妄想劇場・番外編
歌:桂 銀淑
作詞:里村龍一:作曲:浜圭介
あなたの心が掴めない
だから寂しい夢をみる
命かけたら 命かけてよ
よって好きだと抱かれるよりは
冷めてしりたい胸の中
97歳と88歳(取材当時)
北杜夫さんの借金電話
五木 それは面白いなあ。佐藤さんは遠藤周作さんや
北杜夫さんともお親しかったんですよね。
佐藤 北さんは昔、同人雑誌で一緒だったの。
当時は東北大学の医学部の学生で、私に
「有名なお父さんを持たれた気分はどうですか?」
と聞くんです。
それで「有名ったって、たかが少年小説で人気があるだけで」
と言ったんですけどね。
後で、彼が斎藤茂吉の息子だと聞いて、「えぇぇ!」。
五木 ご存じなかったんですか。
佐藤 北さんは面白いけど、人が悪いの。(笑)
五木 遠藤さんや北さんなど「第三の新人」といわれた方々は、
いたずら心がありましたね。
僕は北さんとは親しいわけではないけれど、ある時、手紙を
いただきまして。なんだろうと思ったら、「大変申し訳ないけど、
1億円貸してくれ」。(笑)
佐藤 1億円ですか!
私のところには、吉行淳之介さんから電話がかかってきて、
「北杜夫が3時までに800万円ないと大変なことになるので
貸してくれ、と。
佐藤さんはずいぶん貸しているって聞いたけど、
どうしたらいい?」と言うの。
だから「絶対に貸しちゃダメ。北さん、株を買っちゃうから」
と言ったんです。
五木 北さんは躁うつ病(双極性障害)で、躁状態の時は
気が大きくなってバンバン株を買っていらしたそうですね。
佐藤 ええ。その吉行さんからの電話を切って5分も経た
ないうちに北さんから電話があって、「吉行に頼んだけど
ダメだったから、愛ちゃん、貸せ」って言うんです。
それで仕方なく800万円、北さんに貸したの。
五木 えぇ! 貸されたんですか。
佐藤 1億円と言われたら、かえって断りやすいですよ。
五木 確かに断りやすい(笑)。
佐藤さん、お金を貸して実害がなければよかったけれど。
佐藤 北さんの奥さんを信用していたから、お貸ししたんです。
しっかりした方ですから。
五木 そのお金は返ってきました?
佐藤 はい。
五木 えらい! 北杜夫さんからちゃんと取り立てたとは。
佐藤 いや、北さんは踏み倒すことはしません。
その点、別れたうちの亭主とは違うんです。(笑)
五木 『気がつけば、終着駅』の「クサンチッペ党宣言」
ではご主人のことをお書きになってましたよね。
60年代にあのような夫婦観を書かれたのは時代を先取り
していて痛快でした。その前に書かれた『ソクラテスの妻』は、
芥川賞候補になりましたよね。
そして、ご主人の借金騒動を描いた『戦いすんで日が暮れて』
で、直木賞をお受けになった。あれが確か69年。
佐藤 もう、ずいぶん昔のことです。
五木 こうやってお話ししていると、佐藤さんとは共通の知人
がいっぱいいますね。
最後に会ったのは野坂昭如さんの告別式でした。
佐藤 残念ながら、親しかった人で、今も生きている
人はいませんねえ。
五木 皆さん、回想のなかには生きていらっしゃる。
佐藤 そういうことでしょうかね。
軍国日本の歴史と一緒に流されて
五木 実は佐藤さんにお会いしたらぜひ伺いたかったこと
がありましてね。僕はこの歳でも、「まだ生きたい」と
思っている。
何か面白いことはないかと、野次馬根性があるので。
佐藤 それはすごいですねぇ。
五木 たとえば、新型コロナのパンデミックはこの先どう
なっていくのかとか、そういう俗な好奇心で、「これを
見なきゃ」という感じがあって。
佐藤 五木さんがお若い証拠ですよ。
私も昔は好奇心の塊でしたけど、97にもなるとね。
もう世の中の価値観が私とは合わなくなったと感じます。
五木 いやいや、僕は佐藤さんがお書きになっているものに、
すごく共感した言葉がありましてね。
『気がつけば、終着駅』の「前書きのようなもの」でこの
50年を振り返って、「私も流されて来ている」、と。
佐藤 この50年でずいぶんと日本人は変貌してきた、
同時に佐藤愛子も変化している、と書いたくだりですね。
五木 僕は『日刊ゲンダイ』で創刊以来、45年間ずっとコラム
を書いてまして、その題名が「流されゆく日々」というんです。
かつて石川達三さんが、「流れゆく日々」という連載をお書き
になっていた。時代はどんどん流れていくけれど、
オレは岩のように流されないぞ、と。
僕は石川さんをすごく尊敬していたけれど、自分はゴミと
一緒に海に流れていこうというつもりで「流されゆく日々」
にしたのです。
佐藤 そうでしたか。
五木 僕は他力主義なので、失敗しても気に病まずに
生きていけるのです。
佐藤さんの「時代の流れが面白い」という文章を読んで、
こういうことを考えているのは自分だけではないんだと、
すごく心強く思いました。
佐藤 私は五木さんのおっしゃる他力主義とは違うんです。
どんなにがむしゃらに生きていたって、大きな時代の流れの
中では流されざるをえない、ということなんですね。
たとえば私が小学校に入った頃から満洲事変や日中戦争
があって、女学校を出たらアメリカとの戦争が始まった。
あの頃は、軍国日本の歴史と一緒に流されていきました。
新型コロナの「自粛警察」と隣組
五木 満洲事変は僕が生まれる前年です。生まれた年に
五・一五事件があって、5歳の時に南京陥落の旗行列
があった。
子どもの時に歌っていた童謡が「僕は軍人大好きよ」
でしたから。
佐藤 ああ、そんな歌もありましたね。戦争中のことで、
思い出すと笑わずにいられないことがあるんです。
藁人形を作ってルーズベルトとかチャーチルの名札を
つけて、走っていって竹槍で「えいっ!」と突き刺して
いたでしょう。
五木 それが当時は、おかしくもなかったわけですから。
佐藤 私は、おかしかったですよ。なぜこんなこと一所懸命
やるんだろう、と。どこかで客観的に見ている自分が
いたのね。
五木 ふーん。年齢の違いかもしれませんね。
僕のほうが9歳下なので。
佐藤 ははあ、五木さんは真面目な軍国少年だった
わけですね。
五木 当時は批判精神なんてなかったですから。
14歳から少年兵に応募できることになっていたので、
絶対に応募する気でいました。
佐藤 少年航空兵の少年たちは、自ら進んで行ったん
でしょうね。
五木 そうだと思います。当時、少年たちの憧れの存在
といえば、加藤隼戦闘隊長とかでしたから。
海軍の予科練、少年飛行兵(陸軍飛行学校)などいろいろ
あって、中学2年になったらどこでも受けられる。
一日も早く軍人になってお国のために、と考えてました。
佐藤 世の中のありようによって、そういうふうに人間が
作られてしまう、ということでしょうね。
五木 それは一朝一夕にできることではないですね。
明治以来の忠君愛国主義みたいなものが、ずっと
積み重なってきてのことなんでしょう。
佐藤 防空演習は、毎日のようにやらされました。
ご近所に林長二郎さんという方がいらしてね、
長谷川一夫さんともおっしゃった当時の大スターですけど、
この方の奥様が町内の防空演習のリーダーをやってらした。
奥様、お元気な方で、朝の8時に「集まれ」と叫ぶんです。
しょうがないからモンペはいて出ていくと、町内で
戦争ごっこみたいな訓練をやらされるの。
私は伝令の役で隣町まで駆けていって、
「敵機は今、御前崎に侵入」とか言うんですけど、
一人で走りながら内心おかしくてねぇ。みんな
大真面目なのが。…
五木 僕は子ども心に、隣組というのがイヤだったなぁ。
地域のボスみたいな人が組長をやっていて、夜中に
見回りにくるんですよ。
電灯の明かりが外に漏れていると、すごい勢いで
怒鳴りこんでくる。
佐藤 そういう時代でしたね。
五木 だから今回の新型コロナで、他人の行動に厳しく
意見する「自粛警察」みたいな現象が出てくると、
つい戦争中の隣組を思い出してしまうんです。
反射的に「とんとんとんからりと隣組」なんて当時の歌の
歌詞を思い出してしまったりして。
佐藤 五木さんとは感じ方はそれぞれだけど、
同じ時代を生きてきたのですね。
五木寛之 作家 1932年福岡県生まれ。
57年早稲田大学ロシア文学科中退後、ルポライター
などを経て66年『さらばモスクワ愚連隊』でデビュー。
『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞受賞。
『青春の門』で吉川英治文学賞。
『親鸞』で毎日出版文化賞特別賞。など著書多数
佐藤愛子 作家 1923年大阪府生まれ。
63年『ソクラテスの妻』が芥川賞候補になり、
69年『戦いすんで日が暮れて』で直木賞、
79年『幸福の絵』で女流文学賞、
2000年『血脈』で菊池寛賞を受賞。
17年、旭日小綬章を受章。
近著『九十歳。何がめでたい』『気がつけば、
終着駅』はベストセラーに。
しかし一向に症状は改善せず、服薬を続けることに疑問
を抱き"減薬・断薬"を決意。
減薬の病院なんて、時流にのって小狡いだけ
世界初の「薬やめる科」を創設した熊本の「松田医院
和漢堂」の松田史彦医師は、どちらかというと目立たない
よう診療活動をしているが、
「目立つ断薬活動」として、日本でもっとも有名なのは
内海聡医師だ。
10万部のベストセラーとなった『精神科は今日も、
やりたい放題』の他にも著書多数。
東京の御徒町で「Tokyo DD Clinic」を開業して断薬サポート
を続けているが、 こちらは3ヵ月待ちの状態。
さらにNPO法人「薬害研究センター」を主宰し、精神薬だけ
でなく、広く薬害についての啓蒙活動を続けている。
内海医師は、実際の断薬のプロセスから製薬会社などの
裏事情まで多肢にわたる。
精神医療界の話は前掲書などが詳しく、 また断薬にいたる
具体的なプロセスは『心の病に薬はいらない!』に詳しく
記載されている。
挑発的かつ過激な発言によって賛否が分かれ、大胆な
発言ばかりがクローズアップされているが、上野の
クリニックで内海医師に実際に会ってみると、
非常に繊細な感性をもつ医師だと感じた。
熊本の松田先生は、精神薬が麻薬と同じというのは
その通りで、睡眠薬も同じです。
実際に依存度などは覚醒剤よりも強い。
睡眠薬はゲートウェイ・ドラック(薬の入り口)と呼ばれて
いるくらいです。
精神医療も『うつ』のキャンペーンが終わったら、今度は
『発達障害』の喧伝をしていますが、精神医療なんて医療界
のスキマ産業でしかない。
発達障害なんて、 テストしたら私だってそういう結果が
出ますよ。新たな患者を作るために、ちょっと個性的な人
は大抵、当てはまるようにできている
確かに学校現場でも、教師があまり生徒と関わらなくなった。
昔だったら生徒が多少問題を起こしても「警察を呼ぶの
は教育界の敗北」という気概があったが、現在はすぐに
警察を呼ぶようになった。
それは時代の流れとして仕方ないとしても、不登校児や
いわゆる問題児への対処が病院まかせの風になってきた。
すでにアメリカでは、教師たちから問題児とされた生徒
を病院に行かせないと虐待と認定され、親が逮捕される
システムになっているという。
日本も今後、そうならないとは限らない。
さらに現在の減薬ブームについても、内海医師は
「減薬の病院なんて、時流にのって小狡いだけ」
と手厳しい。
減薬をうたっている病院というのは大抵、徐々に薬を
減らしてから、最後に少量の薬を残そうとする。
特にこれまでのことを反省している様子もない。
これは患者さんを飼い殺しにする「究極のシステム」です。
減薬して病院を〝卒業〟するのが本来の姿なのに、
全然そうなってない。
薬も1日や2日くらい飲むならまだいいですが、そうはならない。
薬を使うと患者さんも大人しくなるし、医師も楽ができる。
精神科自体が洗脳する学問ですから、
患者さんを洗脳するのに長けているんです。
病院というのは全て、人の病気で金儲けしているのですから、
基本的にネガティブに見た方が良いのです …
幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない