2010年11月20日 (土)

System を考える -28-

第6章 組織論の見直し

1.組織の定義

(1) 公式組織の定義

▼企業,大学,病院,労働組合などがすべて「組織」であるという場合,「組織」とはこれらに共通するある側面を意味している。
企業や大学等は,それぞれ目的も違うし,必要とされる設備,そこに働く人々の特性,また彼らの社会的な相互作用パターンも異なっている。
それにもかかわらず,それらを一般に「組織」と呼ぶのは,そこに「組織」と呼ぶことのできる共通の何かが存在するからである。

▼厳密な定義を導入しよう。
企業,大学,病院その他は,厳密には「協働体系(cooperative system)」という。
協働体系とは,「少なくともひとつの明確な目的のために,2人以上の人々が協働することで,特殊な体系関係にある,物的・生物的・個人的・社会的 構成要素の複合体」である。
それぞれの協働体系に,前述した差異がみられるのは,この定義の中の,目的・物的・生物的・個人的・社会的 構成要素,並びに,それらの特殊な体系的関係のあり方に差異があるからである。

▼したがって,厳密な意味での「組織」は,(Barnard [1938] によると,
あらゆる協働体系に共通した「2人以上の人々が協働する」という表現に含まれる体系として定義される。即ち「組織」とは,
  「2人以上の人々の,意識的に調整された諸活動,諸力の体系」

▼「Barnard の定義」の特徴は,
  ①それが比較的少数の変数しか含まないために,高い操作性をもち,
  ②広範な具体的状況に妥当する本質的な概念であり,
  ③その概念的枠組みと他の体系との関係が有効かつ有意義に定式化できる

(続く)

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2010年11月15日 (月)

System を考える -27-

5. 社会構築主義とは

現実 (reality),つまり現実の社会現象や,社会に存在する 事実・実態・意味とは;
すべて人々の頭の中で(感情や意識の中で)作り上げられたものであり,それを離れては存在しないとする,社会学の立場である。

社会構築主義の焦点は,個人や集団がみずからの認知する現実 (reality) の構築にどのように関与しているかを明らかにすることである。

そのため,さまざまな社会現象が,人々によってどのように創造され,制度化され,慣習化していくかが問われることになる。

・社会的に構築された現実は,絶え間なく変化していく動的な過程として捉えられる。
・現実を人々が解釈し,認識するにつれて,現実そのものが再生産されるのである。
・全ての認識は,日常生活の常識扱いされ軽視されているものまで含めて,
    社会的相互作 用を基にして構築され,維持される。
・人々は相互作用を通じて,互いの現実認知が関連していることを理解する。
・この理解に立って行動する時,人々が共通して持っている現実認知が強化される。

★現実とは,社会的に構築されたものである。

★社会的構築物とは,それを受け容れている人々には,自然で明白なものに思えるが,
   実際には,特定の文化や社会で人工的に造られたにすぎない観念を指す。

例えばニートという言葉は,産業化の度合いが低く失業者や失業に近い状態の労働者が多い社会では存在しないし問題となることもない。多くの一般人がニートであるからである。

しかし,ある特定の社会ではニートという言葉が作られ問題にされるのである。事実,日本語では最近まで,居候や遊び人という言葉はあったがニートという言葉はなかった。日本語には,社会という単語も存在しなかった時期が長かった。

(以上)

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2010年11月11日 (木)

System を考える -26-

4.「社会」の消滅から「厚生」へ (1,2)

(1) 政治的な言葉としての「社会」は,日本で今や衰滅しつつある

1904年「社会民主党」が結成され,即座に禁止されたとき,当局が最も恐れたのは「社会」という言葉ではなく,「民主」という言葉の方だった。

「民主」に比した,「社会」という言葉に対する,こうした寛容ないし無関心は,その後もしばらく続く。それどころか,「社会」という言葉は,「民主」とは対照的に,1910年代後半以降,公的に承認され,制度化さえされていくのである。

▼「社会」という言葉をこのようにますます強く,また大きくしていった内務省は,
    1928年3月 に約1600名の「社会」主義者を検挙し(3・15事件),
    1929年4月 には各大学の「社会」科学研究会を解散に追い込んでいく。

「社会」という言葉をめぐる内務省内部の矛盾が, 1938年1月に「厚生省」という当時としては奇妙な名前の組織を生み出す一因となった。

この新省は当初,内務省の外局となった「社会局」を「衛生局」と合体させ,内務省から独立させるという形で構想されたが,その名称に「社会」という言葉は,入らならなかった。

新省設立にあたって,首相の近衛文麿は「社会保健省」という名称を,また陸軍省は「保健社会省」という名称を提案したが,結局,後者をとり1937年7月に「保健社会省(仮称)設置要綱」が出された。

しかし,最終的には「衣食を十分にし,空腹や寒さに困らないようにし,民の生活を豊かにする」という意味の「厚生」という言葉を,故事から採ることとなった。

▼「社会」という言葉を一方では肯定し,他方では否定するという,1928年以降,特に顕著になった内務省内部の矛盾が,「厚生」という全く別の新奇な言葉を採用することで,一挙に解消されたのである。

▼以後,状況は逆転し,「厚生」あるいは「福祉」という言葉の方が,今日の私たちには「なじみ深く」,ドイツやフランスの「社会的な国家」という表現は,むしろ私たちにとって「ピンとこない」ものになってしまった。それは,「社会的」という言葉をふり回しつつ,その意味については全く鈍感な,今の日本の社会学者に顕著である。

(2)「社会」という言葉を「厚生」へと置き換えた。

この置き換えが,その後もたらしたものに,少なくとも2つのことがあげられる。

▼第一は,この置換とともに,国民国家という同質性の原理が強化されたことである.

「社会政策」というのは「階級間の対立・抗争」を緩和するものだが,今や「階級対立の歴史観などは最も非国民的なもの」とされつつあり,今必要なものは,「民族的結束」である。だから,「社会省」ではなく「厚生省」になったとする説がある.

「社会的なるもの」は「個人主義,利己主義を原理とする」ものにすぎず,それが今や「国家的なるもの」へと脱皮しつつあり,後者が「原理とするところは,国への奉仕であり,報国の精神であり。それは所謂,全体主義である」。

さらに,「厚生」という,いかにも暖味な言葉の登場は,「日本的厚生」の中心課題が,1938年5月公布の「国家総動員法」によって公式に言及された,「人的資源」の育成及び培養に求められたことである。

「社会的」という言葉は,常に二重の意味をもっており,それは,平等へと向かう実践であると同時に,人間自身が生み出す不平等の確認を私たちに迫る。

しかしながら, 「厚生」という言葉によって「社会」が一方的に抑圧されたと見るならば,事態を見誤ることになろう。

▼第二に,「社会」という言葉の「厚生」への置換は,「社会」の側にいた人びとの転向である。

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System を考える -25-

3.日本の 社会科学

日本における「社会科学」の誕生について,高島善哉は,1954年に出版された『社会科学入門』(岩波新書)の中で,次のように述べている。

長い間 わが国で 「社会科学」 は,手を触れてはならぬ,禁断の木の実であった

▼長い間わが国で「社会科学」は,手をふれてはならない禁断の木の実であったが,終戦とともにこの禁は解かれた。そして社会科学という言葉は,「社会科」という言葉と同様に,国民にとって非常に親しみやすいものとなり,一つの日常の用語となった。

▼ことに,太平洋戦争にいたるまでの数年間が,社会科学の研究にたいする徹底的な弾圧の期間であった。そして,終戦後日本における社会科学の発展が,日本社会の民主化の流れと,切っても切れない関係をもつようになった。

▼こうした事情が結びついて,社会科学とは,なにかしら好ましくない学問であるといったような印象が,一部の国民の問にまだ残っている。

▼日本において社会科学は,1930年頃から徹底的な弾庄を受け,手をふれてはならない禁断の木の実となり,そのため戦後もしばらくは,なにかしら好ましくない学問」と見られていた,ということになる.

▼私たちは今日「社会科学」という言葉は,法学,政治学,経済学,社会学等の分野を束ねる上位概念である。そして,学問というものは,日を追うごとに専門分化するものなのだから,社会科学というものがまず最初に誕生し,その後,法学その他の個別分野が生まれたのではないか と考えがちである。

▼しかしそうではない。「社会科学」という日本語は,一番,最後に生まれたのである。
同じ「社会」のつく「社会学」や「社会政策(学)」という日本語が流通し始めるのは1890年代だが,「社会科学」という言葉そのものが流通するようになるのは,その約30年後の1920年代前半であり,しかも当初は非常に限定された特殊な意味をもっていた。

誕生当初「社会科学」という日本語は「マルクス主義」「共産主義」とほほ同義だった。

ここに「社会科学」という言葉をめぐる,英・仏・独の言語圏と日本語圏の大きな違いがある。「社会科学」という言葉が,日本の「知識人にとって特殊の呪縛力をもつようになったのは,「学生社会科学運動」が起こった1923年ごろから以降のことであり,「社会科学」という日本語そのものは,1923年ごろ以前には存在しなかった。

社会党がその典型だが,政治的な言葉としての「社会」もまた「社会主義」によって独占され,社会的な国家(福祉国家)さえも,社会主義への道を塞ぐものとして批判された。

この現象は,おそらく偶然ではないだろうが,マルクス主義によって社会科学を独占した,1920年代の学生社会科学運動にコミットした人びとの多くが,戦後も社会党のあり方に対して,無視できない影響力を行使したからである.

だが,この独占の代償として,ベルリンの壁の崩壊やソ連の解体とともに,政治的な言葉としての「社会」が1990年代以降の日本で衰滅するという共倒れ現象が生じたのである.

日本の状況は,たとえば,最新型だと思って買った製品があっけなく壊れたので,幻滅と憤怒にかられ,それとは全く別の規格品に一気に乗り換える,思慮の浅い消費者にも似ている。

★ぶっこわれた最新型の製品とはマルクス主義であり,他方,,別の規格品とは (カタカナ語の) リベラリズムであり,場合によっては,18世紀の政治経済学の最新版である「新古典派の経済学」である。このぶれの激しい極端な思想的消費行動によって,「社会」という日本語もまた,極端に痩せ細ってしまった。

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System を考える -24-

2. 社会科学の誕生 (1,2)

(1) 社会と国家

R.モール(1799-1875)は,G.W.F.ヘーゲルを次のように批判した。「ヘーゲルの[市民社会]概念は,何の生命力もないものであり,国家から独立して生きる有機体でもない。それは,この学派の哲学全般で採用されている,「正・反・合」というシナリオの真ん中に来る,単なる理屈上の通過点にすぎない と。

個々人がばらばらの「家族」が,欲望の体系としての「市民社会へと,一度,解体されたものの,「国家」によって再び,しかし今度は,真の共同態が再興される。というのが,ヘーゲルの『法哲学』の粗筋だが,これに対してモールは,「社会」に生命を吹き込みながら,これを「国家」に対置しようとした。

★だが,「社会」が,生命をもつ有機体であるためには,
    そこに,何らかの有機的な結びつきがなければならない。

▼モールは, 「社会」において人びとを互いに結びつける核を 「利害=Interesse」 に見出し,ある利害を共有する人びとごとに 「仲間組織=Genossenschaft」 が形成され,この仲間組織がゆるやかに結びついて生まれるのが 「社会=Gesellschaft」で ある,とした。

▼そして最後に,「社会とは,ある特定の地域 (たとえば国家や大陸) 内に,実際に存在している,社会的な諸組織を総合したものである。」とした。

社会が,複数以上の利害および仲間組織によって構成される以上,それは,多元的なものなのである。しかも,社会の側からだけでなく,個人の側から見ても,多元的なのである。即ち,個人は,いくつもの異なる利害をもつ。それがゆえ,複数以上の仲間組織に同時に帰属することが可能なのである.

▼もう一つ重要なのは,モールの言う「仲間組織」は,「社会」が「国家」という枠組とは一致せず,それを超えさえする,ということである。

▼モールの「社会」概念は, ①多元性を開示し,②「国家」という枠組を様々な観点から脱臼させるのだが,この2点を H.トライチュケ(1834-1896)は,「人民=民族 Volk」という概念を提示しながら,真っ向から批判し,統一体としての国家の重要性を再度,強調した。

▼1876年にシュタインは,次のように言う.
「国家はあらゆる階級を超越するものでなければならない。なぜなら,国家権力が,
  特定の一階級に帰属するようになれば,自由はことごとく消え失せてしまうからである。

▼国家はさらに,あらゆる階級の違いを超え,すべての自律的な個人に対し,法の完全な
  平等を,その力で維持しなければならない。

★この意味での「国家」を,
  私たちは,「法治国家」と呼ぶし「社会」ないし「社会的な国家」とも呼ぶ。

(2) 個人主義 という言葉

▼西洋諸言語圏における「社会科学」の誕生に関する考察を終えるとき,その次に来るのものは,「個人主義」という言葉の誕生である。

【19世紀中頃の文筆家たちは,「個人主義」が,同時代の政治的・社会的秩序を掘り崩す,深刻な災悪であると確信していた。その一方で,「個人主義」はまず,それを攻撃する人びとによって導入され,徐々に,その支持者たちによって使われるようになったのである】

▼「社会科学」と同様,「個人主義」という言葉も,それが最も早く現れるのは仏語であり,そこでは,サンーシモン学派が大きな役割を果たした. 「サンーシモン自身は,それ以前から広く用いられていた anarchie や egoisme という言葉を,啓蒙主義とフランス革命にょってもたらされた,不十分な心性の特徴として使い続けた。

▼ドイツでも「個人主義」に批判的な人びとが,まずこの言葉を使い始める。ドイツでは, F.W.カローベのサンーシモン学派との対話を通じて,この言葉は,その政治的な意味合いをもって流布された。そこでは「協同ないし連合の精神」とは正反対のもの,利己主義に結びついたもの,と説明している。

▼最後に英語圏だが,「個人主義」という言葉は,まずオーウェン社会主義の内部で,やはり否定的な意味で用いられた。

G.クレイズは,「私の知る限り individualism という英語が初めて用いられた際,それは否定的な意味で広く用いられた,と述べている。
オーエン主義者の S.オーステインは,「金銭欲」や「蓄財,誉れ,身分,特権,支配への欲望」といった「同情心の欠如と個人主義といった動機」は,人類全体の利益のために社会主義の運動が達成しようとしている [共同体]には全く無縁のものである。と述べている。

★つまり,「個人主義」という言葉は, 1820年代から30年代に各言語圏で生まれるが,それは「社会科学」という言葉を立ち上げたのと同じか,または,それに近い勢力によって,まず否定的な意味合いで用いられた。

★「個人主義」と「社会科学」は当初,相互に対立するものだったり,「個人主義」でないものが「社会科学」であったり,という構図だった。
この「個人主義」を,一つの「社会的事実」として扱い始めたとき,社会科学の内部に大きな断層が刻み込まれた。

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2010年11月 5日 (金)

System を考える -23-

1 社会的なものの系譜と批判  (2,3)

(2) ここで用いられている「社会的」という言葉ほど,今の日本の社会学者にとって耳慣れない,また縁遠い言葉は,ほかにないかもしれない。

英語以外の言語に対する感受性の低下も一つの要因だろうが,今の日本の社会学者で,この「社会的な国家」が何を意味するのかを即答できる人は,そう多くないはずである。

▼ドイツやフランスの「社会的な国家」にほぼ相当する日本語は,「福祉国家」である。だが,ここで重要なのは,そういう事実そのものではない。すなわち,日本ではもっぱら「福祉国家」という表現だけがなされ,これを「社会的な国家」と表現することが皆無に等しいのは,なぜなのか。「社会的な国家」の近似物として,私たちが即座に「福祉国家」を思い浮かべることができないのは,一体なぜなのか,である。

▼その延長線上で,私たちが気づくべきなのは,「社会的」という日本語をめぐる,ある欠落である。つまり,「social」「sozial」という仏語や独語に込められてきた何かが,しかし「社会的」という日本語では,少なくとも今日,忘れかけており,さらに,その忘却自体が,忘却されているという事態である。

▼日本のみならず,広く非西欧の社会は,社会科学を西欧から輸入しており,日本の社会科学で用いられる概念の大半も翻訳語なのだが,その翻訳の過程で,微妙なずれと屈折が生まれた。たとえば,西欧では,「家族」を超越した位相に置かれる国家が,国「家」と訳され,さらにそこから「家族国家」なる奇妙な概念が派生することなどである。

▼同じことは「社会的」という言葉にも言えるだろう。 "social" "sozial"という言葉が, 「社会的」という日本語に置換されるとき,そこで何かが欠落するのだが,そのこと自体は気づかれず,さらに,この翻訳語が馴れ親しまれ,そのずれと屈折は一層,見えにくくなっていく.しかも,この種の忘却は,「社会的」という日本語に関するかぎり,皮肉にも,一般の人びとより,おそらく当の社会(科)学者に顕著なのである.

(3) いくつかある「社会的」という言葉の語義のうち,現在の日本の社会(科)学からは最も縁遠いのが,この第四の社会的なものである

▼この第四の社会的なものには,同時に,第ーから第三の意味が重層的に折り込まれている。それは,「自然」に回収されるものではない。それは,「個人」以上の何ものかを指し示す言葉であり,歴史的にも,「社会科学」という言葉は,後述するように「個人主義」という言葉と,ほぼ同時期に誕生し,なおかつ,これを批判的に超克するものとして構想された。さらに,「社会的」という言葉は,国家と社会という弁別をその内に潜在させている。

先のドイツやフランスの憲法規定のように,「社会的」なものは「国家」と接続可能であり,それには然るべき理由もあるのだが,他方でそれは「社会」という言葉とも接続可能である。

つまり,いかに奇妙に聞こえようとも「社会的な社会」というものをーーたとえば市場原理にのみ支配される「市場社会」に対置しながらーー語ることが,少なくとも論理的には可能なのである。国家の廃絶というマルクス主義の主張は,その当否は別として,社会的なものを国家から社会に移譲させる試みだったと言えよう。

▼「社会的な社会」という表現が,たとえば「赤い花」という表現と同等に有意味であるためには,社会的という言葉が,特定の価値を志向する規範概念として,機能しなければならない。
そして,このことの中に,社会学(者)が第四の社会的なものを忘却するに至った,一つの大きな理由がある。その忘却は,少なくとも当初は,積極的かつ意図的になされたのであり,社会学は「価値自由」という原則を自らに課しながら,「社会的」という言葉から規範的要素をそぎ落とし,これを可能なかぎり抽象化してきたのである。

▼第四の社会的なものの概念を明らかにするためには,したがって,社会学がこの言葉に対しておこなってきた脱規範化と抽象化のプロセスを,時計の針を巻き戻して,逆向きに辿らねばならない。

▼しかしながら,なぜ,そうまでして社会的なものの概念の古層を掘り返し,これをあらためて認識の対象としなければならないのか.それは,社会的なものの概念が,今まさに一つの終焉を迎えているからにほかならない。

19世紀から20世紀にかけて,誕生と成長と,そして一つの完成を見た社会的なものが解体しつつある今だからこそ,その軌跡を「灰色に灰色を重ねて」描かねばならない。だが,そうしてなされる認識は,古色蒼然とした社会的なものへの単なる郷愁に帰着してはならないだろう。

★最も身近なものが最も縁遠いものだ,ということについて, F.W.ニーチェも次のように述べている。

「われわれは,われわれに知られていない.われわれ認識者が,すなわち,われわれ自身がわれわれ自身に知られていない.それもそのはずである.われわれは決して,われわれを探し求めたことがないのだ」  ーーー(木場深定訳『道徳の系譜』岩波文庫, 7頁)

★「社会的」という言葉を振り回す日本の社会学者もまた,自分自身を知らないし,探し求めたこともないと思う。
しかし同時に,ニーチェは,自分自身に関する「認識」に止まってはならないとも警告する。

「我々はいつまでも,我々自身にとって必然に赤の他人なのだ。我々は,我々自身を理解しない。我々は,我々を取り違えざるをえない。・・・我々に対して我々は,決して[認識者]ではないのだ。」 ーーー(同前, 8頁)      (続く).

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2010年11月 3日 (水)

System を考える -22-

                      第5章 社会科学の誕生 1/4

      ★デジタル技術の高度な進化によって,情報通信技術が極度に発達し,
        そのゆくへさえ見えない現今である。
      ★別の面から見ると,最先端科学技術として解明が続いている,
        ロボット工学,ナノテクノロジー,そして,遺伝子科学 がある。
      ★何れの分野でも,その核心には,留まるところを知らない進化を続ける,
        コンピュータ技術が欠かせない。
      ★それら,進化する科学技術が,私達の住む世界,あるいは社会を,
        構造化し,システム化し続けている。
      ★これまで,社会は,システムとして取り扱えないとしていたが,
        最近は,社会の殆どの現象をシステムとして扱おうとしている。
      ★そこで,「社会」あるいは「社会・・・」なる言葉の由来について,
        簡単に振り返ってみようと思う。

1 社会的なものの系譜と批判

1980年代以降,日本の社会学においても「言語」に,大きな関心が寄せられるようになった。

L.ヴイトゲンシュタインの「言語ゲーム」論は,一部の社会学者によって注目・再評価されるようになった。「言説分析」なるものも一つの方法として導入が試みられている。

★社会構築主義(社会的構築主義/社会構成主義,social constructionism or social constructivism)とは:ーーー現実(reality),つまり現実の社会現象や,社会に存在する事実や実態,意味とは,すべて人々の頭の中で(感情や意識の中で)作り上げられたものであり,それを離れては存在しないとする,社会学の立場である。(後で概要を説明する )

しかし,社会学のこうした言語への注目は,まだ不徹底なものに思える。というのも,社会学,あるいは広く社会科学が用いてきた言語そのものの自省的分析が,まだ十分にはなされていないからである。社会学者もまた,言語を駆使しながら,一つの世界を,一つの現実を構築する。そのプロセスも考察と分析の対象になるはずなのだが,この部分にはさほど光があてられていない。

G.W.F.ヘーゲルが言うように,「およそ見知られたものは,それが見知られているがゆえに,認識されてはいない」(『精神現象学』序文).あるいは, M.ハイデガーが言うように,私たちは,距離的には最も近くにあるものを,まず見落としたり,聞き落としたりするのが常であり,たとえば,道具として使用中の眼鏡は,文字通り,目と鼻の先にあるにもかかわらず,当人にとっては,自分の眺める正面の壁の絵よりも,ずっと遠いものである(『存在と時間』第23節)。

それと同じように, 「社会」という言葉,あるいは「社会的」という言葉は,社会学(者)にとって最も見知られた,最も近くにある言葉であるにもかかわらず,社会学(者)からは最も遠い言葉であると言えるかもしれない。

たとえば,構築主義の社会学は,セクシュアリティ,ジェンダー,エスニシティ,ネイション,アイデンティティ等々,ありとあらゆる事象が,言語を媒介としながら「社会的」に構築されているのだと主張する。他方では,ここで振り回される「社会的」という言葉が,実のところ何を意味し,また逆に何を意味しないのか,さらに,社会学自身が,この「社会的」という言葉によって,いかなる現実を構築しているのか,また逆に構築し損ねているのかについて,踏み込んで考える必要があるだろう.

(1) 本稿で扱うのは「社会」という言葉ではない。「社会的」という言葉である。

つまり,何らかの実体を想定させる「社会」という名詞ではなく,ある種の様相や様態,さらには運動を表現する「社会的 social」という形容(動)詞と,そこから派生する「社会的なもの the social」という概念が,本論のテーマである。

「社会的」という言葉は,おそらく社会学で最も多用される言葉ではあるが,その意味するところは,きわめて索漠としており,各種の社会学辞典でも,独立の項目として説明の対象になることはない。社会学の中核にありながら,当の社会学によってはまともに説明されないのが,「社会的」という言葉の不思議さである.

▼第一は,ギリシア語の「ピュシス」と「ノモス」として分類されるような,「自然」の対立項として理解される「社会的なもの」である。
たとえば,社会生物学をめぐる論争で常に浮上するのは,この対立であり,社会生物学は(この意味での)社会的なものを自然に還元しようとし,その道に,批判者は社会的なものの独自性,自然からのその独立性を強調する.この独自性や独立性は,前述の構築主義においても,それが強調される.

▼第二は,「個人」に対置される「社会的なもの」であり,その典型は, E.デュルケ-ムの提示した「社会的事実」だろう。
その「外在性」と「拘束性」について,デュルケ-ムは「個人主義」に対置しながら,「拘束という言葉は,絶対的個人主義の熱烈な信奉者たちをたじろがせるおそれなしとしない.」と述べている。
確かに,デュルケ-ムに対しては,その問題設定そのものの硬直性を問いなおす形で,批判が向けられてきた。すなわち,社会的事実のさらに下にある台座として,コミュニケーションや労働といった,人びとの相互行為の過程があらためて掘り起こされ,社会的事実の外在性や拘束性は,こうした生き生きとした相互連関や関係性が物象化した結果の錯視として,捉えなおされてきたのである。
だが,こうした批判においても,その相互行為,相互連関が,個人以上の何ものかであることに変わりはない.

▼第三は,第一や第二のものよりも具体的で,「国家」との対比で語られる「社会的なもの」である。
その典型は,「国家」と「市民社会」という問題構成だろう.この社会を,最終的に国家へと回収するのか,あるいは,あくまで国家との緊張関係において捉えるのか,あるいは,多元的国家論のように,国家そのものを社会の部分集合として位置づけるのかなどと,争点は多々あり,見解の大きな相違があることも事実だが,国家と社会という対立軸は,これまで社会思想の一つの基本線を形成してきたと言ってよい.

▼しかしながら,焦点を「社会」という名詞(実体)ではなく,「社会的」という形容(動)詞に絞るならば,国家か社会かという軸とはずれた第四の意味,おそらく日本で最も見落とされている意味が浮かび上がってくる。その具体例は,以下の二つの文言に見てとれる。

・ドイツ連邦共和国は,民主的,かつ社会的な連邦国家である。
    (ドイツ基本法第20条).
・フランスは,不可分の,世俗的,民主的,かつ社会的な共和国である。
    (フランス現行憲法第1条).

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2010年7月 4日 (日)

System を考える -21-

                 社会システムの本質に迫る 3/3

3. 20世紀の文化理論や社会学理論が陥っていた
             共通する限界。

(1) それは,端的に言えば人間の作り出す文化や社会を,
                象徴や記号に基づく 「構造」や「システム」 として見る視点である。

構造 (Structure) は,もともと建築を意味しており,複数のユニットをその部分とする全体としての組織体を指している。このメタファーの便利な点は,建築的な構造においては,部分と全体が不可分の関係にあることである。

たとえば,柱や屋根といったユニットは,単体だけでは意味をなさない。それが,全体としての建物の部分であることによって,初めてそれはただの材木や瓦ではなく「柱」や「屋根」と見なされるわけである。

構造=機能主義社会学や社会システム論は,社会を個人や集団の相互行為によって組織され,それらによるいくつかのサブシステムがさらに統合された全体構造として捉える。
それらは不可分の全体をなしており,単に実体的な単位がたくさん集まって,積み重ねられているわけではないと考える。行為に,味や価値を与えるのはシステムであり,システムを支えているのは,そこに積み重ねられる個々の行為であるという,全体と部分の補完的な関係があるという意味で,それは本質的に「構造」主義的である。

★言うまでもなく,相互行為の全体が「構造」,もしくは「システム」であるというのは,本来アナロジーにすぎない。なぜなら,相互行為とか「システムの全体」とかは目に見える実体ではなく,分析や記述によってしか画定できないものであるからだ。社会システムや世界システム (ウォーラーステイン) はけっして実態ではない。関係を記述することから得られる一つの図式であり,もっと言えば広義の意味での「言語」にほかならない。

(2) 構造主義の功罪

こうしたアナロジカルな社会の捉え方に直接的な影響を与えたのは,「サイバネティクス」や「一般システム理論」であった。さらに遡って見ていくと,ソシュール以降の「構造主義」(構造論) 的文化理論にその源泉があると考えられる。

ソシュールは「言語」を,閉じた構造として捉える,まったく新しい言語学 (一般言語学) を創設した。そこでは,言語は「差異の体系」と捉えられ,言語的意味は,記号に張りつけられたラベルや現実の指示対象ではなく,他の記号との関係の中に浮かび上がる差異 であるとした。

そして,このシステムは自然や現実とは関係がなく,「恣意的」な記号の組織と考えられ,人間による世界の分節化や認識は ── あるいは,すべての「文化」は ── すべてこうした記号システムの上に成り立っているものであると考えるようになった。

それに続く,レヴィ=ストロースの構造人類学や,ムカジョフスキーの機能主義的構造主義社会理論が,こうした立場をさらに洗練させ,人間の文化や社会を,自然から切り離された記号システムの上に成り立つ「構造」として捉える視点は,きわめて広い範囲で受け入れられるようになった。

■社会や文化を,象徴や記号の上に成り立つコミユニケーション・システムと捉える見方は,こうした伝統の上に成り立っているのである。

■確かに,構造論や記号論は20世紀の思想や科学の世界に大きな貢献を果たした。だが,その一方では,本来は一つの言説構成上の方法論的視点にすぎなかったものが,まるで普遍的な定理となったことによる弊害も見逃すことはできない。

こうした言語学=記号主義は,自然や生命現象と記号に基づく人間の文化との断絶を強調し,自然科学と人文・社会科学の役割分担を当然のものと捉える考え方を生み出してきた。しかし,自然と文化は,明確に断絶しているものでもなければ,明確に連続しているものでもない。

■構造論は,断絶しているという方法論的立場を取ることにより,記号現象や文化の領域におけるさまざまな新しい発見をもたらしたが,しかしながらそれは別のものを隠蔽することでもあった。

およそ科学的認識一般が経験の記号化や文化コード化であるという点において,それは,ある関係を見えるようにすることによって,別の関係を見えなくする行為でもあると言わなくてはならない。

つまり,認識とは何かの隠されている実体的な真理の開示ではないとしたら,それはある不分明で錯綜した経験の一面に光を当てることによって,別の面を闇に排除する── いわば「差異の隠蔽」でなくてはならない。構造論が隠蔽したものの一つは,文化と自然や生命の連続的な相だったのである。

(3) 文化や社会の流動性と複雑性を捉える

だが,もう一つの重大な隠蔽についても触れておかなくてはならない。それは,文化や社会が「構造的ではない」部分をもっているということの隠蔽である。

このことはソシュールも既に気づいていたことであったし,後期ロシア・フォルマリストのトウイニヤーノフやバフチンや前述のムカジョフスキーも部分的には気がついていたことであった。「構造的」── すなわち「建築的」ではない文化や社会の側面というのは,その流動性,あるいは流体性であり,雲や気流の動きのような「気象学的」なものである。

文化や社会には「構造」として捉えた方がいい側面と,「気象」として捉えた方がいい側面がある。それは流動し風や流れを引き起こし,時にはハリケーンや地震を引き起こすようなダイナミックな現象である.

とりわけ,産業社会から別の社会形態に移行しつつある時代として,あるいは,資本の複雑な運動が目の前の光景をめまぐるしく変動させている時代として,現在の文化や社会はまさしく「地球気象」的な性格を強めつつある。いま必要なのは,文化のシステム理論ではなく,「文化の気象学」であり,そのような文化理解なのだ。

気象と呼ばれる現象が複雑系とかカオスと呼ばれる現象と深い関係があることはよく知られている。また,どんなに観測技術が向上しても,天気予報が確率としてしか語れないこともよく知られている。文化や社会のある側面は,明らかに気象によく似ている。

そこには,ほんの小さな風の動きがバリケーンを引き起こすような「バタフライ効果」もあれば,エル・ニーニョのように,遠く離れた海域の温度の僅かな上下動が各地で異常気象を引き起こすこともあるし,風や海流ならぬ,電波やケーブルによって,さまざまな情報の種子や渦巻きが伝わってくることもある。気象には境界がない。気圧も前線も気温も常に連続的に変化している。それは境界線に囲まれたブロックごとに切り離すことができない。そして,それはその中に生きる生命体の内部に大きな影響を与える。身体はもちろんのこと,大気の状態は人間の意識や気分を大きく規定する。

その「切れ目のなさ」だけではなく,気象の複合生や複雑生もまた,文化や社会を考える上で重要な観点である。ある気象条件を決定する因子はきわめて多様である。たとえ,微細な動きであっても,それが気象現象全体を大きく動かすことはありうる。前の節でも述べたように,現在の社会はいわゆる多数派による主導的で統合的な回路ばかりではなく,分散的で量的・数的には微細な多数のチャンネルが作られており,それらの微細なチャンネルが全体の文化=社会現象に大きな影響を引き起こしている。このような事態は今後,これまでとは比べものにならないほど増加していくことであろう。

このように考えてみるとき,文化や社会を自然,生命との連続線上で捉えることができ,その複雑系としてのありようを適切に捉えることができるという二点において,文化の気象学という観点は,構造論やシステム論と比べて大きな利点をもっていると言えるのではないだろうか。

(4) 文化のリエンジニアリングに向かって

言説を統合し,再配分する特権的な中心としての「知識人」,あるいは「知識階級」という神話は,今のような多チャンネル化したコミュニケーションの時代においては,ますますうまく機能しなくなるだろう。

知識人が言説を通して社会を統合するのではなく,社会現象に振り回されて,ただシステムを円滑に作動させたり,特定の利益集団の主張を代弁したりするだけの「知識官僚化」や「文化人」化の傾向はますます進行するだろう。

それが当たり前だ。それは,写真装置以降の文明の形態から生まれた必然的な過程なのである。そして,部分化された個人の代わりに,テクノロジーや政治・経済などを統合するシステムが,全体を制御する力をますます強めていくだろう。
そこでは,全てを統括する統合的な場所や,特定の特権的集団や階級はなくなっていくだ
ろう。システムが強大化すると同時に,文化や社会はますますバラバラになって往くかも知れない

■だからといって,このこと自体はいいことでもなければ,悪いことでもない。文明の形態が変わっていくとは,もともとそういうことなのである。それこそ,文化や社会の地球気象が音を立てて変わりつつある印である。

■だが人間はこの変化に我慢できない。ある意味で私たちは「分をわきまえない」呪われた存在なのだ。部分的で断片的な存在であることに不安を覚え,「全体」と何とかして結びつこうとする孤独で満たされない,いわば,本質的にはみ出した生き物が私達なのである。

■そのような自らの存在根拠を手に入れるためには,自らの死すらも厭わないのが人間という生き物なのである。技術や芸術やさまざまなシステムを生み出してきたのも,もともとそうした人間の「救いようのなさ」がその根幹にあったからにはかならない。

大多数の人々 ── 即ち,システムによって分け与えられた部分的な場所に従属することに安住している人々 ──  にとって重要なことは,自らの存在根拠をシステムから受け取ることであろう。

■現在の文明移行に伴う過渡的な状態の中で,統合的な「物語」はますます分散化しつつある。これまで人々の存在を根拠づける物語装置として機能してきた「土地」「民族」「国家」「宗教」「性」「世界史」「啓蒙と解放」等々は,いずれも求心力を弱めている。

そのことに対して,宗教原理主義やさまざまなタイプの伝統主義のように,再び強力な統合原理とそれに基づく安定したアイデンティティを求めようとする動きも,数多く目にするようになった。

私達は決してそのような動きに同調すべきではない。何故なら,より強力なシステムやコードを作り出し,そのシステムの中に場所を与えられて安住するような生き方,自らの世界とのつながりをそのような,システム=構造=建築,に譲り渡してしまうような生き方ではなく,「裸」で世界と向き合う生き方,身の毛のよだつ暴力的な世界に対し,目が眩みながらも,じかに対面していくような生き方,つまり,地球生命としての遺伝子の記憶を携えた生き物としての自由な生き方と死に方の可能性を探っていきたいのである。

■システムと個体の関係を変えるためには,システムそれ自体を変える反システム的,もしくは,トランスシステム的な行為と,個体自体を変える自己変容的行為の二つしか考えられない。

(5) 反システム,トランス・システム的行為 =「つなげること」

一つは,前者のようなような行為である。 私達はそれを「文化のリエンジニアリング」と呼んできた。パーソナル・メディアや,分散化され世界規模にグローバル化されたコミュニケーションの回路は,その時大きな可能性を秘めていると考えられる。気象学的にとらえられた世界の文化や社会においては,今後ますますこのようなマイナーカルチャーが大きな変動を引き起こしていく可能性が高くなっていくだろう。

そこでは断固として,小規模なメーリング・リストやネットワーク,知的,文化的発信の多チャンネル化,ネットワークの自動生成や相互連結の活性化を推し進めていく側に立たなくてはならない。たとえそのことがさまざまな困難や危険を附随するものであるとしても,分散化と横断化の中に可能性を見出していかなくてはならない。
「つなげること」「結びつけること」「関連づけること」の中だけに可能性がある。

(6) 新しい「狩猟・採集」生活も視界に

もう一つは,それと矛盾する面も含んでいるが,身体をもった生き物としての「自己」への気遣いや配慮の重要性が挙げられる。私達は,他者と出会うことによって変わることがある。生き生きとした他の人たち,元気に頑張っている人たちを見ると元気になれるし,肌が合う人たちと一緒にいるだけで幸せな気分になれる。

かといって,時には一人でいることも必要である。私達の意識や身体もまた,外の世界と密接に結びついている「気象」なのである。こうした身体気象や意識気象を「観測」し,「調整」していくような「自己への配慮」がより重要になってくるだろう。

つまり自己を自己自身でコントロールすること── 禁欲,節制,発散,鍛練,修練などの重要性が今後ますます高まっていくと思われる。

グローバル化し,多様化していく現在の世界を見ると,ヘレニズム期の世界のことが思い起こされる。ギリシア文化が世界化したこの時代には,各地域のさまざまな世界観が融合して,原始キリスト教,ヘルメス主義,グノーシス主義など多数の宇宙論や思想を生み出していったが,その中で生まれてきた思想の一つにストア派の哲学があった。ストア派の哲学は,初めて「世界市民」としての人間という考え方を提起し,摂理や道徳を重視する実践的な生き方を説いた。もちろん,ストア派哲学そのものを現在の世界にそのまま適用することはできないが,一人一人が自己の生き方を自分で制御することの重要性は,情報が氾濫し,感覚的刺激が増加していくこれからの社会においては,ますます高まっていくことだろう。

農耕社会は,定住生活を生み出し,産業社会は生活のシステム化と規格化を生み出した。これに対して松岡正剛は,情報社会に於いて人間はある意味では新しい「狩猟・採集」生活に突入していくのかもしれないと言っている。

そこでは,作物を育てたり,規格化された商品をただ消費したりするのではなく,自らが必要なものを作り出し,探し出してくるような,より個体化された生のスタイルが重要になってくるだろう。自己への配慮とは,このような狩猟人の研ぎ澄まされた心の状態を作り出していくことである。 (本章終わり)

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System を考える -20-

                 社会システムの本質に迫る 2/3

2. 社会システムとその素性

(1) メディアの快楽

進化するメディア・テクノロジーが可能にしたコミュニケーション空間が,これまでとは質的に異なるものである。パーソナル化されたメディアは,これまでのメディアに比べ,使用者の身体とかなり密接な関係をもっている。

これまでのメディアよりも身体との一体感が強い。それは,私達が獲得した第二の「皮膚」となるものである。そして,法権力と貨幣と線的な時間とに拘束された,社会的諸関係から離れた,よりパーソナルで親密なコミュニケーション空間を作り出している。

たとえば,電話やメールによるコミュニケーションは,独特のエロティックな関係を作り出すことが指摘されている。音や文字以外の知覚回路が遮断されていること,接触感が強い,脳と脳が直接ケーブルで繋がっているような感覚を与えてくれることによって,これらコミュニケーションは,意識の深層まで入り込んでくる,強度に満ちた経験を作り出してくれるのである。これは,時には「サイバースペース」という名前で呼ばれている空間に共通した特質である。

おそらく,これらのコミュニケーションが日常とは異なる時間を持ち込んでくることにその理由があるのだろう。線的な時間の流れの中に突然,別の時間 ── それも時によっては ── が空間的距離を超えて浸透してくる。日常の時間の中で,それなりに整合的に組織されていた自己意識の中に,突然別な時間が,着信音やバイブレーションとともに挿入されてくる。

それは単線的な時間をかき乱し,自己を分裂させ,いくつかの断片的なモジュールへと分散させる。たとえば,「教師」とか「課長」とか「中年男性」とかいう社会的に引き受けた人格の統一性が崩れ,自己の複数性がまるごと露出してくる。通常の生活では明確に区別されていた自己の複数のモジュールが,同じ時間の中に一挙に雪崩れこんでくる。

匿名や仮面をかぶったネットワーカーが,電子的ネットワークにしばしば現れるのもそのためである。また,場合によって,メディアがもたらすこうした快楽が「反社会的」と見なされるのも,そのあたりに原因があるようだ。

(2) 「社会的」とはどういう意味か

ところで,この「反社会的」という形容詞は,このようなパーソナル・メディアに対してきわめて頻繁に用いられてきた表現である。それはゲームにのめりこみ,インターネットや携帯ネットワークに夢中になっている若者に対して浴びせられることが多い。こうした非難が前提としているのは,まず「人間は社会的存在である」という信念であり,次にメディアにのめりこんでいる人間は,ちょうど麻薬中毒者か何かのように「非社会的」であるということだろう。だが,この場合の「社会的」とはどのような意味なのか。

確かに分散的なメディアは,人間関係を多様化する。言い換えれば,個人がばらばらな各自のコミュニケーション回路を持っていることになる。

それに,必ずしも彼らは他者と関わっていないわけではない。自らのコミュニケーション回路を通して,分散的で断片的ではあるが,きわめて密度の高い形態で他者や社会と関わっているだけなのである。確かにゲームにのめり込むのは不毛かもしれないが,それではプロの棋士とかスポーツ選手はどうなのだろうか。

不思議なことに,インターネットが普及し,それが現実のビジネスや政治により深く関わってくるにつれ,その種の非難の声は確かに薄らいできている。かつてはゲームや電子的ネットワークのコミュニケーションにうつつをぬかしていた元少年たちが,e-ビジネスの成功者になっている例も多い。

つまり,「社会的」とはたいていの場合,現実社会において支配的な社会システムに帰属していること。さらに言えばそれに屈服し,自らを組み込んでいることを意味している。

なぜ,そのように非難されるかと言えば,要するに,ばらばらな個人が,社会的規制を離れて勝手なことをして,時にはこの支配的な社会秩序や規制を,まるでないものであるかのように軽視し,その価値を転倒させるようなことをするのではないかという不安からなのである。

さらに言えば,それが,近代の社会システムと,それを象徴する「国家」を危険にさらすのではないかと思われるからである。

(3) 社会システムや公共圏の議論では充分ではない

自動制御システムと化したテクノロジーや知を問題とするとき,ドイツの社会学者N・ルーマンらに代表される「社会システム論」や,対話的コミュニケーション行為による,それへの抵抗と啓蒙的理性の再構築を唱えるJ・ハーバーマスの「公共圏」に関する議論は,看過するわけにもいかない。しかし,これらの議論の枠組みは,問題の本質からすれば,ほんの部分的なものにすぎないように思われる。

確かに私達は,社会的な存在である。その社会的相互行為を円滑に存続させるためには,規制が必要であり,個々の成員よりも社会システムの安定性が重要だとする,社会システム論の視点も,それに対して,コミユニケーション行為を通して「意味の喪失」からの回復を試みなくてはならないという 「ハーバーマスの議論」も,密接に関連してはいる。

端的に言って,人間は「社会的」存在であるばかりではないし,「歴史的」存在であるばかりでもない。「社会的」「心理的」「歴史的」「文化的」「生物学的」「性的」等々の形容詞は,私達の生命と身体のあり方の,それぞれ一面を表すことばにすぎない。

社会システムや公共圏に関する議論だけでは不充分な理由は,要するにそれらが,個人と社会に関するある一定のものの見方(社会システムと成員としての個人)の枠組みを前提として,ある一定の一貫したあり方で社会や他者と相互行為をする,自立的個人のことだけを問題としているからである。

たとえば,現在広く受け入れられている
   「民主主義に反対してはならない」
   「基本的人権や私有財産は守られなくてはならない」
   「個人は自由に選択できなくてはならない」
   「各々の個人が社会との関係の中で自己同一性を打ち立てなくてはならない」
等々の規範 (現状における最大公約数的な常識) の上に乗った議論にすぎない。

生き物としての人間は往々にしてこれらの規範からはみ出した存在である。
システムの安定化を重視するにしても,システムに植民地化された生活世界を
コミユニケーション行為によって回復するにしても,「生きる」という経験は,
けっしてそのどちらかに,すべてが還元されてしまうようなものではない。

現象学的概念である生活世界(生きられた世界)ですらも,「生きる」ことの一部分にすぎないのである。むしろ,そこからの残余 ── それこそが「生き物」としての人間の根源的な生のあり方なのではないだろうか。

(4) なぜ,人間は反社会的な行為をするのか。

それはけっして,ロマン主義者が主張したように,個人と社会が逆立した存在だからではない。ポストモダニズム以降,私達は自立した「個人」などというものは幻想であり,意識や欲望の深い部分まで「社会システム」が浸透していると考えている。

だとすれば,反社会性は,社会システムの中そのものに含まれているのだろうか。そう言った方が少しは真実に近づけるかもしれない。だが,社会システムそれ自体が,けっして私達の生の全体を包み込むものではないと考えた方がすっきりする。

バタイユが示唆したように,ぼくたちは規範を作るとともに,それを破る存在でもある。規範そのものが規範の「外部」を,あの遺伝子的無意識としての「アナザーワールド」の存在を露呈しているからである。新しいメディアがもたらしつつある新しい時間の経験に我々が惹かれているのは,そのためである。

それは,けっして現存の文化システムや社会システムの中に組み込まれることがない,真に新しい,だが,同時に原始時代から常にそこに存在していた,意識の根元的であると同時にきわめて表層的な経験を開示しているように思う。

それは確かに,過去200年ほど続いてきた現在の支配的な社会システムを変動させ,文明の形態を変えていくことになるだろう。

しかしそのことが,私達がそれに惹かれている直接の理由ではない。むしろ,そこには,これまで私達が社会的相互行為と呼んできたものとは別の意識の経験が露呈してきている ── このことこそが重要なのである。

(5) 「社会的な存在で(も)ある」

現在の知の世界において,概念装置としての「社会」や「歴史」があまりにも大きく捉えられすぎているのではないだろうか。何をそう呼ぶかは別として,私達はあまりにも社会学的諸装置に振り回され過ぎている。

■「人間は社会的な存在である」── という言い方には,かなり乱暴な決めつけが含まれているのではないだろうか。社会的であることと,身体をもった生き物であることとの間には実は大きな隔たりがある。身体は膨大な生命の記憶を蔵している。社会的に一貫した個人であったり,それに対しての責任や義務や一定の役割を果たしている自己とは,そんな私達の存在のほんの一部にすぎない。

■システムはそう簡単に壊れないかもしれないが,そこから個人がはじき出されることは往々にしてある。不況で会社をリストラされた人々が,生きる意味を失ってホームレスになったりしている。システムなど多少壊れたところで人間は充分生きていけるのだということを,知っておく必要があるだろう。

■社会システムはけっして人を幸せにしてくれない。言い過ぎかもしれない。相対的により良いシステムは必ずある。システムがどんなに改善されても,それは孤独で死すべき生き物としての私達のすべてをけっして救ってはくれない。

私達の生は,社会的な相互行為だけに尽きるものではない。だからこそ,私達はどんな時代においても「いまの社会はひどい」と不満をもらし続けている。なぜ,いまの社会は人間を幸せにしてくれない,と常に口にし続けているのだろうか。すべての人間が幸福な社会など,いまだかつてあっただろうか?

所詮,社会は,生き物としての人間の生の領域すべてをカバーできるものではない。いつでも,どんな場所でも私達は,人間の社会生活にぴったりと自らを重ね合わせることができない余剰の部分を感じ取っている。

その余剰の部分がなければ,そもそも私達は社会的存在ですらなかったはずである。私達が社会的な存在で(も)ある」ということに,それ以上の過剰な意味づけを与えるべきではない。

■生命とは,社会的であり歴史的であるより以前に,一つの巨大な潮流である。それはちょうど雲や霧や海流のようなものであり,私達の意識にとって超越論的なものである。

■単に歴史的・社会的存在としての人間であるとか,さらには社会的な役割集団の相互関係をベースにして考える,社会学的パラダイムではまったく不十分なのである。(続く)

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System を考える -19-

                 第3章.社会システムの本質に迫る

                   社会システムの本質に迫る1/3

メディアの分散化が,生活の中にコミュニケーションの多様な回路を開いたことによって,より 「居心地の良い」 コミュニケーション回路にのみ 固着する傾向が生まれた。

1. 多重人格社会

携帯電話の発展とともに,人は異なるコミュニケーション回路,異なる対人関係,異なる対社会的役割を即座に切り替えることができるようになった。そのことは一種の 「多重人社会」 の到来として捉えることができるかもしれない。

多重人格者のほとんどは,幼児虐待の経験者であるという。彼らは苦痛から逃れるために,別の人格を作り出しそこに逃避する。携帯電話やメールが,社会システムに抑圧された「現実」の人間関係の苦痛から逃れる,防衛機構の逃げ道になっていることは,充分に考えられる。

また,匿名のネットワークでは現実に 「電子人格」 とでも言うべきか,日常とは別の性別,人格,年齢,人種を装おったコミュニケーション行為が見られる。コミュニケーション回路の分散は,こうした多重人格的コミュニケーションに道を開いてもいるのである。要するに,リアリティそのものが変容しているのだ。

しかしながら,すべてのコミュニケーション回路はすべて等価なのだろうか。言い換えれば,「生身」のコミュニケーションも,メディアを通したコミュニケーションも,まったく同じ価値をもった「現実」なのだろうか。

人間にとって 「ナマの現実」 というものはなく,すべては媒介的であると言える。だが,「ヴァーチャル」な経験を「生物学的な」経験と同一視するのは間違いである。

なぜなら,すべての「ヴァーチャル」な経験も,同時に「身体的」な経験であるということは自明の事実であり,その意味において 「身体」 と 「メディア」 は明らかに別の位相にあるものであるからである。つまり,「メディア」は生物学的「身体」に外的に「装着」されるものである限りにおいて,「身体」の潜在的可能性を引き出すことはできても,それを「超える」ことは論理的にありえない。

だからといって,生の「身体」に回帰しなくてはならないという,そのような固定的な「身体」や「身体的な経験」があるわけではない。しかしながら,メディア的経験は,思いもよらなかった「身体」の隠された潜在的可能性を引き出すことはあっても,「経験する身体」 の範囲を超え出すことはできない。

つまり,それは依然として「身体的な経験」である。その意味において,「身体」は相変わらず「ヴァーチャル」な経験を含めたすべての経験の基盤であり続けているのである。(続く)

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2010年3月10日 (水)

System を考える -18-

                   足元が暗闇でも長期的視野を説 5/5

5. 経営戦略と 環境変化と 技術経営

(1) 環境変化とストラテジー
 
制度か技術,いずれに端を発するにしても,企業からは競争環境が非連続で変わるということになる。つまり,明日はともかくとして,数年後には違うルールで業界が動いていくことになる。
 
今年の延長線上で来年を捉えて考えているようでは,そのうち立ち行かなくなる。断層がどこにどの程度眠っているのか,本当に顕在化するのか,を読みながらリアルオプション的に選択肢を組んでいくというのが動き方の基本になる。

新しい時代の認識を強めている,情報通信からメディアコンテンツ産業まで幅広く,何らかの構造変化を迎えている。どのセクター,サブセクターを見ても政策から技術,産業動向から資本市場との絡みまで,複雑な動きが出ている。

更に,会計管理の周辺では,狭義にはSOX法関連,広義では,内部統制関連の対応が企業の存続基本条件として整備されつつある。会計報告と監査を通すことは当然上場か否かというところに繋がっていくため資本市場へのアクセスが必要な企業(大手から中堅のほとんどが該当する)は,避けて通れない業務である。

では,仮に,競争の要素を次の三つに分解して整理すると,
  ① 環境認識,
  ② KPIの発見と自社実装,
  ③ 運用とオペレーション,
条件が 2つまでは揃っているが,3つとも揃っている企業は数少ない。
①~③は整合性を持って働かないと,要素だけあっても成果に結びつかない。
更に,既存事業がある場合は,事業転換や組織転換も加わってくるため,
難易度は更に上がる。

(2) コーポレートガバナンスとコンプライアンス
 
もう一つの核心的要素は。会社法の改正,SOX法の整備など複数の問題がある。テクノロジー業界に限らず,一般事業会社の状況を整理すると,どこも状況は似たようなものになる。コンプライアンス(あるいは内部統制)を重要なテーマとして認識しているところはあっても,ビジネスオペレーションとの繋がりがクリアーになってない。付加業務のようになっているところ,あるいは,ガバナンス設計とズレが出ているためにどうしても構造的に無理が出ているパターンが目につく。
 
「コーポレートガバナンス」についてみても,企業で実務運用が始まってからそう年月が経っていないため,紆余曲折がどうしても起きている。「コンプライアンス」周辺については,先進とされる米国でさえも,反動や揺れ戻しがあちこちで出ており,安定するまでは,しばらく紆余曲折をみるだろう。

(3) 技術経営に対処する覚悟を
 
古くて新しい問題「ビジネス」における,「IT」というテーマに加え,「先端科学技術」である「ゲノミック」「ナノテック」「ロボテック」がその実力を発揮し始める。

日本版SOX法の重要要素として問題。インターネット関連事業の変革が向かう先が濃霧の中にあること。相変わらずこのテーマは根深い問題であり,企業のオペレーション設計ならびに,先端テクノロジーの利用とリスク管理をどう調和させるかは,先々で課題の山に出会う。

★先端科学技術開発を手抜きするわけにはいかない企業経営のジレンマが,身近の優秀人材が示し始めた流動性の問題解決までを含めた,統合戦略の構築が緊急テーマとなってる。

★経営組織の機能と能力,執行役員の無気力さを誰がどうするのか。そもそもCEOの果たすべき役目から再検討ではないのか。ここ何年も議論が尽きないところである。

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System を考える -17-

                   足元が暗闇でも長期的視野を説 4/5

4. 今重要なのはソシオロジーからコスモロジーへ移行すること

(1) コンピュータの普及と共に人間と機械との対立図式にも変化が起こりつつある

時計やエンジンなどの従来の機械モデルと違ってコンピュータは,情報の流れを制御する機械である。

■それは電流の流れを処理する流体力学的な装置であり,丁度水車が水の流れを制御する機械であるのと似ている。そして,そのように考えられた流体制御的な情報システムとしてのコンピュータは人間に対立しているというよりも,むしろきわめて類似したふたつのパラレルなシステムと見なされる。

■なぜなら,人間の身体もまた体液や神経系統を流れる情報の流れや循環を制御する情報システムにほかならないからである。こうして,人間の精神と身体と宇宙が「巨大な情報システム」というひとつの解決の中で統一されることになる。もはや,それは階層的な秩序でもなく,「ミクロコスモス」と「マクロコスモス」の照応でもない。すべてはひとつである。

     ★『ヴァリス』の「コスモロジー」はここから生まれてきている。
        同じく「教典書」からの一節 ……。
           「我々は,コンピュータに似た思考システムにおける,
                    メモリー・コイルであるように思える」

     ★「思考システム」それ自体ではなく「メモリー・コイル」でしかない
       という部分に留意したい。

(2) コンピュータとの関係が人間の心に一連の変化をもたらすことである。

このことは身近な例で言えば,よく出来たワード・プロセッサーで文章を作成している時に起こることである。

たとえばアイディア・プロセッサーでアウトラインを作成して,それをカット/ペーストする際に,意外な論理の可能性が突如として目の前に現われ,書き手の人間は自らの内的な思考の表記というよりも,ディスプレーに現われるテクストの自律性に従って自らの思考を再アレンジするといった,いわば「自動記述」的な関係に入りこむことになる。

また,電話線と接続したネットワークにアクセスをしている時に,コンピュータを通して身体がネットワークの空間に直接つながっているという感覚を告白しているネットワーカーも少なくない。

つまり,ネットワークのサイバースペースにおける事件は直接身体的な体験となるのである。とするとヴァーナー・ヴィンジの『マイクロチップの魔術師』やギブソンのサイバーパンク小説に描かれる世界は既に潜在的には実現していると言えるかもしれない。

これを身体の拡張とみるか,人間のアンドロイド化とみるかはその人の主観の問題であろう。いずれにしても「身体」,「人間」,「アンドロイド」などという概念は不変のものではない。

(3) そのような相互作用が明らかに存在し,従来のコンピュータが人間の意識の専制を強化するのではなく,むしろそれが実現する情報空間に,私達の意識が結合し,その二つが一体となった,より大きな情報システムに組み込まれているという「感じが存在する」こと,それ自体が重要なのである。

たとえば「コンピュータはただの機械であり,それに人間が振り回されるのは正しくない」というような「倫理的な」議論によってはけっしてくつがえすことのできない直感であり,新しい「身体感覚」ではないだろうか。

よく作られたシミュレーション・ゲームや,ロールプレイング・ゲームの場合,私達は,ほとんど現実の人生と変わらない体験をしているような錯覚に陥ることがある。もちろん,シミュレーションはあくまでシミュレーションであって,論理的にはリアリティとの間にいつでも境界線を引くことができる。

もし人生をひとつのシミュレーション・ゲームと考えたら,それが同じように単純なプログラムの多様なプレイにすぎないわけではないとどうしてわかるだろうか?

そして,それは背後のプログラマー(デミウルゴス?)によって決定された単純で限定されたプログラムが生み出す,一見多様であるように見えながら実は単一のゲームだとしたら  ……。

今重要なのはこうしたシミュレーションが生み出す妄想に振り回されず,もう一度かつてのリアリティ(あるいは「大地」)を回復することであると主張することはできる。ディックにしても,ファットをもう一度分裂させることで,こうした問いを再び開かれたものにしている。

だが,これが妄想であるかどうかということよりも,そうした想念が一種のリアリティを持ち始めているという事実そのものが重要なのだ。

なぜなら,その時われれはもうひとつの別のリアリティを生き始めているからである。リアリティそのものの変容がここで既に始まっている。

★今重要なのは「ソシオロジー」から「コスモロジー」へ移行することかもしれない。
あるいは認識論から情報の存在論へ,と言っても同じである。

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System を考える -16-

                     足元が暗闇でも長期的視野を説 3/5

3. 「地球は生命体である」とするガイアの考え方を

(1) 私たちは,細部に隷属してはならない

当時の科学の世界は,微生物学にしても,生物地球科学にしても,専門的で非常に狭い分野の研究に向かっており,さらにその中でも細部や過程を追い求める努力がなされていた。

しかしそれでは,数々の問題を抱える地球の全体象を捉える研究には不具合な点がある。細分化した科学で地球を捉えるより,生命体をシステム科学としてとらえる,地球生理学の視点こそ必要である。

地球という惑星は人と同じ生命体であり,現在どのような病気やケガを抱えているのか診断することから始めよう,と考えたわけである。

温暖化という熱を持ち,酸性雨を処理できずに消化不良をおこし,フロンでオゾン層にケガをしている。これは死に至る病なのか。それとも,心して養生すればやがて良くなる疾患なのか,正しく診断しなくてはならない。その全体の生理を見極める主治医こそ不可欠である。

科学が細分化研究に夢中になっていた30年前に,このガイア理論は賛同を得にくかった。ただ一人の地球生理学者が,何やらロマンチックな理論を唱えていると,学術界も科学メディアもまともに取り合うことをせず,さらには,多くの反論も受け続けた。

(2) 俯瞰と緻密さ。両方の知を備える

地球はひとつの生命体である,ひとつの環境の中にあると捉えると,自分が現在住んでいる場所でおきている汚染が,たとえば地球の反対側に影響をおよぼしているのだろうか。たとえば自国の農薬の蓄積が,数千キロも離れた国々に何かの影響をもたらすのだろうか。

宇宙開発技術の発達によって私たちはついに地球を俯瞰することができた。本当に美しい姿のこの地球が,実は人の目には見えないほどのバクテリアやその他の多くの生命によって生きていることも,認知しなければならない。人間の文明社会を俯瞰しながら,それを守るための知恵を,企業も,生活者も考え続けなければならない。

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System を考える -15-

                  足元が暗闇でも長期的視野を説く 2/5

2. 都市環境を離れ,自然環境の中で考えよう

(1) 子供達に 自然と巡り合う機会を

たった今この世に生を受けた子供も,20年たてば成人する。その子供が,もし地球や自然,他の生命の営みについて,それが,どれほど大切なものであるかを実感しながら,成長し人生を歩むとしたら,それは,有意義な方向を目指しているといえる。

森の木も水も,動物も昆虫も生物として人間の仲間であることを体で分かるには,子供時代の経験が非常に大切である。都会にいて机上の学習をする時間を削り,子供を森や川や海へ連れていくよう努めて欲しい。自分はナマの現実の世界の住人で,その中の一部であると感じられる体験が,必ず子供たちの生き方に反映され,環境へ取り組む思想に変化が現れるはずだ。

子供の心は自然界とつながっている。自分の生命が躍動するのを生き生きと感じる能力が備わっている。すべての原点は,大人である父親の自然への畏怖や愛情である。あなたがなすべき大切な仕事のひとつはその実践です。環境への配慮ができる成人を育て,人間が地球を支配したり,コントロールしたりするのではないとを会得る人達を送り出して欲しい。

人間が生命体として自然の一部であることを知れば,子供は直感で,していいことと,してはいけないことを判断できる。

(2) 産業は悪という時代錯誤に陥るな

かつて,フロンという物質を大量に大気中に排出し,オゾン層まで破壊する作業を行った。自動車のクーラーや冷蔵庫という文明の快適さと引き換えに。これからは,排出しない技術開発と同時に,すでに大気中にあるフロンの処理技術開発が重要なことは明らかです。

ただ,こういう状況の中で,だから産業は環境破壊の最たる存在だと主張する偏狭な環境主義者に,私はくみしません。彼らは言います。産業とは救いようもなく悪であり,利潤と権力を追求するあまり,有害な汚染を撒き散らしている。止めなければ,と言う。しかし,工業生産を打ち切り,田園生活や昔の暮らしに回帰するべきだという主張は単なるおとぎばなしに過ぎない。

もし産業文明を放棄すれば,恐らく地球上に生きる人類のごく一部しか生き残れないだろう。今日のあなたの生活から産業製品を無くして十分に暮らしていけますか。60億人を超える人間が,これからも共に生きぬくことを考えなければならない。

産業文明は人類の糧である。しかも自己改革を続け,汚染を出さない低消費構造の,謙虚な文明の必要に目覚めている。感情的にならず,昔はずっとよかったなどと懐古的にならず,そしてすぐに何とかしようなどと短絡的にならないで欲しい。しかし,向かう方向を間違えてはならない。

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System を考える -14-

            第2章.足元が暗闇でも長期的視野を説く

                足元が暗闇でも長期的視野を説く 1/5

1. 人は地球の主人ではない

(1) 地球はタフで優しい生命体である

環境の破壊について,危機感を募らせながらも,自動車を手放すことはできないし,チェーンソーで木を切って資源にすることを急にやめるわけにもいかない。牛を育てるより大豆の方がエネルギーを使わないからといって,ベジタリアンになれるわけでもない。しかし,このままの生活では地球の荒廃を招くと,多くの人は意識するようになった。

でも,地球をどのように管理し人はこれから何を選択していけばいいのかと考えた時,実は私たちは地球そのものについて,あまりにも無知であったのではないかと思う。地球は火星や金星などと大きく異なり,単なる岩石の塊のような存在ではなく,自らが生き続けようとする生命力を持っている。その決定的な違いは大気の成分だが,40億年もの間地球だけが,容積比21%(=21.3%:重量比)の酸素を維持し続けている。

この酸素量がわずかに変化しただけで地球上の生物は決定的な打撃を受けるが,長い地球上の歴史の中で,どのような気象変化や変動が起きても,酸素量は,神業のようにバランスを保ち続けてきた。また,人類が地球上に現れてさまざまな侵害を続けてきた以上に,もっとすさまじい攻撃――たとえば隕石が落ちるとか,気温が下がって氷河期に入るなどの激しい変動にも十分に耐え生き延びてきたのである。

おそらく,地球上のすべての生命が大きな自己調節システムのような働きに関与し,生命の流れを維持するように存在しているようである。だから,いま地球環境が悪い方向に向かっているから,地球を何らかの方法でコントロールしようなどと,即物的に治療したり,科学的な方法に奔走すべきではない。常に地球の大きな生命の流れに沿って決断をすべきである。

(2) 災害に立ち向かえる文明の力を磨く

地球の資源には限りがある。しかし,やっと手に入れた今の生活を過去に押し戻すことはできない。そう葛藤する時代にあって大切なことは,どのようにして人類と文明を保存するかである。まず,向こう100年の間に人類を襲うであろう大きな災害や不幸に対して,どう予想し,いかに対応するか。どのようにして立ち直るか。それを成し遂げるに足る,高い文明があるかどうかにかかっている。

日本という国が築いてきた文明が,果たして世界の規範になれるだろうか。海に囲まれ,土地が狭くさまざまな制約がある中で,高い文明を築き,経済的に成功し,人々の暮らしは豊かである。資源がなくても1億人を超える人々が飢えることなく,生命を全うしていく。その知恵を伝えることが,我が国に与えられた使命のひとつであろう。

たとえば,IT技術の発展への寄与は間違いなく地球環境への負荷を減らすだろう。また,伝統工芸やモノ作りの匠の心意気,モノを大切にし息長く生活の中で使い続ける「勿体ない」の心がけ,などなどと,すぐれた知恵は確実にエネルギーの消費を減らすに違いない。地球や人類生命への負荷を理論的に考える時,我々人間の知恵は,エネルギーの効果的な使いこなし方を見いだすだろう。

私たちの暮らしに欠くことのできないものは数多くある。それを放棄したり,あきらめたりせず,根気よく代替方法を探し求めることだろう。人類がこれまで蓄えてきた文明の中から,広い視野・視点で発想し,新たな100年の可能性を人類に与える仕事を,有能な科学技術者達は,それぞれの立場で考えて欲しい。

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2010年3月 8日 (月)

System を考える -13-

            先端科学技術に人類の未来を託せるか 8/8

(4) 先端科学技術の進むべき指針「倫理基準」をどこに求めるか

私達は,これから進むべき道を指し示す,「倫理基準」をどこに求めればよいのだろうか。ダライ・ラマの著書 邦訳「幸福論」で示されている思想は有用であろう。

ダライ・ラマは,人間にとって最も重要なことは,他人に対する愛と同情をもって生きること,そして人間社会は全人類的な責任感や,人は互いに依存していることを,強く意識する必要があると主張する。

彼は,個人と社会にとっての積極的な倫理的行動の基準を提示しているのであり,それはアタリの「友愛」の理想と共鳴するもののようだ。

ダライ・ラマは更に,私たちが人を幸福にさせるものは何なのかを理解し,そして物質的な進歩も知識がもたらす力の追求も,重要なものではないということを認めねばならない。すなわち,科学や科学研究だけでできることには限りがある,ということを認めるべき,と主張する。

■西洋文明における幸福の概念は,古代ギリシャに,その起源があるようだ。
ギリシャ人は,幸福とは「機会に恵まれた人生で,その卓越したところに沿って,生命の根元的なパワーを行使すること」と定義している。もし自分の身に何が起ころうとも,幸福を求めるならば,人生において,有意義なことにチャレンジすることと,十分な機会に恵まれることが人間にとって必要なことは明らかだとしている。

■私達は,やみくもに経済成長を追求し続ける文化を越え,創造性の発露を向けるべき別の選択肢を見つけることが人類には必要である。経済成長は,大きな目でみれば数百年間は人類に幸福をもたらすものであったが,純粋な,真の幸福をもたらしてはいない。

■私達は今,科学と技術を通しての,無制限で無秩序的な成長を追い続けるのか,それとも,それに伴うことが明らかにわかっている危機に直面するのか,の選択を迫られている。

★今,目の前にある危険を本当に軽視してもいいのだろうか? 知っている,ということは,行動を起こさなくてもよい理由とはなり得ない。知識というものが,人類自身に向けられた武器になってしまった,ということをまだ疑えることなどできるのだろうか?

(5) 知識によってもたらされる大量破壊を避けるために

■情報関連機器製造技術者の仕事は,ソフトウェアの信頼性を向上させることだ。ソフトウェアは道具だ。

■だから,道具を製作することが生業である人達がしなければならないことのひとつとして,彼が作る道具が使われる用途についても考えていくということも含まれる。

■ソフトの信頼性が高いほど,そしてその用途が多いほど,この世界をより安全でより良い場所にすることができる。

■もし彼が,この反対の結果が起こることを信じるようになったとしたら,倫理的に言って,彼はこの仕事をやめる義務があるだろう。

■人は誰しも大事に思っているものがある。そして,それを大事にすることによって,自分の人間存在の本質を知り,目前にある危機に,人類はきっと立ち向かっていくはずである。なぜならば,人にはモノや人を大事に思うという,すばらしい能力があるからなのだ。

(以上)

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System を考える -12-

           先端科学技術に人類の未来を託せるか 7/8

(2) GNR技術は 商業利用と軍事利用の区別は難しい

核関連技術は,商業目的のものと軍事目的のものとを区別をすることが比較的容易だった。また,核実験はその性質上,監視しやすかったし,放射能を測定するのも簡単だった。軍事目的の核開発はロス・アラモスのような国立の研究施設で行うことができたし,その結果を極秘にしようとすれば,望むだけの期間,極秘にすることが可能だった。

一方,GNR技術の商業利用と軍事利用を明確に区別することは難しい。これら技術の商業上の大きなメリットを見れば,国立の研究所の中だけで開発を行うようにしておけるとは考えにくい。現在も研究は幅広く民間で行われているし,それを強制的に放棄させようとすれば,生物兵器の場合のような厳格な検証プロセスが必要になるだろう。

ただし,その規模はいまだかつて見られなかったレベルになるだろう。私たち個人のプライバシーの確保と独占情報の保有への欲求が,検証という私たちを守るための必要性と衝突するようになるだろう。プライバシーが損なわれ,行動の自由に制約が加えられることに強い抵抗が起こるであろうことは間違いない。

そのほか,特定のGNR 技術の放棄の検証は,サイバースペースでも行われなければならないだろう。知的財産を保護する新しい方法を考え出すなどして,この独占情報の世界において容認され得るレベルの,情報の透明性を確保することは,重要な課題となるだろう。

技術放棄の検証に従うということが意味するものは,ヒポクラテスの誓文にも似た,厳しい倫理的な行動規範を 科学者や技術者が採用することが必要となる。また,自らが個人的に大きな犠牲を払ってでも,危険に際しては警鐘を鳴らす勇気を持つことが要求される。

21世紀においては,このことは,NBCならびにGNRの両技術に携わる者たちが警戒心を持つことと,自己の責任を自覚することによって,大量破壊兵器と,知識によって引き起こされる大量破壊兵器の製造を回避せよと要求していることになる。

(3) ロボット工学がもたらす擬似的な''不死

人は誰しも幸福を求めるものではあるが,破滅へと我々を向かわせる大きな危険を冒してまで,これ以上の「知識」と「モノ」を追い求める必要が本当にあるのか,いま一度立ち止まって考えてみる必要はあるだろう。

常識的に考えても,人間の物質的欲求には限度があるはずだし,同様に,ある種の知識には危険すぎるものがあり,手をつけずにおくことが一番いいのだということもわかるはずだ。

▼同様に,むやみに不老不死を追求して,それによる損失とか,人類絶滅の可能性の増大というリスクを見逃してしまってはならないということだ。不死は,人類がその原初から追い求めてきた夢ではあるが,理想郷の実現への唯一の夢ではない。

▼ジャック・アタリ氏が近著「Fraternities」の中で,人類のユートピアヘの憧憬が,長い年月を経でどのように変化してきたかを描写して,こう書いている。

【社会というものが芽生えたころ,人は地上における人生の道筋を:
  ①単なる苦痛だらけの迷宮としか考えておらず,その最後には死というドアがあり
     そこから神々や「永遠の生命」にたどり着けるものと考えていた。
  ②ヘブライ人やその後のギリシャ人のなかには,神学で要求されていることから
     逸脱して,「自由」が花開くであろう理想の都市を夢見る者たちが出てきた。
  ③他の者たちは市場社会の進化に気づき,一部の者たちが自由になる
     ということは,その他の者たちが疎外されることになっていることを知り,
     その結果, 「平等」というものを求めるようになったのである】

ジャック・アタリの示す,これら3つの異なる理想郷的目標が,今日の世界で,緊張をもって共存していると述べている。

さらに,愛他主義に基礎を置く『友愛』という,もうひとつの理想についても述べている。友愛だけが個々人の幸福と他人の幸福とを結びつけ,自己の存続の保障をしてくれるものなのだ と。

★こうした考えが問題点を明確にしてくれた。即ち,永遠に存在しようとしてテクノロジーを利用するのでは,最も理想的なユートピアを実現することにはならないし,そんなことをしても危機がもたらされるだけなのだ,ということである。

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System を考える -11-

           先端科学技術に人類の未来を託せるか 6/8

8. GNR技術という パンドラの箱のふたは開きかけている

遺伝子工学/ナノテクノロジー/ロボット工学という3つのパンドラの箱のふたは,すでに開きかけている。だが,人類はそのことにまだほとんど気づかないままでいるようだ。
 
人間のアイデアというものは,いったん世に出てしまえば箱に戻せるものではない。ウラニウムやプルトニウムのように採鉱する必要もなければ精製する必要もないし,また,いくらでも複製できる。いったん世に出てしまったら,もう手のつけようがないのだ。

(1) 危険な技術を放棄するというオプション

人類は生き残れるのか。それとも生き残るのはテクノロジーなのか。問題は,主導権を握るのはどちらになるのか,だ。人類は計画も秩序もブレーキも持たないまま,新世紀へと押し流されている。このまま進んでしまうのを方向転換するには,もう手遅れなのだろうか。だが,私たちはまだ何も手を打っていないし,何らかの手段を講じることのできる最後のチヤンス,つまり人類の安全保障の限界点は,目前に近づいている。

今人類は,初のペットロボットを手にし,商業的に利用可能な遺伝子工学技術もある。また,ナノレベルの技術も急速に進歩を遂げつつある。これら技術が進歩していくのには,いくつもの段階を経なければならないと思われる。

遺伝子工学 / ナノテクノロジー / ロボット工学における自己増殖が手の付けられないようなものになる瞬間が,突然訪れないとも限らない。それは,哺乳類のクローンに成功したことがもたらしたショックの再来のようなかたちとなるだろう。

米国が,完全に無条件で生物兵器の開発を取りやめたことである。この背景にあったのが,生物兵器という恐ろしい兵器を開発するにはたいへんな苦労が伴うわりに,いったん開発されてしまえば複製するのは簡単で,「ならず者国家」やテロリスト集団の手に渡ってしまうのも簡単だ,という論理だった。

1972年の生物兵器禁止条約(BWC)と1993年の化学兵器禁止条約(CWC)は,生物兵器と化学兵器の開発をしないという私たちの意思を明記したものだ。

すでに60年間以上も存在し続けている核兵器の脅威は依然大きなものだが,米上院が,包括的核実験禁止条約(CTBT)を拒絶したという事実は,核兵器を放棄することが政治的に難しいものであることをまざまざと見せつけた。それでも,冷戦が終焉した現在,私たちは多極的軍拡競争を回避するのに有用な,ユニークな状況に置かれていると言える。

BWCとCWCを推し進め,核兵器を完全に放棄することができれば,危険なテクノロジーの放棄を,人類に習慣化するような方向に持っていくことができるかもしれない。実は,全世界にある核兵器の100基近くを処分しさえすれば( 第2次世界大戦で使われた兵器の破壊力すべてを合わせた程度であり,処分することは比較的たやすい),人類絶滅の脅威をなくしてしまうことになり得る。

重要な仕事は,そこから学んだ経験を,軍事的というよりも,本質的に商業的な技術に適用していくことだろう。

そこには情報の透明性が重要な役割を果たす。兵器の放棄を検証することの困難は,合法的な行為と放棄されるべき行為を明確に区別することの困難さに直接結びついてくるからだ。

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System を考える -10-

            先端科学技術に人類の未来を託せるか 5/8

7. 知性をコントロールする

(1) 1994年 カール・セーガン著「惑星へ」から

   人類の宇宙における未来について,自身のビジョンを描いた部分を紹介する。
【それは,地球上の生物が初めて,おのずからの行動の結果として,自らに危険をもたらす存在となってしまった,というまさにその瞬間であった。こうした展開というのは,宇宙では普通に起こっていることなのかもしれない。

    恒星の周りを回転する,新しく形成された惑星の上に生命がゆっくりと誕生する。万華鏡のような多彩な生物群が進化していく。知性を持つ生物が現れ,知性がその生物にとっての巨大なサバイバル・バリュー(生物学で,ある生物のもつ性質・習性などに現れる,その生物の生存に貢献する特質をいう)となる。

    そして,その生物は「テクノロジー」というものを生み出す。彼らは「自然の法則」というものの存在に気づく。それは「実験」によって明かすことができる法則であり,それを理解することで,それまで実現できなかった規模で,生命を救うこともできれば,終わらせることもできる,ということも知る。科学のもつ強大なカを知るのである。

    そして,あれよあれよという間に,彼らは世界を変貌させてしまうようなものを生み出してしまう。なかには先見の明をもって,やって良いこと,やってはならないことを区別し,制約を課する文明をもつ惑星もあり,彼らは危桟を回避することができる。だが,運に恵まれなかった文明,あるいは慎重さを欠いたものは減んでいく。

▼21世紀初頭の,危機的状況に立たされた我々の周りには,傲慢な態度が満ち溢れている。自然の法則を尊重する姿勢さえあれば,謙虚な気持ちはおのずと私たちに戻ってくるはずだ。常識に根ざしたものの見方というものは,科学的な証拠が提示される前から正しいものであることが多い。

▼人類が作った,あらゆるシステムは,明らかに脆く,非効率的なものだから,私たちはどこかで立ち止まらせられることになるだろう。

▼人類は新しい技術の創造者であり,未来における主人公,というのが人々の持つイメージだ。そして行く手に危険が待ち受けていることが明らかなのに,私たちはひたすら押流されていく,とりわけ今の世界では金銭的な報酬と世界的な市場競争がこれに拍車をかけている。

▼自分たちが創造し,想像していることが現実として実を結ぶことになる未来の世界は,私たちがちゃんと暮らしていける場所になっているだろうか,そうした評価は殆どされない。

(2) 人類絶滅の可能性は30パーセント

現在私たちが直面している危機は,核兵器に加え,新しいテクノロジーに関連したものを含めると,どれだけあるだろうか。また,人類絶滅の可能性はどれだけあるのだろうか。
 
哲学者ジョン・レズリーがこの疑問について研究しており,人類が絶滅する可能性は少なくとも30%という結果を出している。こうした予測だけでも憂鬱にさせられるものだが,人類絶滅に至らなくとも,恐ろしい状況になるさまざまな可能性があることには触れていない。
 
アーサー・C・クラークはこう言っている。莫大な経費さえあれば,やってくる弾道ミサイルの ”わずか”数%だけしか着弾させない,地域的な防衛システムを構築することは可能かもしれない。だが,全国的な防御システムを作るなど,ナンセンスなことだ。戦略防衛構想のような計画を唱導する人間は,『やたら頭はいいが,常識が全く欠如している』連中だ。

クラークは,1世紀後にでもなれば完壁な防衛システムは可能になるかも知れないと思っている。だがそれに関わるテクノロジーからは,恐るべき副産物も出てくるだろう。弾道ミサイルのような原始的な代物には誰も目もくれなくなるような,あまりにも恐ろしい兵器が生まれてくるかもしれない。

(3) 科学的真理が危険な「神の代用品」になるとき

エリック・ドレクスラーは著書「創造するエンジン」のなかで,ナノテクノロジーを利用した,アクティブなシールド防御壁によって,実験室から漏出してしまった, あるいは悪意で意図的に作られた,危険なレプリケーター (自己増殖体) に対する防御しようと提案しているが,防御壁自体も,非常に危険なものとなるだろう。 防御壁自体が自己免疫の機能に異常をきたして生物圏を攻撃するのを防ぐ方法がないからだ。

ロボット工学や遺伝子工学の分野でも,防御壁をつくるには同様な困難がつきまとう。これらの技術はあまりに強力過ぎるので,考えられうる時間枠内で防御策を講じることは不可能なのだ。たとえ防御壁をつくることができたとしても,開発に伴う副産物が,防御する対象である技術と,少なくとも同程度の危険をもつものとなってしまうからだ。

▼このように,防御壁の展望を考えてみると,すべて望ましくないものか実現不可能なもの,あるいはその両方になってしまう。現実的と思える唯一の選択肢は「やめる」ことだ。人類の知識の追求に一部制限を加え,危険が大きすぎる技術の開発を制限することだ。

▼人類は,はるか昔から知識を追い求めてきた。形而上学の始まりは,アリストテレスが述べた,こんな単純な言葉からだった。
    「すべての人間は,本来,知ることを欲求している」。

▼私達は,「情報」というものがオープンにされることの必要性を,社会の基本的価値観として,互いの了解事項にしている。

▼そして,知識が広まることや発展することが制限されることで問題が生じることも理解している。近年,科学的知識は崇拝の対象にさえなっている。

▼だが,人類が真実を希求することの結果こそ,私たちがまさに直面している危機なのだ。科学が追求する「真実」は,それが人類を絶滅へと導くものであれば,危険な,神の代用品であることは明らかだ。

(4) 種としての人類の行動が 人類に不利益をもたらす

私たち人類が,ひとつの生物種として,何を欲求し,将来どういう方向に,どういう理由で進んでいこうとしているのかを,共通の理解として合意できるのならば,未来を,より危険の少ない場所にすることは簡単になるはずだ。なぜなら,私たちが何をあきらめることができるのか,何をあきらめるべきかが分かってくるからだ。

そうしないと,GNR技術 をめぐる兵器開発競争が始まることは容易に想像がつく。
これは20世紀にNBC技術 で起こった兵器開発競争と同じことだ。

GNR技術をめぐる兵器開発競争こそはおそらく,人類最大の危機となろう。なぜなら,いったん競争が始まると,それをストップすることは非常に困難だからだ。

現在のGNRをめぐる危機では,マンハッタン計画のときとは状況が異なり,戦争は起こっていない。自国を脅かす敵国に対時しているわけではない。代わりに,私たちを衝き動かしているのは,私たち自身の習慣,欲望,経済システム,そして知識探求をめぐる競争意識なのだ。

人類には自己の生存を持続しようとする本能がある。だが生物種としての人類の行動を見ると,そこには人類自身の益にはならない部分がある。だから,危機は増大した。それが政治的動機でそうなってしまったのか,大きな脅威に直面した恐怖のせいで非論理的な行動をとってしまっていたのか分からない。だが,これは決して良い兆候ではない。
 

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System を考える -9-

先端科学技術に人類の未来を託せるか 4/8

6. NBC からGNRへ

ドレクスラーはこう説明している。
・今日の太陽電池以上の効率性のない葉を持った『植物』が現れて,
  ほかの植物との生存競争に勝ち,食用にならない葉でもって生物圏の大半を
  占めるようになるかもしれない。
・雑食性の強力な「バクテリア」が現れて,
  ほかのバクテリアを駆逐するかもしれない。
・そうしたバクテリアが,花粉が風に吹かれるように広まり,どんどん増殖して,
  ものの数日間で生物圏をめちゃめちゃにしてしまう可能性もある。

耐性があり,小さく,しかも抑止できないほど早く広がってしまうレプリケーター増殖体は簡単にできてしまう。あらかじめ対策がなければ,それが広がるのはますます簡単だ。すでに,人類にはウイルスやミバエを抑制することだけでも,十分,頭痛のタネになっている。

ナノテクノロジー通の間では,こうした脅威は「グレー・グー(灰色粘質問題)」として知られるようになっている。そうした存在は進化という視点から見れば優れているかもしれないが,それだけでそいつに価値がある,ということにはならない。

自己増殖は遺伝子工学のお家芸だ。細胞のメカニズムを利用して,自己の構造を再生産させるのが,その根底にあるやり方だ。そしてそれはまた,ナノテクノロジーのグレー・グーの根底にある,最も大きな危険でもある。

自己増殖は,私たちが考えているよりも根本的なものであり,それを制約することは難しい――あるいは不可能――かもしれない。

米ネイチャー誌が,32個のアミノ酸を持つペプチド(Peptides)が,「自己の化学的構造を自ら変化させる」能力があることがわかった,という話を取り上げていた。

そうした能力がどれほど多く見られるものかは分かっていない。だが,この発見が;
    「自己増殖する分子システムの実現へ向けて切り開いた道は,
      ワトソン&クリックのDNAの塩基対の発見より,はるかに大きい」
という可能性を示唆しているという。

何年も昔からGNR技術が,知識として広がる危険に対する警告を聞いていた。それは,知識を持っているだけで大量破壊が可能になる,という可能性に対する警告である。だが  オープンな場で議論されたことはあまりない。要するに,危険のことを情報として提供しても,その人にとっての利益はないからである。

  ① 20世紀の大量破壊兵器で使われたのが,
        原子力/生物/化学
        (NBC = Nuclear,Biological,Chemical)技術だ。
        それは主に政府の研究施設で開発され,軍事目的で使用されてきた。

  ② これと対照的なのが,21世紀の技術である
        遺伝子工学/ナノテクノロジー/ロボテイクス
        (GNR = Genetics,Nanotechnology,Robotics)技術だ。
        これらには,明らかに商業的な用途が内在していて,
        これらの開発に携わっているのは 圧倒的に民間企業である。

  ③ 現代は商業主義の時代である。
        技術 (科学は技術に追随するものでしかない) は,次々に魔法のような
        新発明を繰り出しており,それらが莫大な富を生み出している。

私達は今,グローバル資本主義の独走状態の中で,金銭的な動機と市場競争の
プレッシャーに突き動かされて,こうした新技術のもたらす夢を追い続けている。

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