貨幣が「信用」から生まれるなどありえない
先日Twitterを見ていたら「貨幣は信用から生まれる」と言っている奴がいた。そ奴はバラマキ政策も支持していて幾らお金をバラ撒いてもハイパーインフレになんかならないという様な事も言っていて、おバカなケインジアン丸出しという感じであった。貨幣が信用から生まれるというのも確かにケインジアン的だ。
しかし経済学の事を何も知らなくても、貨幣が信用から生まれるというのは常識からしても考えられない。例えば僕が「1万円」と書いた紙切れを誰かに渡して、これを信用して1万円分の商品と交換してくれと言ったらどうなるか。または初めて行った店で買い物をするときに、代金を「僕を信用してツケにしておいて」などというのが許されるだろうか。もちろん許されないし「お前はアホか」と言われるだろう。
他人の信用を得るには、それ以前に信用を得るための十分な実績がないといけない。お店でツケにしてもらうには、何度も買い物をしてその店の贔屓顧客にならないといけないだろう。貨幣で言うと、いきなり何の価値の裏付けもない硬貨や紙幣を持ってきて「使え」と言われても普及しない。これで物が買える保証などどこにもないからだ。
貨幣が出現する前には物々交換が行われ、その中で最もよく多くの人に扱われるモノが交換媒体となり、それが貨幣になった。歴史的にもこの通りだ。もっとも、信用から貨幣が生まれたと言っている奴は、どこかの島で巨石でできた硬貨(動かせない)の事例をもって、そのように言っているようだが。一般化するのは無理がある。なお「21世紀の貨幣論」という本にその事が書かれていて、ミルトン・フリードマンも認めているという。彼は自由主義者ではあるけれども、元々はケインジアンだからね(経済成長率に合わせて貨幣供給量を増やせなどと言っている。もちろん間違い)。
ケインジアンは概してマクロ経済学を用いるのだが、実はオーストリア経済学においてはミーゼスによってミクロとマクロが統合されている。そして貨幣の起こりと貨幣の価値がどのようにして生じたかを説明している。詳しくは「貨幣及び流通手段の理論」を読めばいいのだが、やはり専門書なので難しい。ミーゼスの弟子の1人のマレー・ロスバードが、この辺りを論文で易しく説明しているので、その部分を抜粋して日本語に翻訳した。以下の通りだ。
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ミーゼスは貨幣の一般的な交換媒体の利点と、そのような一般的な媒体がどのようにして現れたかを説明して、通貨単位は計算の単位として、そして他のすべての価格に共通した分母として役立つけれども、貨幣商品そのものは未だに他のすべての財とサービスとの物々交換状態であることを指摘した。例えば、貨幣以前の物々交換状態では、一元化した「卵の価格」はない。卵の単位(例えば1ダース)は多くの異なる価格を持つだろう。バターのポンドによる「バター」価格、帽子による「帽子」価格、馬による「馬」価格、等々。すべての財とサービスは他の財とサービスによるほとんど無限の価格の並びを持つだろう。1つの商品が、例えば金がすべての交換のための媒体として選ばれた後は、金を除く他のすべての商品は一元化した価格を享受し、そのために我々は卵1ダースの価格が1ドル、帽子の価格が10ドル、等々であることを知る。しかし金以外のすべての財とサービスが今では単一の金による価格を持っているのに、貨幣そのものは実際には他のすべての財とサービスによる個々の価格の無数の並びである。別の言い方をすると、何かの財の価格は他の財とサービスによる購買力と同じことだ。物々交換の下で、もし1ダースの卵が2ポンドのバターであれば、1ダースの卵の購買力はとりわけ2ポンドのバターである。1ダースの卵の購買力はまた10分の1の帽子、等々でもある。逆に、バターの購買力はその卵による価格だ。この場合、1ポンドのバターの購買力は半ダースの卵である。貨幣が出現した後、1ダースの卵の購買力はその貨幣価格と同じであり、我々の例では1ドルだ。1ポンドのバターの購買力は50セント、帽子の購買力は10ドル、等々。
では、ドルの購買力や価格は何か。それはドルで買うことができるすべての財とサービスの、つまり経済におけるすべての財とサービスの膨大な並びになるだろう。我々の例では、我々は1ドルの購買力が1ダースの卵であり、2ポンドのバターであり、または10分の1の帽子であり、などと全経済に対して言うだろう。要するに貨幣単位の価格、または購買力はドルで買うことができる代替的な財とサービスの分量の並びになるだろう。その並びは雑多で独特であるから、何らかのまとまった物価水準の数字に要約することができない。
物価水準の概念の誤りは、ミーゼスのまさに貨幣量の増加に応じて価格が上がる(つまり貨幣の購買力が低下する)様子の分析によって更に示される(もちろん個々の現金勘定の需要計画は、あるいはより一般的に個々の価値尺度は一定のままで)。難解な新古典派の貨幣と物価水準の、相対的な個々の財とサービスの価格からの分離とは対照的に、ミーゼスは貨幣供給量の増加が市場の異なるそれぞれの領域に影響を与え、それによって相対的な価格を不可避に変えることを示した。
(引用者略)
ミーゼスが限界効用理論を貨幣の価格に適用しようとしたとき、彼は後に「オーストリアンの循環」と呼ばれる問題に直面した。要するに、誰かが卵や牛肉や靴を彼の価値尺度に基づいて順序付けるとき、彼はこれらの財を直接に消費する用途によって評価する。そのような評価はもちろん市場における価格決定とは関係なく先行している。しかし人々は、いつかは生じる直接に消費する用途ではなく、まさに直接に使われるであろう他の財と現金勘定を交換するために、彼らの現金勘定に貨幣を保有するために貨幣を需要する。従って貨幣それ自体は役立たないけれども、それには先行する交換価値があるので、たぶんそれは他の財と交換できるだろう。要するに、貨幣には先行して存在する交換価値があるので貨幣は需要される。その需要だけが市場におけるその存在する価格から独立しているのではなく、それはまさに貨幣が、他の財とサービスによる価格を既に持っていることに起因する。しかしもし貨幣の需要が、つまり貨幣の効用が先行する価格や購買力に依存するなら、その価格はどのようにして需要によって説明することができるのか。限界効用理論を貨幣に適用するどんなオーストリアンの試みも、循環する罠に密接に捕らえられるように思える。それが理由で主流派の経済学者は限界効用理論を貨幣の価値に適用することができず、そのために多数の関係の(あるいは関係が全くない)ワルラスの教義に立ち去っている。
しかしながらミーゼスは彼のいわゆる退行原理を開発して、1912年にこの問題を解決するのに成功した。要するにミーゼスは、現時点の-例えばX日の-貨幣、あるいは現金勘定の需要は、前日であるX-1日に貨幣が購買力を持っていたという事実に依存する。X日の貨幣の購買力は、X日の貨幣の供給とその日の現金勘定の需要の相互作用によって決まり、それは次にその日の個人の貨幣の限界効用によって決定される。しかしこの限界効用は、つまりこの需要は必然的な歴史的要素を持っている。貨幣は先行するX-1日の購買力を持っていて、そのために個人はこの商品が貨幣の機能を持っていて未来の日に他の財やサービスと交換できるであろうことを知る。しかし、では何がX-1日の貨幣の購買力を決定したのか。再びその購買力はX-1日の貨幣の供給と需要によって決定され、それは次にX-2日に貨幣が購買力を持っていたという事実に依存した。しかし我々は、循環する罠から逃れられず最終的な説明なしに、無限の退行に捕らえられていないか。そうではない。我々が行わなければならないことは、貨幣商品が間接交換の媒体として使われずに、純粋にそれ自身を直接に消費する用途のために需要された時点までの、一時的な退行である。論理的に商品が、例えば金が交換媒体として使われた2日目に戻ろう。その日に金は先行して存在する貨幣としての、あるいはむしろ交換媒体としての1日目の購買力のために部分的に需要される。しかし1日目についてはどうだろうか。その日には金の需要は再び、金が1日前の購買力を持っていたという事実に依存し、そのために我々は物々交換の最終日に分析を押し戻す。物々交換の最終日における金の需要は純粋に消費に使うためであり、どんな前の日を参照する歴史的な構成要素も持っていなかった。物々交換の下では、すべての商品は純粋にそれを現在の消費に使うために需要されるからで、金にも違いは何もなかった。金が交換媒体として使われる初日には、金はその需要や効用に2つの構成要素を持ち始めた。1つ目は物々交換で存在していたような消費のための使用で、2つ目は貨幣として、または交換媒体としての使用で、それはその効用に歴史的な構成要素を持った。要するに、貨幣の需要は物々交換の最終日まで押し戻すことができ、その時点で貨幣商品の需要の時間の構成要素は消滅し、貨幣の現在の需要と購買力の原因となる力はすべて完全に説明される。
ミーゼスの退行原理は、現在の貨幣の需要を完全に説明し、貨幣理論を限界効用理論と統合するだけではなく、それはまた貨幣がこの方法で-市場において-市場における個人が何か以前に価値のある商品を交換媒体として次第に使い始めることから生じなければならないことも示している。どの貨幣も、何か以前に価値のない物を貨幣として考える社会の合意や、突然の政府の命令によって生じることはありえない。それらの場合、貨幣商品が以前に購買力を持つことはありえず、個人の貨幣の需要で考慮に入れられることなどありえない。このようにしてミーゼスは、貨幣が市場に出現する方法についてのカール・メンガーの歴史上の洞察が、単に歴史の要約ではなく理論的な必然性でもあることを示した。もう一方で貨幣は、例えば金のような直接に役立つ商品として生じなければならなかったけれども、退行原理に照らして、その商品が貨幣として使われた後でそのような直接の使用が続く理由は何もない。ひとたび貨幣として確立されれば、金や金の代替物はそれらの直接に役立つ機能を失うか奪われることが可能になり、未だに貨幣であり続ける。前の日の購買力への参照が既に確立されているであろうからだ。
※Murray N.Rothbard, Economic Controversies, Ludwig von Mises Institute, 2011
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