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2005年8月27日 (土)

愛は感情ではない「愛と心理療法」より

 「愛とは、自分あるいは相手の精神的成長のために、自分自身を伸ばそうとする意志である」

恋に落ちるのは意志の行為ではない。意識的な選択でもない。どんなにオープンでいてもどんなに切望しても体験できないことがある。逆に思いもかけない時、不都合で望ましくない時に、それに捕らえられてしまうかもしれない。ふさわしい相手ではなく、明らかに自分に合わない相手に惚れ込んでしまうことがある。

 愛は意志の行為である。ここで「意志」という言葉を用いたのは、欲求と行為の間にあるずれを超越するためである。欲求が必ずしも行為に移されるとは限らない。意思とは、行為に移されるだけの強さをもった欲求である。誰かを愛する時、それは努力--愛する人の成長のために、あるいは自分自身の成長のためにもう一歩踏み出す、あるいはもう1マイル歩くという事実によって初めて顕れる。あるいは真のものとなる。愛は努力なしにはあり得ない。それどころか労多いものなのである。

 われわれの文化では、誰しもある程度人を愛したいと望んではいるが、多くの人が実際には愛してはいない。したがって、愛しているという感情はそれだけでは愛ではない、と私は考えている。愛とは、愛が行なうところのものである。それは意志の行為--つまり、意図でも行為でもあるものである。意思には選択が含まれる。われわれは愛することを強制されるわけではないのだが、愛することを選ぶのである。どんなに愛していると思っていても実際に行為に顕れていないのなら、それは愛することを選ばなかったからであり、善意はあっても愛していないことになる。他方、実際に行為に顕れた時は、いつも、そう決めた、愛することを選んだからなのである。愛は愛の感情があろうとなかろうと、とにかく存在する。愛の感情があった方が愛しやすい--事実楽しい。しかし、愛の感情なしでも愛することは可能である。純粋で超越的な愛がただのカセクシスから区別されるのは、この可能性を実現することによってである。この区別のキーワードが「意志」である。愛とは、自分あるいは相手の精神的成長のために、自分自身を伸ばそうとする意志である。と定義してきた。純粋な愛は、情動的というよりも意思的である。本当に愛する人は、愛する決意に基づいて愛する。こういう人は愛の感情のあるなしにかかわらず、愛することに真剣に関わっているのである。愛の感情のあるにこしたことはない。だが、無い場合にも、愛の関与、愛の意志はなお存在し働いている。

 愛と愛の感情を混同する傾向が広まっているので、さまざまな形の自己欺瞞がおこる。ある男性が、妻子が何よりも彼の配慮を必要としているその時に、酒場に腰掛けて涙を浮かべ、バーテンに「俺は心底から家族を愛しているんだよ」と語りかけているかもしれない。愛と愛の感情を混同する傾向に、利己的な性質のあるのは明らかである。自分の感情の中に愛の証を見出すのはたやすい上に快い。行為のなかに愛の証を見出すのは、難しくかつ苦しい。しかし本当の愛は、一時的な感情やカセクシスをしばしば超越した意志の行為だから、「愛はその為すところのものである」というのが正しいのである。愛の感情には限りがないが、愛する能力には限界がある。従って、愛の能力を集中し愛の意志を向ける相手は選ばねばならない。本当の愛は、飲み込まれてしまいそうな感情ではない。それは真剣に関わり熟考した末の決断である。愛と愛でないものは、善悪がそうであるように客観的な現象で、もっぱら主観的な現象ではない。

 愛は感情ではない。愛の感情を持ちながら、あまりにも多くの人が、およそ愛のない破壊的なやり方で行動している。純粋に愛する人は、愛する喜びを知っている。愛するのは愛したいからのことである。あなたの親が愛情深いとすれば、それはそうありたいと思ったからである。愛することが自分を変えるのは確かであるが、それは自己犠牲ではなく、自分を広げることである。純粋な愛とは自分を満たしていく行為である。それは自分を縮めるよりも拡大する。自分を消耗させるよりも豊かにする。本当の意味で愛は愛でないものと同じくらい自分本位である。ここで、自分本位であると同時に自分本位でないという、愛のパラドクスがある。愛と愛でないものを区別するのは、それが自分本位であるかどうかということではない。何を目的にしているかが問題なのである。純粋な愛の場合、目的はつねに相手のあるいは自分の精神的成長にある。愛でないものの場合、目的はつねにそれ以外のところにある。

 私がここで、言わんとしていることは「愛」という言葉があまりにも一般的であいまいに使われて、愛の理解がひどく困難になっていることである。このような使われ方が変わるとは期待していない。しかし、自分にとって大切なもの、自分がカセクトするものとの関係を説明するのに、質についてはお構いなしに「愛」という言葉を用いる限り、賢さと愚かさ、善と悪、高尚さと卑しさを見分けるのは困難なままであろう。

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コメント

トラバ、有り難うございました。
愛って、えらくカッタルイものなんですね。

投稿: 佐々木 清 | 2006年1月 5日 (木) 14時03分

はじめまして。
トラックバックありがとうございます。
こちら充実していますね。
読み応えがあります。

愛については、
どこまでも深く深く考えて行きたいし、
何も考えずに即、動ける人でもありたい。
そんな思いを持っています。

これからもよろしくお願いします。

投稿: ぽあん | 2005年10月17日 (月) 08時39分

こんばんは!
失恋はどう受け止めたら良いのでしょう。
どうすれば・・・

投稿: フルモニ | 2005年9月 2日 (金) 21時22分

勉強になります。
ブログの更新楽しみです。

投稿: フルモニ | 2005年8月27日 (土) 17時44分

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