初めまして、もぐらです。
現在メコン・ウォッチでインターンシップをしている、大学4年生です。
幼いころから「国際協力がしたい」という夢があり、“世界最貧国”と呼ばれるラオスに留学したり、そのお隣の国・タイで働いたりする学生生活を送っていました。しかし現地に身を置き、そこで暮らす人達と関わりその生活を目にするうちに、「人は何があって何がなければ幸せなのか?」「“貧しさ”とは?」と考えるようになりました。「そもそも日本人である自分が、他国に“協力”する意味とは?」と、自身の長年の夢自体にも疑問を呈していた頃、出会ったのがメコン・ウォッチです。
今回は、9月27日に行われたセミナー「ミャンマーへの投資と環境社会問題―ティラワ経済特別区の影響住民を迎えて―」に参加し、感じたことを綴りました。
ミャンマー・日本両国が官民あげて進めてきた「ティラワ経済特別区(SEZ)開発事業」の名が新聞に躍り出ることは多々ありますが、メリットが強調されることはあっても、その弊害が取沙汰されることはあまりありません。
私自身が知識不足なこともあり、セミナーでは初めて知ることの連続でした。同時に、この事業に限らない、普遍的な問題のようなものも浮き彫りになったと、私個人的には感じています。
【1】人と企業
セミナーでは、ティラワ地区住民と聴講者合わせて40人以上が、一堂に会しました。
私はこの時、ひどい違和感を覚えていました。
なぜなら、ミャンマー側と日本側、向き合っているはずなのに、お互いが違う方向を向いているような、そんな気がしたからです。
「誰かの人生や生きがい、命よりも優先すべきものって、ありますか?」と、道端で出会った人に、聞いてみたとします。
たぶん、「そんなものはない」と、誰もが言うのではないでしょうか。
ではこの質問を、企業にしたとき、どんな答えが返ってくるでしょう。
「その質問は、企業活動にとって本質的ではない」
そんな風に、はぐらかされてしまうと思います。
でも、その企業で働く個人個人に同じ質問をしたら、やっぱり、道端で出会った人と同じ答えを出すでしょう。
すごく不思議だけど、考えてみると当たり前。
人は、自分や周りの人の“幸せ”の為に生きてるのかもしれないけれど、企業は、“利益”の為に在るから。
このセミナーにあった違和感とは、両者の目指すものが全く違う方向にあるという、ちぐはぐさのことだったのだと思います。
【2】何が起きている?
企業は、利益を上げていかなければいけない。
企業は、消費者の欲望に、答え続けなければいけない。
企業は、国は、常に成長していかなければいけない。
そんな「使命」に憑りつかれて、社会に無理を強いているうちに、徐々にいろんなところに歪みが生まれたのだと思います。例えば、今ティラワ地区で起きていることのように。
本当は、どうすれば無理がないか、歪みができないか、考えてから実行に移していくべきです。しっぺ返しは、いつか自分達のところに戻ってくるのだと、理屈では誰もが分かっているのではないでしょうか。
でも、状況はめまぐるしいスピードで動いていて、立ち止まって考えることを許しません。激しい国際競争に負けないよう、常に走り続けなければいけません。
だから、自分達とは関係ない、何処かの誰かを犠牲にして、少しでも時間稼ぎをしながら、どんどん新しいことをするしかありません。
失敗しても、自分達には痛手がないように。見えないように、巧妙に。
仮に、この事業で思うような結果が得られなかったとしても、企業や国にとっては大したことではないでしょう。
「上手くいくか分からないが、やってみよう。失敗したところで、お金と時間が無駄になる、せいぜいそれくらいのことだ」
そんな軽い気持ちでも、始められることなのかもしれません。
でも、住民にとってはそれだけでは済まされません。
企業や国の思いつきに、人や、家族の運命が振り回されている現実があります。
人生を狂わされるのが、自分だったら?家族や、友達だったら?
それでも、この事業を推し進めるでしょうか。
問題が自分の身の回りから離れたとたん、考えることを止めているような気がします。まるで、ゴミをポイ捨てする人みたいに。
【3】誰のせい?
実はこの時、もう一つ、違和感を覚えたことがあります。
それは、自分の考えが穴だらけだということです。
自分の考えと現実とを見比べてみた時、大きな矛盾に気が付いてしまいました。
例えば、今回のセミナーに参加した後、「だから今の社会のシステムが嫌いなんだ!」とか「もっと思いやりを持つべきだ!」とか、そんな薄っぺらい言葉を感情的に叫ぶのはとても簡単です。
でも私は、そんなことをしたくありません。そんな権利がないことも、分かっています。
なぜなら、その大嫌いな“今の社会のシステム”の恩恵に預かって、私は自分の生活を成り立たせているからです。
1年中“季節の食べ物”を口にし、安価な洋服を使い捨て、流行りの化粧品を惜しみなく使い、スマホのモデルチェンジを待つ。
私達消費者が便利でモノに溢れた生活を求め、企業はそれに応えてきたまでのことです。
企業の活動を一方的に批判することが出来る人は、おそらくどこにもいません。
今のシステムを作り上げ支えてきたのは、紛れもなく、消費者である私達自身です。
物質的に“豊かな”生活の向こう側にある誰かの涙に知らんふりをして、今の生活を享受し続けてきたのも、私達です。
まず、謙虚に反省すべきは、自分なのだと思いました。
【4】どうするべき?
セミナーでは、ある住民が「当事者である民衆が立ち上がる必要がある」と言いました。私にとって、この言葉がとても印象的でした。
変えたいなら、変わるべきなのは、私達。声を上げていくのも、私達です。
私は、とりわけ、若者にその役目があると思います。だって、この社会を作り上げたのは大人達かもしれないけれど、これから生きていくのは、私達若者だから。
大人達が当たり前のように私達に刷り込んできた価値観を、一つ一つ考え直さなければいけない時が来たのだと思います。
「私達の時はこうだった」「これが伝統・常識だ」なんて言う大人はどこにでもいるけれど、従う必要はないと思います。そうやっていつまでも過去を押し付けるような人は、美化された思い出に浸り続けて、自分のやり方の欠点を見認めたくないとか、見たくないものから目を背けたいというだけではないでしょうか。
疑問なんて抱かない方が、楽なのかもしれません。既に確立されてきた考え方や手法に倣うのが、要領のよい生き方かもしれません。
でも、そうやって“みんな”と同じようにしていったとしても、いざ立ち行かなくなったとき、“みんな”が助け合える確証はないと思います。
「自分の身近な所にのみ気を付けていれば、自分が生きている間くらいは逃げ切れるだろう」と目論んでいるような今の社会を見る限りだと、ピンチが訪れた途端みんなが団結し合う、なんて都合のいいことは起こらないと思います。
大事なのは、一人一人が自分の意志を持ち、それぞれの立場で声を上げ行動することだと思います。
「知識が無いから分からない。だから意見を言っても、批判されてしまうかもしれない」
そんな恐怖も感じるかもしれません。
でも、この文脈で使われる“知識”という言葉は、「教科書や先生から習うような、西洋的な、すでに確立された理論や概念」という意味ではないでしょうか。
自分の見聞きしたことや経験、確証のない気持ちや感覚などから生まれる意志や意見にだって、価値はあるはずです。
自分一人だけで何かを変えることは難しいと思います。でも、例えごく少人数だとしても、声を上げ行動に移す人がいるという事それ自体に、大きな意味があると思います。
今回のセミナーの聴講者は、自分と同じくらいの歳の人がほとんどいなかったのが残念でした。もっとこういうところで、自分と同じくらいの歳の人や学生と出会い、話をしたいなと思います。