第5章 社会科学の誕生 1/4
★デジタル技術の高度な進化によって,情報通信技術が極度に発達し,
そのゆくへさえ見えない現今である。
★別の面から見ると,最先端科学技術として解明が続いている,
ロボット工学,ナノテクノロジー,そして,遺伝子科学 がある。
★何れの分野でも,その核心には,留まるところを知らない進化を続ける,
コンピュータ技術が欠かせない。
★それら,進化する科学技術が,私達の住む世界,あるいは社会を,
構造化し,システム化し続けている。
★これまで,社会は,システムとして取り扱えないとしていたが,
最近は,社会の殆どの現象をシステムとして扱おうとしている。
★そこで,「社会」あるいは「社会・・・」なる言葉の由来について,
簡単に振り返ってみようと思う。
1 社会的なものの系譜と批判
1980年代以降,日本の社会学においても「言語」に,大きな関心が寄せられるようになった。
L.ヴイトゲンシュタインの「言語ゲーム」論は,一部の社会学者によって注目・再評価されるようになった。「言説分析」なるものも一つの方法として導入が試みられている。
★社会構築主義(社会的構築主義/社会構成主義,social constructionism or social constructivism)とは:ーーー現実(reality),つまり現実の社会現象や,社会に存在する事実や実態,意味とは,すべて人々の頭の中で(感情や意識の中で)作り上げられたものであり,それを離れては存在しないとする,社会学の立場である。(後で概要を説明する )
しかし,社会学のこうした言語への注目は,まだ不徹底なものに思える。というのも,社会学,あるいは広く社会科学が用いてきた言語そのものの自省的分析が,まだ十分にはなされていないからである。社会学者もまた,言語を駆使しながら,一つの世界を,一つの現実を構築する。そのプロセスも考察と分析の対象になるはずなのだが,この部分にはさほど光があてられていない。
G.W.F.ヘーゲルが言うように,「およそ見知られたものは,それが見知られているがゆえに,認識されてはいない」(『精神現象学』序文).あるいは, M.ハイデガーが言うように,私たちは,距離的には最も近くにあるものを,まず見落としたり,聞き落としたりするのが常であり,たとえば,道具として使用中の眼鏡は,文字通り,目と鼻の先にあるにもかかわらず,当人にとっては,自分の眺める正面の壁の絵よりも,ずっと遠いものである(『存在と時間』第23節)。
それと同じように, 「社会」という言葉,あるいは「社会的」という言葉は,社会学(者)にとって最も見知られた,最も近くにある言葉であるにもかかわらず,社会学(者)からは最も遠い言葉であると言えるかもしれない。
たとえば,構築主義の社会学は,セクシュアリティ,ジェンダー,エスニシティ,ネイション,アイデンティティ等々,ありとあらゆる事象が,言語を媒介としながら「社会的」に構築されているのだと主張する。他方では,ここで振り回される「社会的」という言葉が,実のところ何を意味し,また逆に何を意味しないのか,さらに,社会学自身が,この「社会的」という言葉によって,いかなる現実を構築しているのか,また逆に構築し損ねているのかについて,踏み込んで考える必要があるだろう.
(1) 本稿で扱うのは「社会」という言葉ではない。「社会的」という言葉である。
つまり,何らかの実体を想定させる「社会」という名詞ではなく,ある種の様相や様態,さらには運動を表現する「社会的 social」という形容(動)詞と,そこから派生する「社会的なもの the social」という概念が,本論のテーマである。
「社会的」という言葉は,おそらく社会学で最も多用される言葉ではあるが,その意味するところは,きわめて索漠としており,各種の社会学辞典でも,独立の項目として説明の対象になることはない。社会学の中核にありながら,当の社会学によってはまともに説明されないのが,「社会的」という言葉の不思議さである.
▼第一は,ギリシア語の「ピュシス」と「ノモス」として分類されるような,「自然」の対立項として理解される「社会的なもの」である。
たとえば,社会生物学をめぐる論争で常に浮上するのは,この対立であり,社会生物学は(この意味での)社会的なものを自然に還元しようとし,その道に,批判者は社会的なものの独自性,自然からのその独立性を強調する.この独自性や独立性は,前述の構築主義においても,それが強調される.
▼第二は,「個人」に対置される「社会的なもの」であり,その典型は, E.デュルケ-ムの提示した「社会的事実」だろう。
その「外在性」と「拘束性」について,デュルケ-ムは「個人主義」に対置しながら,「拘束という言葉は,絶対的個人主義の熱烈な信奉者たちをたじろがせるおそれなしとしない.」と述べている。
確かに,デュルケ-ムに対しては,その問題設定そのものの硬直性を問いなおす形で,批判が向けられてきた。すなわち,社会的事実のさらに下にある台座として,コミュニケーションや労働といった,人びとの相互行為の過程があらためて掘り起こされ,社会的事実の外在性や拘束性は,こうした生き生きとした相互連関や関係性が物象化した結果の錯視として,捉えなおされてきたのである。
だが,こうした批判においても,その相互行為,相互連関が,個人以上の何ものかであることに変わりはない.
▼第三は,第一や第二のものよりも具体的で,「国家」との対比で語られる「社会的なもの」である。
その典型は,「国家」と「市民社会」という問題構成だろう.この社会を,最終的に国家へと回収するのか,あるいは,あくまで国家との緊張関係において捉えるのか,あるいは,多元的国家論のように,国家そのものを社会の部分集合として位置づけるのかなどと,争点は多々あり,見解の大きな相違があることも事実だが,国家と社会という対立軸は,これまで社会思想の一つの基本線を形成してきたと言ってよい.
▼しかしながら,焦点を「社会」という名詞(実体)ではなく,「社会的」という形容(動)詞に絞るならば,国家か社会かという軸とはずれた第四の意味,おそらく日本で最も見落とされている意味が浮かび上がってくる。その具体例は,以下の二つの文言に見てとれる。
・ドイツ連邦共和国は,民主的,かつ社会的な連邦国家である。
(ドイツ基本法第20条).
・フランスは,不可分の,世俗的,民主的,かつ社会的な共和国である。
(フランス現行憲法第1条).
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