阿房、阿呆、アホウ
積ん読になっていた作品を消化していたのですが、うーん、もっと早く読んでおけばよかった、一條裕子の二作。
●一條裕子『道子のほざき』(2009年Bbmfマガジン、838円+税、amazon、bk1)
●一條裕子/内田百閒『阿房列車』1号(2009年小学館、1000円+税、amazon、bk1)
『道子のほざき』は「だんご三兄弟」が流行ってたときの連載ですから、かなり古い作品です。最近単行本化されました。
麻雀というゲームは、知らない人にとっては囲碁や将棋以上に何が何やらだと思います。とくにその用語がむずかしい。字一色とか十三不塔なんか、一般人は読むことすらできません。本書はその複雑怪奇な麻雀用語を、麻雀のことを何も知らない作者がムリヤリ解説しちゃおうというマンガ。
年老いた父親とその娘の二人暮らし。娘は父親に、麻雀用語を中国の故事、ことわざとして解説します。しかしすべてはデタラメ、ホラです。落語の「つる」とか「千早振る」ですな。
麻雀マンガ雑誌に連載されたものですが、だからといって読者全員が麻雀用語に詳しいはずもなく、このホラ解説にはだまされてしまうかも。しかし竹書房の編集者はよくもまあ一條裕子にマンガを依頼したものですねえ。
娘が父親に対して何やら悪意を持ってるらしい、というところが奇妙な味。二人の関係に秘められた謎が次第に明らかに。って別に驚愕と戦慄のラストが待っているわけではありませんが。
登場人物が最初から最後まで「といといほー」と叫んでいるだけ、という「対々和」の回には笑わせていただきました。
*****
『阿房列車』は「あほうれっしゃ」と読みます。
内田百閒のエッセイをマンガ化したものです。原作は内田百閒が昭和25年から書き続けた列車紀行文。とはいえ百閒先生、何の目的もなく東京から大阪へ列車で向かい、一泊しただけですぐ帰ってきます。そのためには借金までしてしまう。
百閒自身は鉄道旅行のことを「阿房列車を運転する」と書いてます。まさに「鉄ちゃん」のバイブルのような作品。
一條裕子によるこのマンガ化、たいへんすばらしい。じつはわたし、マンガを読んだあとで原作読みましたが、マンガはエッセイより出でてエッセイより青し。これは傑作。
キャプションには百閒の文章そのままを使用し、かといってエッセイの文章すべてを絵解きしていたのではマンガになりません。そこには文章の取捨選択があり、マンガ家の腕と個性が介在します。
一條裕子版『阿房列車』では、百閒の思考過程のおもしろさ、鉄道の楽しさ、さらに旅情がバランス良く構成されています。
百閒先生がいかに偏屈で変人か、といっても行動がヘンというより、思考過程がヘンで楽しいのですが、それが小さいコマでちまちまと表現されたあと、ページをめくると見開きでどーんと列車を描いた風景が眼前に表現される。これがいい。
百閒先生の思い出話では、旅館の女中が百閒先生を「糾問」した話が出てきます。マンガではこれが「糾問」と大きなフォントで描かれてます。マンガ/ネット以後の表現で、百閒世代にはきっと邪道だとは思いますが、これは現代では有効だと思いますよ。百閒が生存していたら使ったのじゃないかしら。
本書でマンガ的にいちばんおどろいたのは、鹿児島阿房列車後章一、百閒先生が夜遅く列車に乗るシーン。原作エッセイではどうということはないこういう描写。
間もなく向うの暗闇の中から、明かるい塊りが近づいて、その電車は狐ではなかった。
ところがマンガでは、「近づいて」と「その電車は狐ではなかった」の間に二ページにわたる見開きの大きなコマが描かれています。百閒先生が電車に乗り込むと、乗客全員が狐のお面をかぶっているのです。一瞬の幻影。
どっひゃー。エッセイの意図以上のことをマンガが描いちゃったわけです。この瞬間、一條裕子は内田百閒をこえました。
列車や建物、さらに当時の風俗に関する細かい考証も、そつなく描かれてるのでしょう(鉄道に関する知識がなくてよくわかりませんが)。
今回の「第1号」では、原作の阿房列車シリーズ15編のうち、最初の3編がマンガ化されています。どうも全編マンガ化しようという野望があるようで、これは楽しみ。
Comments