もはや日記とかそういう次元ではない

そう、それは日記という既存の枠組みに一切捕われることのない、余りにも宇宙的でユニバースな、それでいてユニバーサルでユニセックスでリバーシブルな、日々の出来事を綴る、例のあれ。日記。

「休みの日は何をしているんですか?」という難解な質問に、我々人類はどのように立ち向かうべきなのか

 

初めましてくらいの、浅めの関係性の人との会話でよく出てくるこの質問。「休みの日は何してるんですか?」

 

今日も、仕事で出会った人から聞かれてしまった。

 

昔から思っていたが、この何気ない質問の破壊力はヤバい。一体何を答えれば良いのか、皆目検討もつかない

 

まさに超難問

 

 

 

まず大前提としてなぜ回答が難しいのかと言うと、休みの日には決まってコレをしています!というような、定番の活動みたいなのが自分には存在しないからである。

 

友人と飲みに行っている日もあれば、旅行をしている日もある

疲れて家で寝ている日もあれば、鬼の形相でオナニーをしている日もある。

 

休みの日の活動が、毎週、全くと言って良いほど違うのだ

 

 

 

つまり、実態に照らし合わせて相手の質問に正確に答えようとすると、「休みの日によります」になってしまう。

 

しかし関係の薄い間柄で、こんなぶっきらぼうな答えが返ってきたらどうだろうか。冷たい印象を与えてしまいそうだ。

 

なにその答え?と思われてしまう

 

 

 

 

ただ、事実はと言えば、本当に、“休みの日による” のである。それ以上でも以下でもない。

しかしこの回答は明らかに素っ気なさが過ぎる

 

 

じゃあ、それならば過去の休日を全て思い出し、“過去の自分がどんな休日にも絶対に欠かさずやっていた活動” を、むりやり探し出して答えれば良いのだろうか。それも違う気がする。

 

何故ならば、その理屈でいくと「休みの日は何をしているんですか?」に対して、「小便」と答えることになってしまうからだ。

 

 

まだ出会って日も浅い、精神的な距離感のある間柄の他人に対し、満を持して「休みの日は小便をしている」と発表すること。

 

それだけは良くないだろう。その程度の常識は備わっている。

 

 

 

さて、休みの日に何をしているのかという質問は、“休みの日に決まってする何かが存在しているだろう” という仮説の元に成り立っている。

 

ここが、難しさの元凶だ。

 

ではこの構造を指摘し、なぜ先方がその仮定を置いたのかを問いただすのが正しい切り返しなのだろうか?

「休みの日は何をしてるんですか?」

 

「まず、私が休みの日に決まって何かをしているという仮定を置いた根拠を、御教示頂けますでしょうか?」

 

  

絶対に違うだろう。こんなややこしい人間とは、もうこれ以上会話をしたくない。二度と近寄らないで欲しい

 

こういう人間は得てして自分が論理的であることに対し、変にプライドを持っているのだ。そのくせ実態は大したことがない。あと多分真性包茎

 

 

 

 

 

休みの日には何をしているのかという、非常に奥の深い、難しいこの質問。

 

ただでさえ難しいこの質問を更なる難問たらしめているのは、この質問が、一見シンプルで簡単な質問に見えるという点だ。

 

そんなに難しいことを聞いているわけでもない。サラっと答えられるような、気軽な質問

 

そう思わせてくることに、この質問の更なる難しさがある。少しでも回答に詰まってしまうと、やたら不気味なのだ。

 

 

想像してみて欲しい。「休みの日は何をしてるんですか?」と聞いてみたところ、相手が突如として、「え、え、え? え 休みの日、え〜っと休みの日か、え〜っとですね、休みの日は、え〜っと、え、ええ、え、E、EE」と唸り出す姿を。

 

 

「めっっっっちゃ怪しいことをしているに違いない」と思わないだろうか。いや、私なら絶対にそう思う。

 

ん?女子高生の盗撮、もしくは大麻の栽培でもしてるのかな?と勘ぐる。これ以上は聞かないでおこう、と思う

 

 

しかし、だからと言って回答に必要な時間を相手に誠実に伝えれば良いのかと言うと、それもまた絶対に違う。「休みの日は何をしてるんですか?」

 

「休みの日ですか?有難う御座います。5分ほど、お時間を頂いても宜しいでしょうか。」

 不気味過ぎる

 

滑らかなコミュニケーションの途中で、突如として5分ほどお時間を貰うのは、失礼を通り越して不気味なのだ。

 

 

 

  

 

つまり、纏めると、どういうことなのか。

 

質問自体は超難問でありながら、回答には実質的に時間制限が設けられており、直ぐに、正確に、滑らかに、完結に、気軽に答えないといけない。

 

これこそがこの質問の実態だ。

 

 

例えるのであれば、鬼畜のように難しい数学の超難問を会話の中で何の前触れもなく相手にぶつけ、それを数秒の内に答えるよう迫っているような感じだと思う。

「…あ、僕、出身は神奈川なんです。」

 

「おお、奇遇ですね、僕も出身は神奈川です。ところで、tan 1° が無理数であることを証明せよ。3秒以内。3. 2. 1....」

 

「nンッヴウvあwじぇgkぁあ?!?!?!??!?!」

 

 

こういうことだ。

 

こういうことが、ふとした会話の中で起こっている。少なくとも私にとって。

 

  

 

 

 

ここまでくると、もう、発想を変えるしかない。きっと、これは聞いてきた相手が悪いのだ。そうに違いない。

 

 

休みの日は何をしているのか。この禁断の質問を、口にしてしまったのだ

 

  

そう、会話というのは、それぞれが抱えた地雷を察知し、それを巧みにかわしながら最大限お互いの共通点を探っていく、1 on 1の戦い

命を掛けた戦い

 

年齢について、過去の失敗について、身体的特徴について、休みの日について。人は皆、固有のタブーを持っていて、誤ってそれに触れてしまった方は「敗北」

 

 

 

つまり、聞いてきた相手に分からせるしかないのだ。お前はついに聞いてしまった、ということを。地雷を踏んでしまった、ということを。

 

ゲームに敗北したという事実を。

 

 

つまり、この質問に対する、正しい回答はこうだ。

 

 

「休みの日は何をしているんですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「チェックメイトです。」

 

 

 

 

 

「..おや?」

 

 

 

 

「ここまでですね。あなたの負けです。あなたは私の地雷を踏んでしまいました。 “休みの日は何をしているのか?”」

 

 

 

 

「これはこれは」

 

 

 

 

「師匠。あなた程の手練が、こんなにもサラっと踏んでくるとは思いませんでしたよ。ラストに相応しくない、あっけない幕切れでした。」

 

 

 

 

 

「随分と独特な地雷だったんですね。これは一本取られました。私の地雷を踏む気配も全くなかった。強くなりましたね。」

 

 

 

 

「いえ、あなたが弱くなったんです。師匠とはいえ、寄る年波には勝てませんか。ちなみに、師匠の地雷は何でしたか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「チェックメイト。」

 

 

 

 

 

「...!?」

 

 

 

 

 

 

「"師匠の地雷は何ですか?" とうとう私の地雷を踏んだようだな」

 

 

 

 

 

 

「な... んだ...!? ...と!!?」

 

 

 

 

 

 

 

「私がお前との戦い、人生最後の戦いにセットした地雷は、私自身の地雷の在処。」

 

 

 

 

 

 

 

「...そ..な..  ..ば..  ばかな...!」

 

 

 

 

 

 

「はじめから、地雷なんぞどこにも無かった... お前が...それを探し求めるまではな」

 

 

 

 

 

「な....! ....なz..だ.!!!? はじめから... 刺し違える..前提だった..のか..!? 俺に勝つ気など... なか...った..!?」 

 

 

 

 

 

「早まったな... 若造... 勝利を確信したその瞬間から..貴様は地獄へと突き進んでいったのだ..  

 

貴様を滅ぼしたのは私ではない...!! 貴様自身の... 慢心!!!!!

 

私と共に!!地獄へ!!!!落ちるが良いぃぃいいいいっ!!!」

 

 

 

「う.. うぉをををぁあけbらえrばpbrえsああ!!!あああああああああああああああ!!!!

おっっぱぁぁあああ〜い!! 揉みたあああ〜い!!!」 なんの

 

  

話をしてたんでしたっけ? あ、休日だ。 休日の話だった

 

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