大阪自転車さんぽみち

ポタリングのルートなんかを記録したいな

大塩平八郎の乱

概要

 天保8年(1837年)大坂で起きた「大塩平八郎の乱」、その首謀者大塩平八郎の武装蜂起から終焉までの足跡を自転車で辿るという企画。これまで史実についてよく知らなかったけど、調べては走り走っては調べしてみると興味深い事柄が多く、こういう掘り起こしもいわゆる「ポタリング」の面白さですよね。


ルートはこちら


 走行距離8.5km、距離が短いので2時間ほどでまわれる軽めのライドになります。

序章

 天保4年(1833年)の大凶作から始まる大飢饉は数年間に渡り数多くの餓死者を出した。米不足のなかでも大坂の豪商は金儲けのために米を買い占め、飢饉の対策をとるべき奉行所は不正・汚職が蔓延していた。
 大坂東町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎は、飢えに苦しむ民衆の救済を奉行所に進言したが受け入れられず、それどころか大坂町奉行は豪商から買い入れた米を徳川家慶の将軍就任の儀式のため江戸へ送るなどし被害を拡大させた。
 天保8年(1837年)、大塩はこのような大坂の窮状を顧みず私利私欲に走る豪商や奉行所に憤慨し、天天誅を加えるべく武装蜂起を決意。決起の時は新任の西町奉行役人が東町奉行所へ挨拶に来る2月19日夕刻、東西両奉行を一度に爆死させ豪商が囲う米蔵を打ち開き困窮する民を救うため。
 しかし大塩らの企ては直前に門弟の密告で奉行所に知られてしまい、当初の計画を捨てて19日朝に事を起こさなければならなくなった。

「救民」の旗を掲げて

川崎橋

 今回のスタート地点は大川に架かる自転車歩行者専用橋「川崎橋」、北大阪サイクルラインのルート上なので自転車でアクセスしやすいです。

 本日納車したばかりのピカピカの新車、Electra townie 7D 24インチ。
 「救民」の旗を掲げて出発。

「川崎東照宮跡」碑

 小学校前にある石碑、武装蜂起の当日ここの境内が集合場所でした。はじめに集まったのは二十名あまりで、「救民」の旗をかかげ2門の大筒などで武装し決起しました。

 

 川崎東照宮は徳川家康の一周忌に東照大権現(家康)を祀るために建てられました。豊臣びいきの大坂で徳川の権勢を誇示する意図もあったようで、大阪市史料調査会『編纂所だより 第27号』によると春と秋に「権現祭」が行われ、一説には10万人もの参拝者が訪れたそうで、また幕府の命で軒々に提灯が掲げられ、「浪花随一の紋日(祭日)」とされたそうで、しかし一方で大坂町人からは胡散臭いと思われていてあまり信仰されていなかったとか。大塩平八郎の乱で焼失し、のちに復興したが明治になって廃絶、跡地は造幣局となり一部は小学校に…。
 人々に信仰が根付いてなかったり明治になって廃絶したりと、良くも悪くも徳川の威光が色濃い社だったようで、ここを反乱の集合場所にしたというのもなにか皮肉めいてますね。

与力役宅門

 ここは造幣局の敷地内にあります。小学校脇の路地を進むと。。

 

 思いっきり柵がある。実は造幣局内ということで見学できるか不安で事前に電話確認したのですが、見学は自由だけど職員が住むの官舎があるので迷惑にならないよう静かに見てくださいとの事でした。。
 けれど鍵はかかっていないけど門が閉められていてちょっと入れそうな雰囲気じゃないので門の外から撮影と。

 この奥に洗心洞跡碑があるはずなのですが。。洗心洞は大塩平八郎が与力を辞した後に自邸に開いた陽明学の私塾。反乱はこの自邸に火をかけることから始まりました。

「大塩の乱 槐跡」碑

 大塩の乱の時ここにあった槐(えんじゅ)の木に砲弾があたり割れ裂けたそうです。

 

 槐は砲弾で裂けてもなお枯れずその後150年近くもの間歴史の生き字引のように立ち続けていましたが、1984年に枯死、新たに槐の若木を植樹しここに石碑が建てられました。

成正寺

 このあたりが奉行所の役人の屋敷が並んでいた地域で「同心」「与力町」という地名が残っています。大塩らはこれらの屋敷に大筒を撃ちつけ火を放ちながら西へと進軍しました。

 大塩らはその後天神橋を渡ろうと大川沿いへ向かいますが、ルートを逸れてちょっと西へ寄り道。天神橋筋に蓮興寺というお寺があり大塩家墓所と書かれてあるのですが、門が閉じられていて中に入れません。

 

 蓮興寺のすぐ裏手にある成正寺、ここに大塩平八郎とその養子格之助のお墓があります。

 

 大塩父子だけでなく「大塩の乱に殉した人ひとの碑」も。

大阪天満宮

 「救民」を掲げて蜂起した大塩らでしたが放った火ががひろがるばかりで、大阪天満宮までも延焼してしまいました。

 

旧鴻池家本宅跡

 淀川(現・大川)に架かる天満橋・天神橋が既に幕府側の手により落とされていて、大塩らは更に西に迂回し難波橋を渡り、北船場に居を構える豪商の屋敷を打ちこわし火をかけていきました。

 

 天神橋北詰に展示されている先代の橋銘板と説明の碑、現在のものに架け替えられたのは1934年だそうです。

 

 大塩らが渡ったとされる難波橋の現在の姿、ライオン橋とも呼ばれています。中之島はちょうどバラが見頃で多くの人で賑わっていました。

 

 橋の真ん中、中之島へ下りる階段のある場所に碑文が、ライオン橋の意匠は先代から引き継がれたものなんですね。

 

 難波橋を渡って船場へ、旧鴻池家本宅跡碑、現在は大阪美術倶楽部の建物が建っています。

「天五に平五 十兵衛横町」碑

 「浪華名所独案内」という江戸末期の古地図より。現在の大川沿いに「平五」「天五」「鴻池」と両替商が並び、少し南側に「岩城呉服店」「三井呉服店」などがあります。大塩らはこれらの屋敷に火をかけていきました。

大阪市立図書館 資料詳細 「浪華名所独案内」より部分引用

 大坂の有力な両替商「天王寺屋五兵衛」と「平野屋五兵衛」の2軒が道をはさんで店を構えていたことから「十兵衛横町」 と呼ばれたそうです。天王寺屋はNHK連続テレビ小説「あさが来た」で主人公あさの姉はつが嫁いだ山王寺屋のモデルだそうです。

2023/06/28追記
 大塩焼けを表す地図(かわら版)を見つけたので画像引用貼り付け。

大阪市立図書館 資料詳細 「大坂大火の図:天保八年二月十九日朝辰の上刻より天満川崎与力町の辺より出火」より

東町奉行所跡

 大塩の勢力は次第に町衆も加わり300人にもなり東へ向けて進撃。しかし所詮は寄せ集めの素人集団、午後には出動した奉行所の部隊にあっという間に蹴散らされてしまいました。

 

 大阪城近くにある東町奉行所跡。大塩らはここを目指して進撃したのでしょう。

八軒家船着場跡碑

 反乱が失敗に終わった大塩らはこの八軒家から船に乗り、日暮れ頃まで町の様子をうかがっていましたが、日が暮れた後に四ツ橋付近に上陸し平野を経て大和方面へ逃走しました。

 

 八軒家浜は江戸時代に京と大坂を結んでいた三十石船の船着場で交通の要衝。

 

 大和方面へ向かった大塩らは、途中ではぐれた者や自害した者もあり二十二日には養子の格之助と二人きりに、二人は大坂へと引き返しました。

大塩平八郎終焉の地

 大坂へ引き返した大塩父子は、懇意にしていた靱油掛町の美吉屋という商家に40日あまりの間潜伏しました。大塩は決起の直前、江戸の幕府老中にあてて大坂町奉行所の不正や役人の汚職を告発する密書を送っていて、この密書が幕府要人に届けばきっと大坂での役人の不正義が正されるとの一縷の望みをかけて。
 しかし平八郎の望みはかなわず密書は大坂奉行所の手回しにより途中で押収されてしまいました。

 靭公園にある「大塩平八郎終焉の地」碑。

 

 大塩父子の潜伏は、美吉屋の女中が帰郷したとき、美吉屋の老夫婦が神様へのお供えとして毎日米を取り分けて置くのをおさがりが少しも無いと漏らしたのをきっかけに見つかってしまい、奉行所が捕縛のため包囲したところ、父子は火薬に火をつけて爆死しました。

おわりに

 実はこの記事は2年前の2021年5月に書きかけていたのですが「大塩平八郎終焉の地」碑が靭公園内に移転していたのを知らず写真を撮れなかった為にお蔵入りしていました。
 今回新車の納車に合わせて写真を撮ってまわる事ができ、晴れて記事公開となりました。

参考webサイト

大 塩 の 乱 資 料 館
大塩平八郎の乱 - Wikipedia
川崎東照宮 - Wikipedia
大阪市史料調査会『編纂所だより 第27号』
大塩平八郎の乱・天満界隈を尋ねる
大阪歴史散歩:大塩平八郎の足跡をたどる

×

非ログインユーザーとして返信する