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論文紹介 今こそ読まれるべきバイオセキュリティ(biosecurity)の論文3本を紹介する

2019å¹´12月に中国の武漢で確認されたCOVID-19、新型コロナウイルス感染症は、2020å¹´3月までの3カ月間で世界的な広がりを見せています。
この感染症によってすでに世界経済に甚大な悪影響が生じており、今後の安全保障環境に影響が生じることは避けられない情勢です。

このような生物的脅威(biological threat)が安全保障学の研究として認識され始めたのは比較的最近(1990年代以降)のことであり、2020年現在でも独立した研究領域としては未発達な状態です。
しかし、先見の明がある何人かの研究者がこの問題について先駆的な研究を発表しています。

今回の記事では、アメリカのシンクタンクであるベルファー・センターが推薦した生物的脅威に関する研究論文から3本を取り上げ、その内容を紹介してみたいと思います(Crisis Reader: Biosecurity and the Global COVID-19 Outbreak)。
安全保障学において、生物的脅威に関する研究がどのような成果を上げているのかを広く知らせ、今後の研究の参考として頂くことが、本稿を書いた目的です。

「バイオセキュリティの再考」(2010)

米ソ冷戦終結後、安全保障(security)の概念は非軍事的領域にも拡大して適用されるようになりましたが、その非軍事的安全保障の一部としてバイオセキュリティ(biosecurity)という言葉が使われるようになりました。
しかし、このバイオセキュリティという概念は明確な定義が欠けており、組織や研究者によって何を意味するのかはっきりしていなかったのです。
生物兵器を使用した戦争やテロリズムの脅威を想定するものから、自然発生したウイルスなどの生物的脅威を想定するものまで、さまざまな考え方がばらばらに使われていました。

この論文が書かれた動機は、このような概念的な混乱を収束させ、バイオセキュリティが何を意味するのか、どのような観点から分析するのかを研究者の間ではっきりさせることでした。

その際に著者は、自然界で偶発的に発生した生物的脅威から、人為的にもたらされた生物的脅威まで、さまざまなリスクを包括的に取り入れた分類法を構築しようと試みています。

著者が提案した分類方法では、生物的脅威の発生源を国家(state)、非国家主体(nonstate actors)、自然環境(nature)の3種類に区別し、危険に晒される集団を国家とそれ以外の個人・共同体・社会(individual, community, or society)の2種類に区分しています。

この枠組みを使って、著者は生物的脅威の形態を6種類に分類しており、本稿では個別の議論には踏み込みませんが、それぞれの脅威に異なる特性があり、それに対応した対策が必要になることを論じています。

これは非常に先駆的な研究として評価することができます。バイオセキュリティを安全保障学の一領域として位置付けるだけでなく、理論的な枠組みを整備しており、その妥当性は現在でも大きく損なわれていません。今後、生物的脅威に対処するためのバイオセキュリティの理論的研究として広く参照されることになるでしょう。

Koblentz, G. D. (2010). Biosecurity Reconsidered: Calibrating Biological Threats and Responses. International Security, 34(4), 96–132. doi:10.1162/isec.2010.34.4.96 

「HIV/AIDSとアフリカにおける戦争様相の変化」(2002)

この論文は、ヒト免疫不全ウイルス(Human Immunodeficiency Virus, HIV)に感染することによって引き起こされる後天性免疫不全症候群(Acquired Immunodeficiency Syndrome, AIDS)がアフリカ諸国における武力紛争にどのような影響を及ぼしていたのかを調査したものです。

その調査の内容は驚くべきものです。それによれば、HIVの感染はアフリカ諸国の軍隊で広範囲に確認されており、2001年の時点でサハラ砂漠以南のアフリカ諸国で合計2850万名の軍人に陽性反応が確認されていました。

この状況を深刻に受け止めたアメリカ政府は、いくつかのアフリカ諸国を選び出し、軍人の有病率を調べています。その調査ではアンゴラ軍40%~60%、コートジボワール軍10%~20%、コンゴ民主共和国軍40%~60%、ナイジェリア軍10%~20%などとかなり深刻な数値が報告されています。

HIVはアフリカ各国の軍隊の人的戦闘力を著しく低下させており、専門技能を有する人材を長期的に確保することを非常に難しくしています。著者もHIVのためにアフリカ各国の軍隊の戦闘効率が大幅に引き下げられているという見方を示しています。

さらに軍事的観点から注目すべき事象として、一部の武装勢力がHIVの感染者をあえて戦地に投入し、組織的な性的暴行を通じてHIVの感染拡大を意図的に推し進めていることが報告されています。

やはり統計データを入手することはできませんが、例えばシエラレオネ内戦を監視しているヒューマン・ライツ・ウォッチ(Human Rights Watch)の報告書でこの種の攻撃が実施されていることが記述されています。

また、ルワンダ内戦のケースでも、ルワンダの保健相ジョセフ・カレメラ(Joseph Karemera)が内戦で身柄を拘束された女性がHIVに感染した兵士のところに連れていかれ、暴行された事例があったことを報告しています。

2020年現在でもアフリカはHIVの新規感染者の数が世界の中でも特に多い地域です。著者は結論でHIVがアフリカの軍事情勢に与える影響を軽視すべきではないことを指摘しています。

Elbe, S. (2002). HIV/AIDS and the Changing Landscape of War in Africa. International Security, 27(2), 159–177. doi:10.1162/016228802760987851

「両刃の剣」(2003/2004)

この論文の狙いは、2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件を踏まえ、生物兵器を使用したテロ攻撃に対する防御措置の現状とその課題について検討することです。

生物的脅威に対応するためのバイオセキュリティでは、ワクチンが非常に重要な戦略的価値を持っているのですが、著者はアメリカで十分な準備や開発が行われていないことを問題視しました。

例えば、アメリカで生物的脅威として指定された感染症は49種類特定されていますが、保健福祉省(Department of Health and Human Services, HHS)に認定されたワクチンで、それらで対応できるのは炭疽、コレラ、ペスト、天然痘の4種類だけであり、いずれも1970年代以前に開発されたワクチンであると述べられています。

1994年にアメリカの国防総省は生物兵器の脅威に対処するため、統合ワクチン調達プログラムを立ち上げ、8種類のワクチンの新規開発のために7億4700万ドルを支出したことがありますが、論文が執筆された2003年までに新たに認可されたワクチンは報告されておらず、まだ開発は成果を上げていません。

著者は新たなワクチンを開発するための費用は平均で5億ドルから10億ドル程度と見積もられるという趣旨の専門家の証言を紹介しており、依然としてワクチンの開発体制に十分な資源が配分されているとはいえないことを指摘しています。

これ以外にも著者は規制の問題についても触れており、ワクチンを開発する上でどのような規制が望ましいのか、国際協調をどのように推し進めるべきかなどの論点についても政策的観点から考察しています。

グローバル化が進んだ世界で生物的脅威に対処するために国際協調が一層重要になると著者は考えており、ワクチンの開発のための国際レジームを構築する必要を結論で主張してます。

世界規模で感染が拡大するリスクがある以上、ワクチンの開発においても国家間の協調を促進することができるような制度を模索すべきという著者の主張は、今後ますます重要な意味を持つでしょう。

Hoyt, K., & Brooks, S. G. (2004). A Double-Edged Sword: Globalization and Biosecurity. International Security, 28(3), 123–148. doi:10.1162/016228803773100093

むすびにかえて

現在、バイオセキュリティはかつてない注目を集めており、今後日本でも広くその知見が共有される必要があるでしょう。今回の記事で取り上げた論文で個人的に特に重要性を感じたのは最後の「両刃の剣」であり、ここで指摘しているワクチンの問題は間もなく世界中で議論されるはずです。

開発に1年以上の時間がかかることや、莫大な資金が必要になることなど、著者はバイオセキュリティの政策を考える上で考慮すべき事項を総合的に考察しており、結論の政策提言も今後の対策の方向性を考える上で参考になると思います。

(写真:U.S. Navy Photo)