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他人の文章を読むということ

前回、ブログは文章力を上げるとは限らないというエントリで、特定の人にのみ向けた文章を書き続けているとその形式が身に染みてしまい、他の人に書く文章を書くのに内部での変換が必要となるという記事を書いた(つもりでした)。前回、書くことについて書いたので今回は読むことについて思っていることを書こうと思う。

私はかつてから、自分が受けてきた国語教育に疑問に思っていた。教科書に載っている文章を読み、「この作者は何について考えているか述べよ」のような問いに答えるだけ。これの繰り返しが何を意図していたのか、無能な私にはサッパリわからなかった。読むだけではなく、書くことでもそうだった。「思ったままを書きなさい」とテーマ作文を渡されても、何をどのように書いたらいいか分からなかった。最初からテクニックを教えたら個性がなくなると思っているのだろうが、最初は型を教えないと個性も産まれないどころか、何も書けない子どもばかり産出してしまうのではないだろうかとずっと思っていた。

しかし、近年の読解力低下からついに文部科学省も重い腰を挙げ、「読解力向上プログラム」を作るとのこと。

読解力向上へ、算数・社会でも読む力養成 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
読解力 全教科で養成 文学中心から『論理』も重視

上記の記事によると、「読解力向上プログラム」によって以下の充実が図られるそうだ。

(1)文章や図表を理解・評価しながら読む力
(2)自分の考えを書く力
(3)文章・資料を読む機会や自分の意見を述べたり、書いたりする機会

私はこの中でも「3番」に期待をしたい。そして、もしかしたらその機会の一つとしてブログが授業に取り込まれることになるのではないかとも思っている。

現状、国語教育ではプロの文章ばかりを読ませている。そのため間違った文章というものは、授業やテスト等で指摘するくらいしか機会がない。そのためか、「相手の否を指摘すれば、その時点で自分は正しい」という考えを持っている人が多くいるように思う。しかし、ブログを読むようになると書き手のほとんどが素人である。ましてや授業で書いたものならば皆同じ学生である。間違いはあって当然なのだ。それを指摘することで優越感に浸るのがどれだけ意味のないことかを感じて欲しい。むしろ、どの部分が良かったか、悪い部分をどのように修正すればもっと良くなるかをアドバイスできるような人になるべきだと思っている。

自分のブログを持つということは、「書く」ことがメインに思われる。しかし、ブログを持つようになると書くこと以上に読む機会が増えるものだ。今まで「ブログを書き続けることで自分の立ち位置を把握する」のようなことを何度も書いてきた。そう考えると、他人のブログを読むことは「その人の立ち位置を知る」ことになる。多くのブログを読むことで、多くの人の立ち位置を知り、それによって、自分の立ち位置が明確になるというものだろう。

<まとめ>
 「知る」ために「読む」。
 「書く」ために「読む」。
 
 
 
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(この記事の概要) ・小説の読解は  「文章の映像化」が基本になる ・説明文の読解は  「語の意味→対応→関係→構造→文意」  という段階で捉えていく ・学校の国語の教育でも ′応「システマティック」な教育は 》図されていた、と思われる ### 周回遅れで反応するの..... [続きを読む]

受信: 2005.11.01 00:02

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