わしてきている条約や契約では「インディアン」という表現が正式につかわれれてきている。1960年、時の大統領だったジョン・F・ケネディも「アメリカン・インディアンはすべてのアメリカ人のなかで最も理解されることなく誤解されている」と発言していた。ちなみにバラク・オバマ44代大統領は、白人ではない最初のアメリカ大統領として「ネイティブ・アメリカン」という言葉を意識的に使っているようだ。70年代以前、その「ネイティブ・アメリカン」という政治的な言葉がメディアに定着する以前の20世紀の前半から中ごろに、アメリカや欧州の知識人たちが、形質人類学という人種を身体的形質的特徴で分類する学問の世界で使われていた「ネグロイド(アフリカ人)」「コーカソイド(ヨーロッパ人)」「オーストラロイド(オセアニア人)」「モンゴロイド(アジア人)」から無理やり造語した「アメリンド / Amerind」とか、「アメリカン・インディアン」という言葉からの造語で「アメリンディアン / Amerindian」なる言葉を用いていた時期がしばらくあり、いまだにこの言葉にこだわって使用しているサイトや書物も見かけることがあるものの、結局はどれも「なんだかなあ」という理由からか定着してはいない。そもそもアメリカン・インディアンは形質人類学的にはアメリカ大陸のモンゴロイドに分類される。

インディアンとインド人
これまでしばしば「なぜインディアンと呼ばれるようになったか?」という素朴な疑問にたいして、「コロンブスがそこをインドと誤解したから」という回答がまことしやかに語られてきた。70年代以降のインディアンの活動家や革新的なジャーナリストはこれに対して疑問を呈する。コロンブスはそんなにマヌケだったのかと。彼は1492年の段階で「インド」「インディア」などという名前の国が存在しないことぐらいは知っていたと彼らはいうのだ。

当時インドはヨーロッパでは「ヒンダスタン(Hindustan)」と呼ばれていた。もし彼がほんとうにヒンダスタンと間違えたのであれば、最初の航海で出会うことになった人たちを「ヒンダスタニス(Hindustanis)」と呼んだであろうというのだ。最近のネイティブ・アメリカンの人たちはよくジョークとして「コロンブスがここをトルコだと思いこまなくてよかったな」と言って笑いあう。そのココロはというと「トルコ人」は英語だと「ターキィ(turkey)」となるし「ターキィ」とは「七面鳥」とか「阿呆」といった意味だからという。

インデヘンテ、丸裸の人たち
では「インディアン」という言葉はどこからつけられたのだろうか? 高名なインディアンの活動家で、ラコータ共和国(スー族)独立運動の先鋒でもあるラッセル・ミーンズらは、コロンブスに同行したイタリア人修道士たちが「あまりに無邪気で天真爛漫な人たち」と出会って、彼らのことを「ロス・ニノス・イン・ディオス(Los ninos in Dios)」または「ウナ・ヘンテ・エン・ディオス(una gente en dios)」と呼んだことに由来しているからだと主張した。それは「神の子供たち」「神の姿をした人」という意味であるという。この「イン・ディオス」が「インディオ」になったのだと。もちろんこれは「反白人主義」の妄想から生まれた説であるとする意見もある。

実際の1492年10月12日の日誌のなかでコロンブス(クリストバル・コロン)は「彼らは生まれたままの裸のまま歩き回っている」と記し、そのうえで「この連中をキリスト教徒にすることはたやすいだろう」とも書きとめている。「宗教らしい宗教はもっていないようだ」と。日記を読むかぎりネイティブの人たちの精神性など彼の目にまったく入っていなかったことは明らかである。

おそらく「インディアン」という言葉のはじまりはスペイン語にあるのだろう。スペイン語で「貧しい」「着るものもない」「丸裸」を意味する言葉は「indigente(インディヘンテ)」である。英語にも「indigent(インディジェント)」があり、これから「indigenous(インディジェネス)」が派生している。英語の「indigent」は「貧乏者」「困窮者」を意味し、それが結果として「indigenous」(固有の、原住の、先住の、土着の)という単語につながっていく。コロンブスが「イン・ディオス」と言ったとしても、スペイン語の研究者は、それは当時のスペインの俗語で、「神の姿で生まれた」は、実は「丸裸の人」を意味するのだという説もある。

いまだに南アメリカや中央アメリカでは先住民は「インディオ」と呼ばれている。この「インディオス」という言葉がヨーロッパから再び英語を話す人たちによって北アメリカに持ち込まれたときに「インディアン」と意図的に変えられてしまった可能性は否定できない。

ちなみに明治維新以降から第二次世界大戦以前の日本帝国では、「先住民」のことを「土人」と、先住民の長のことを「酋長」と呼んでいたが、これらの言葉は現在マスコミにおいては差別的不快用語として使用を避けられるようになっている。

カナダのアメリカ・インディアン?
カナダに暮らすネイティブ・ピープルは、いくら政治的に正しい用語とされているかもしれないが、自分たちのことを「ネイテイブ・アメリカン」と呼ばれることを当然ながら好まず、「ネイテイブ・ピープル」とか「ネイティブ・カナディアン」「カナディアン・インディアン」と自分たちのことをあえて言い、政治的な正しさに配慮するメディアも「最初の国々のひとびと(ファースト・ネーションズ・ピープル)」「ネイティブ・ネーションズ・ピープル」などという呼び名をあえて使っていたりする。

インディアンがネイティブなのだ
現実にはどうなのかと言うと、ほとんどのネイテイブの人たちは、自分たちのあいだでも、よそからきた人たち(そしてその子孫たち)にむかっても、自分をふくむ「北米先住民」のことを言い表わすときには無意識に、あるいは意識して「インディアン」もしくは「インディアン・ピープル」や「ネイティブ」という言葉を使うようだ。

ネットの世界などでアルファベットで書くときに最近の流行では「NDN」と3文字で書いて「インディアン」を表現したりもする。インディアンの若者たちは自分たちのことを「スキン(skin)」と呼ぶことも多い。これはアメフトのプロチーム「ワシントン・レッドスキンズ」の名前にもなっていて長く物議を醸しているが、あえてその「レッドスキン(赤肌)」を「スキン」と略した差別語を名乗ることがクールとする若い世代の価値観からきているものと思われる。さらにまた東洋のインドの人たちを「イースタン・インディアン」とし、自分たちのことをわざわざ「ウエスターン・インディアン」と呼ぶことも、ごくまれにだがある。

自分たちの属する部族の名前で呼んでほしい
だが実際にネイティブ・ピープルのほとんどが、自らの一族(部族)のことや、自らがその一員を構成する国の名前を使って----チェロキーだとか、ショショーニだとか、アベナキ、ユート、イロコイ、サリッシュ、セミノール、シャイアン、モホークといった----それぞれに固有の名前で自分たちの属する集団のことを語るのが普通である。

しかしそうするとここでも問題がおこらないわけではない。たとえば「イロコイ」という言葉は隣接して住むアベナキの人たちの「イレオクワ(毒蛇のごときひと)」からそう呼ばれているだけで、イロコイの人たちは普通自分たちのことを「ハウデノサウネ、ホーデノショーネ、ホーデノサウネ(長い家に暮らすひとびと)」と呼んでいたりする。

おそらく誰もが知っている平原の民の「スー」という呼び名だって、隣接するオジブウェ(チペワ)の人たちが「敵」のことを「ナディウスー "Nadowe siu"」(意味は「小さな蛇」)と呼んでいたものをフランス人が聞き間違えたことによる呼び名であり、自分たちは構成する七つの部族の「ダコタ」「ラコタ」「ナコタ」の「コタ "khota"(友だち/同盟)」を一族の名前として用いる。「コタ」とは本来単純に「人びと」を意味する言葉だ。ダコタを構成する主要な部族は「テトン」「ヤンクトン」「サンテ(ダコタ)」の人たちである。また「アパッチ」という呼び名も、本来の名前ではなくて、隣接して暮らすズニの人たちの「われわれの敵」という言葉に起源がある。

ナバホの人たちは自分たちのことをを「ディネ(ひとびと)」というし、スペイン人にパパゴと呼ばれていた人たちは「豆を食べる人たち」というスペイン名前ではなく、近年「沙漠の人たち」を意味する「トーノ・オーダム」を用いるようになった。

オリジナルの名前はひとつではない
そうした「オリジナルな呼び名」の大半は「ひとびと The People 」を意味する場合が少なくない。このように、敵対していた部族の呼び名によって略称がきめられてしまうことは、コロンブス以降多くのネイティブの国々でしばしば起ったことなのである。

また互いに意思疎通をする際にサイン・ランゲージに頼っていたことから、呼び名が誤って伝えられたというケースもある。たとえば「クロー」は英語では「カラス」を意味するが、本来は「鷲」を意味する「大きな鳥の人びと」と自分たちのことを呼んでいたのが、いつしか「カラス」として定着してしまった。いずれにせよ最近ではそれぞれの国の人たちをそれぞれのオリジナルの言葉で呼ぼうという動きも見られる。

  【オリジナルのネイティブの名前とその意味  一部】

  • アサパスカン      デネ             ひとびと
  • アイオワ        バコジェ           灰色の雪
  • アコマ         アケムゥ           白い岩の人びと
  • アシニボイン      エシィンェボイネ       焼けた石で料理する人びと
  • アベナキ        アルノバク          日の昇る土地に暮らすひとびと
  • アパッチ        ティネ(ンデ)        ひとびと
  • アラパホ        イナネイナ(エ・ラップ・エホ)ひとびと(物々交換する人)
  • アリカラ        エリィケェレェ        角(つの)
  • アリュート       アルティック/ウナンガン
  • アルゴンキン      マミウィニニ         渡り歩くひとびと
  • イリノイ        イリニウェク         ひとびと
  • イロコイ        ハウ(ホー)デノショーネ   長い家に暮らすひとびと
  •             オノンダガ          名を守るひとびと
  •             オネイダ           石のひとびと
  •             カユガ            湿地を守るひとびと
  •             セネカ            西の扉を守るひとびと
  •             モホーク           東の扉を守るひとびと
  • ウィネバゴ       ウィニピグ(ホー・チャンク)
  • エスキモー       イヌイット(イヌピアット)  ひとびと
  • エスキモー       ユーピック(アラスカ南部)
  • オジブエ        メノミニー          ワイルド・ライスの人
  • オマハ         オ・メ・ハゥ         流れに逆らう人
  • カイオワ        キュウワ           もともとのひとびと
  • クラマス                       湖のひとびと
  • クリー         アイシニウォク/イヌー    ほんとうのひとびと
  • グロス・ベントレ    ヒダツァ
  • グロス・ベンチュラ   アーナイ           白い粘土のひとびと
  • クロー         アブサロケ          大きな嘴を持つ鳥のひとびと
  • コマンチ(広い道)   ナメルヌー、ヌムヌー     人間(コマンチはスペイン語)
  • サリツシュ       オキナガン
  • シャイアン       ツィ・ツィット・サス     縞の矢のひとびと
  • シャイアン       ツェ・ツェヘセ・スタエスツェ
  • ショショーニ      ニュウイ           ひとびと
  • スー          ダコタ            盟友
  • ストーニー       アシニボイン         石のひとびと
  • ズニ          アシウィ、タア・アシワニ
  • チェロキー(ツァラギ) アニユゥンウィヤ       ほんもののひとびと
  • チペア(オジブウェイ) アニシナベ          ほんとうのひとびと
  • デラウエア       レナペ            ほんとうのひとびと
  • テトン         ラコタ            盟友
  • トンカワ        ティックアンワ・ティック   リアルなひとびと
  • ナスカピ        イヌー            ひとびと
  • ナバホ         ディネ            ひとびと
  • ヌートカ        ヌー・チャ・ヌルス      山に沿って暮らす
  • ネス・パース(ピァース)ニミプ            ひとびと
  • パイユート       ヌマ
  • パパゴ         トーノ・オーダム       沙漠のひとびと
  • ピマ          オオブ            人間
  • ヒューロン       ウェンダット         島のひとびと
  • ブラックフィート    ブラッド/スィクスィカ
  • ブラッド        カイナイ           たくさんのチーフたち
  • ブラックフット                    焼けた灰でモカシンを黒くした人
  • フォックス       メスクァキ          赤き大地のひとびと
  • ホー          チャララット         川のひとびと
  • ポタワトミ       ニスナベク          ひとびと
  • ホピ          ホピ             平和なひと
  • マイアミ        トゥワトラ          鶴
  • ミックマック      イヌー            人間
  • モヒカン        ム・ヘ・コン・ネォク     流れる水のひとびと
  • モヘガン        モヘガン           狼
  • モホーク        カニエンケハカ        火打ち石のひとびと
  • ヤンクトン       ナコタ            盟友
  • ユーロック       オレクオル(プリカラ)    ひとびと(川下)
  • ユマ          クゥエチャン
  • ユテ          ユート、ヨート        太陽の土地
  • ラコタ         オクテサコウィン       七つの会議の火

上のリストは当然ながら一部であり、だから、どう呼べば「その人たち」のことを正確に表現できるのかは、場所と場面で微妙にことなっているわけで、であるからこそわたしもどれかひとつに限定して使うつもりはさらさらにないのである。それにオリジナルの名前だって、ひとつとは限らないからややこしい。

臨機応変に使い分けるしかないのだと思う
多くの部族がひとつ以上の部族名を持っているのがあたりまえの世界なのだ。ある部族など、世界に向けての名前と、自分たちだけで通じる内々の呼び名を持っていたりする。また、他の部族が呼び名としてつけた名前の方で世界に知られている部族もあったりもする。だから、出来るだけオリジナルの名前で呼ぶようにつとめるものの、その名前の使い方は臨機応変に使い分けるしかないのが現状であるだろう。

最後になるけれど、なかには「インディアン」が「差別語」ではないかと気を回す人たちもいないわけではないが、今では「インド人」をあらわす「インディアン」という言葉そのものを宗主国イギリスの人たちがインド大陸でどんな意味と姿勢で用いてきたかはともかく、辞書的にはそれは「インドの人」という意味である。(無論、いかなる呼び方であろうと、それを口にする人間の心のあり方では差別的言辞になりうるのだし、同様にいかなる呼び方であれ、それを用いる人の心の有り様では差別にならないこともある)

現代アメリカ人の英語において、これが差別語として使われるときには、しばしば「インジュ(ア)ン injun」という特殊な表現や記述がなされるケースが多いわけで、これだと「土人」「野蛮人」の意味が非常に、かつあからさまに強くなる。最近のアメリカ映画などでは、「インディアン」と「インジュアン」のふたつの用語がが明確に使い分けられるようになってきていることにお気づきだろうか。というわけで「インディアン」という呼び名は、けっして差別語(政治的に正しくない用語)などではないことを、ここでは声を大にして言っておくにとどめる。

チーフも使い方を誤てば差別語に
またこれと同じような理由から、わたしは「chief」が差別的言辞のなかで使われているのでない限り、「首長」とも「長(おさ)」とも「族長」とも、あるいは「酋長」とも訳さずに、ストレートにそのまま「チーフ」というカタカナ用語を用いるようにしているが、これには政治的な意味合いは含まれない。ひとつの部族のなかにチーフはひとりとはきまっていないし、戦時におけるチーフ(ウォー・チーフ)と平和時におけるチーフ(ピース・チーフ)とでは当然ながら役割も異なるからだ。「チーフ」のかわりに「首長」の意味で使われる言葉には「サーケム(sachem)」また「精神的な指導者」としては「キクモングイ(ホピ族)」などもある。

インディアンの人たちの社会構造をわかりにくくしていることでもあるのだが、現代の体制において、いわゆる民主選挙で選出される部族会議の議長が一族の「チーフ」だった例はこれまでほとんどない。チーフは選挙の投票できめられるような役職ではないのである。シャイアン一族の偉大なチーフだったスウィート・メディスンによれば「チーフはおのれの利益を求めてはならない」とされる。この言葉がチーフという言葉の重みを物語っているとわたしは考えている。

そしてレッドネックの偏狭な白人たちがしばしばインディアンを呼ぶ時に誰彼となく「チーフ」「おいチーフ」と呼びかけることがあるが、以上のような理由からインディアンがすべからくチーフなわけではないし、そこにはまるで尊敬の念が含まれていないことからもわかるように、これはあからさまな蔑称である。「インディアン」という言葉同様「チーフ」という言葉も、使い方ひとつで、口にする人間の意識のあり方によって、意味が正反対になりうるのである。

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