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2017年1月 4日 (水)

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レンタルで、『スポットライト 世紀のスクープ』。
201604140000000view僕は、映画がなぜ映画でいられるのかを問いかける、駆動原理がむき出しになった作品が好き。だけど、『スポットライト』のように題材に社会的意義を見出し、世の中に広めて歴史に残すことも商業映画の大きな機能だと思う。
この作品はアカデミー主要賞はじめ、各国で賞をとりまくった。そうでもしなければ、埋もれてしまいかねない作品だが、「カトリック教会の神父による児童性虐待と組織的隠蔽」という衝撃的なモチーフが、そうはさせなかった。映画批評家たちの良心が、この作品に光を当てた。

カッティングや構図の分析なんて後回しにして、妻と別居するほど仕事熱心な新聞記者を演じたマーク・ラファロと一緒に、激怒すべきだ。
いつも貧乏ゆすりしていて、資料の山の中で食事するマーク・ラファロはじめ、ひとりひとりの人物の描き方は念が入っており(特に飲み物や食べ物の使い方が上手い)、まったく飽きることがない。
映画の面白さはカメラワークだけではないのだと痛感させられる。奥深い人間観察眼がなければ、こういう映画は撮れない。


『スポットライト 世紀のスクープ』の中では、「性虐待を働いた神父だけを責めてもムダで、彼らを生み出し、擁護するシステムそのものを告発せねば」という言葉が、何度か繰り返される。
また、カトリック教会相手の裁判に手を焼いているベテラン弁護士が「子供を育てる者は、誰もが子供を虐待しうる」(「子育てを街に頼れば、虐待も街ぐるみ」)と、痛烈な言葉を吐く。

彼らの敵は、システムであり、権威である。
信仰がからむので日本では分かりづらく感じるかも知れないが、ようは学校教師が立場を利用して教え子を性虐待しており、その数がハンパではない……と言えば、イメージしやすいだろう。池谷孝司さんの『スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか 』()で、教師たちが性虐待する精神構造が、詳細にルポしてある。親たちが被害児童よりも、加害した大人を守る構図も、『スポットライト』とそっくり同じだ。

教会だとか学校だとか、「聖職」を利用した虐待を根絶すべきであって、犯人がペドフェリアとはかぎらないわけ。だけど、「秋葉原で児童買春が行われている」「児童ポルノが売られている」と声高に訴える人たちが、増加する学校教師や警察官の性犯罪に立ち向かったなんて話は、一度たりとも聞いたことがないよね?
なぜなら、彼らは権威の側に属しているから。彼らは、「力で抑圧しろ、黙らせろ、罰しろ」という権力側の思考をしている。だから、外国人記者の前でスピーチしたとか、国連に呼ばれたとかいう派手なニュースバリューが大好きなのよ。
バチカンですら音をあげた話題作『スポットライト』、欧米崇拝の彼らは、どんな感想をもったんでしょうか。「アメリカのような先進国で、そんなに性虐待が起きているはずがない」と、いまだ思いこんでいるんでしょうか。


だから、『スポットライト』が欧米で好意的に迎えられているのが、僕には痛快なの。
性虐待、性犯罪を「秋葉原のせい」「オタク文化のせい」「個人の性嗜好のせい」にしたがる連中が、こぞって無視しているから。黙るということは、権力への恭順と同じ。『スポットライト』の主人公たちは、まず黙ることをやめたんですよ。

ジャーナリストは、一方にとって気持ちよければ、もう一方からは憎まれる職業です。
好意をもたれるばかりではなく、憎まれることを堂々と受け入れる。議論を発生させて、発言に責任をもつ。それが健全な状態なんですよ。

繰り返すけど、僕らの敵は、力と立場を利用して相手をしたがわせようとする「システム」です。力関係による抑圧は、仕事の場でしょっちゅう起きているし、居酒屋で飲んでいるときにも生じうる。きわめて日常的であり、だからこそ敵なんですよ。
「いやもう、力の強い相手にはかなわないから、黙って従うよ」って情けないあきらめを、「大人の対応」とかいうクソみたいなフレーズでごまかすなって話です。

Photo by Kerry Hayes (C) 2015 SPOTLIGHT FILM, LLC

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