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映画「東京2020オリンピック SIDE:A」

 河瀬直美が総監督を務めた2021年東京五輪(大会名は「TOKYO2020」)の公式映画は「SIDE:A」と「SIDE:B」の2本組になった。プログラムの「イントロダクション」には<『東京2020オリンピック SIDE:A』では、表舞台に立つアスリートを中心としたオリンピック関係者たちが描かれる。『東京2020オリンピック SIDE:B』では大会関係者、一般市民、ボランティア、医療従事者などの非アスリートたちが描かれる>と書かれている。
 
 アスリートがどう描かれているかには興味があったので、上映中の「SIDE:A」を見た。
 大傑作とも思わず、大駄作とも思わない。2時間の上映時間中、さほど退屈せず、それなりに興味深く見た。ただ、河瀬直美はスポーツそのものには興味がないのだろうな、と感じた。
 
 以下、記憶に基づいて書いているので多少の間違いもあるかもしれない。その場合はご容赦されたし。
 
 冒頭は草野球に興じる子供たちなどのイメージカット。
 開会式の国立競技場周辺の様子が映し出され、続いて聖火の日本への到着からコロナの流行、大会の延期決定、世界の主要都市から人が消えた様子、季節が巡って翌年の大会まで、映像が駆け足で示される。
 どの映像がいつの何なのかは、あまり説明されない。我々はこれらの出来事を経験したばかりだから理解できるけれども、後にこれを見る人には難解だろうと思う。
 
 再び開会式。場内の映像は天皇の開会宣言と大坂なおみの聖火点灯くらいで、主としてスタジアム周辺の様子が示される。五輪反対のデモと、花火やドローンに歓声をあげてスマホを向ける人々と。
(デモ隊の人々だけ、顔にぼかしが入っている。合法的に意見を主張するために集まった人たちの顔を隠す理由はよくわからない。顔が映っている他の人すべてに個別に承諾をもらうことが可能であったとも思えない)
 
 ここまでがプロローグ。以後はTOKYO2020に参加した選手や競技団体がオムニバス的に紹介されていく。
 
 登場する人々は、みな社会的なテーマを背負ってTOKYO2020にやってくる。出産と育児。難民。人種差別への反対運動。亡命。競技の存亡。新興競技のカルチャー。女性の文武両道。沖縄。柔道の歴史と伝統。等々(特に背負っていないのは日本の女子バスケットだけだが、主力選手の1人は大会延期と子育てのために引退し、その後もチームを見守る姿が映され続ける)。それらが相互には強いつながりもないまま、順次紹介されていく。基本的にはそれだけの映画である。
 見ていて、朝日新聞あたりが社会面でヒューマンストーリー的な記事にしそうな話ばかりだな、と思った。調べると、実際に朝日で記事になった選手も何人かいる。SDGsに関係ありげなテーマがずらずらと並ぶ中で、なぜか「貧困」には着目されない。
 個々の選手たちが背負うテーマは、実はコロナとはあまり関係がない。大会が予定通り2020年に開催されたとしても、この映画の内容は、ほとんど変わらなかったに違いない。
 
 逆に言えば、実は「SIDE:A」では、冒頭のプロローグを除けば、コロナの影響はほとんど描かれていない。
 五輪を目指した全ての選手にとって、「4年に1度の大会に自身のコンディションを最高の状態にしようと照準を合わせていたのに突然1年も延びたこと(そもそも当初は開催されるかどうかも不明だった)」「パンデミックの悪条件下で練習を続け、選手として成長すること」は、ほとんど誰も経験したことのない難題だったはずだ。TOKYO2020を選手の側から総括するのであれば、それらは欠かせないテーマだと私は思う。「世界がパンデミックに苦しむ中で、自分はスポーツをやっていていいのか」「今の東京でオリンピックを開催していいのか」と自問自答した選手も多かったはずだ。
 けれども、河瀬直美は、これらのテーマをスルーした。世界の選手たちがネットで公開していた“自宅トレーニング映像”が映し出されることもない。「SIDE:B」ではコロナを扱うのだろうけれど「SIDE:A」で扱わないということは、コロナをアスリート自身の問題とはみなさないということだ。それは参加した選手たちの実感とは、かなりかけ離れていることだろうと思う。
 
 そして、五輪出場選手のヒューマンストーリーとしても、この映画は物足りない。
 選手が何を背負って東京にやってきて、プレーを通じてそれをどう表現し、何を持ち帰ったか(あるいは持ち帰れなかったか)。そこまでを描いて、はじめてヒューマンストーリーは完結する。しかし、この映画では、大会前の「背負ってきたもの」を選手が言葉で語り、あとは競技映像が素っ気なく示されて、そのまま終わることが多い。
 選手の成績が示されないエピソードもある。「勝ち負けが全てではない」というのは事実だけれども、選手たちは勝利を目指して東京にやってきた(本番ではメダルにほど遠い選手も、国内予選を勝ち抜いた結果としてそこにいる)。選手が大事にしてきたものを、第三者が横から「それが全てじゃない」と無視する姿勢には、作家の傲慢さを感じる。
 
 競技映像がテーマを雄弁に語っていたのはスケートボードだ。ボードによる妙技の数々の美しさ、勝敗を超えて挑戦を尊び称え合う若者たちのカルチャーは、映像からも十分に伝わってきた。サーフィンでも競技団体のトップが「人々は人間が世界の中心で何でもできると思ってるけどそれは間違い。大事なのは海であり自然なのだ。我々はオリンピックを変えるためにやってきた」のような話を豪語するけれど、競技映像にその言葉を裏打ちするだけの説得力があったとは言えない。他の多くのエピソードでも同様だった。
 
 日本の柔道界がロンドン五輪の惨敗をバネにして、いかに海外から学び、データ分析に活路を見いだしたかを監督とスタッフが語るけれども、それが大野将平の柔道にどう表現されたかは示されない。
 日本の女子バスケットを決勝に導いた米国人監督の哲学は語られるが、それがどう具体的な戦術に落とし込まれたかは描かれない(この大会での日本代表がどんなチームだったかを見せたければ、3Pシュートがばんばん決まる編集をすればよさそうなものだが、決勝戦で映し出されたのは日本選手がゴール下から2Pシュートを決める場面が多かった)。
 
 米国の女子ハンマー投げ選手グウェン・ベリーはBLM運動に熱心な活動家でもあり、国内での選考会の表彰台で国旗に背を向けたとして批判を浴びた。彼女は来日前にネットで浴びた批判を読み上げて「こんなの気にしない」と言い放つが、東京での投擲はふるわず、失意の中で競技場を後にする。が、彼女の投擲のどこに問題があったのか、なぜ敗れたのか、そもそも彼女は表彰台を狙えるレベルの選手だったのか、映画では何も示されない。だから観客は「威勢良く東京に乗り込んだ活動家選手が、競技に負けて帰った」という以上のことはわからない。
 アスリートとは、身体のパフォーマンスで己を表現する存在だと私は思うのだが、この映画が重点を置くのは彼ら彼女らが語る言葉であり、身体で表現しているものを観客に伝えようとする姿勢は希薄だ。
 
 映画のプログラムに目を通すと、この映画がなぜそういう造りになったのか、事情が垣間見える。
 河瀬直美は「競技風景主体の作品ではありませんね?」という質問への答えの中で、<IOCとOBS(オリンピック放送機構)の映像がすべて映画の素材として提供されました。ただ、その映像は競技の勝ち負けに焦点をあてた映像なんですね>と語る(だから自分の映画にはあまり役に立たない、という含意が読み取れる)。
 一方、「プロダクション・ノート」によると、この映画のスタッフは「河瀬総監督と仕事をしたことのあるお馴染みの面々を集めて」とある。
 プロダクション・ノートには2020年2月にバスケット五輪最終予選を撮影した際のことも書かれている。
 <初めてのバスケットの試合本番での撮影は、カメラテストも兼ねる意味合いもあったが、まず感じたことは、やはりカメラポジションの難しさ。世界へ中継されることからFIBAのカメラが優先的に置かれていて、我々の動きはどうしても制限されてしまう。FIBAは試合をお届けすべくカメラを回すが、我々は試合に出ている選手や、指示を飛ばすトムさんを撮りたい。なかなか相容れないのである。1日目の終了後に早速FIBAから怒られる。「あなたの所の監督やカメラマンがFIBAの中継カメラに映りすぎ」>
 
 つまり、映画の中心のひとつにしようとあらかじめ決めていたバスケットをはじめ、スポーツの取材・撮影を熟知した人材をスタッフに招いた形跡はない。だから、この映画には、そもそも「アスリートの身体パフォーマンス映像をもってメッセージを語らしむ」という考えが希薄だったのだろうと思う。
 また、コロナ下で取材が困難な中、スケートボードとサーフィンの競技団体は取材にとても協力的だった、とも河瀬は語る。この2競技が映画で比較的長いボリュームで紹介されているのは、それぞれのカルチャーが河瀬の琴線に触れたから、ということだけでもなかったようだ。
 
 IOCによる公式映画というだけで、本作を五輪礼賛のプロパガンダ作品に違いないと決めつけ、公開前から批判し、河瀬直美総監督を非難する人が世の中には結構いた。その先入観のまま映画館を訪れたのか、「意外にも反五輪的映画だった」との感想を記す人がネット上に散見される。
 私はこれが反五輪的映画であるとは思わない。選手たちのヒューマンストーリーはすべて、五輪が価値ある場である(だから、人々はそこへの参加を妨げるものと戦う)という前提の上に成立している。河瀬直美が着目したテーマの数々は、いわゆるSDGsに親和的なものが多い。近年のIOCはSDGs的な価値観をアピールすることに熱心で、その意味では、IOCから見て好ましい面も少なからずあるだろうと思う。
 
 また、「普段はスポーツに興味がなく、ほとんど見ることもないが、この映画は素晴らしかった」という感想も、いくつも見た。それはそうだろう。これは「スポーツの映画」ではなく、「スポーツ選手のヒューマンストーリーの映画」だから。
 スポーツライティングに対する書評でよく見かける常套句に「単にスポーツを描いただけでなく、人間が描けている」というものがある(私はこれが大嫌いなのだが)。
 この語法を用いるならば、この映画は「スポーツは描かず、単に人間を描いただけの映画」である。そういうのが好きな人には悪くないだろう。
 これがNHKなり民放テレビなり(あるいは海外のテレビ局なり)が河瀬直美を起用して作った「もうひとつのTOKYO2020」的なドキュメンタリー作品であれば、私もわりと好意的に評価したかもしれない。が、これはIOCが公式に残す、ただひとつ(2本だけど)の映画である。
 
 スタジアムの外側を描くという「SIDE:B」は近く公開されるが、今のところ見る意欲はない。東京のスタジアムの外側で2020年から21年にかけて何が起こったかは、河瀬直美に教わるまでもなく知っている。五輪に関する報道ではとやかく言われることの多い(そして、この映画のメイキング番組で深刻にやらかした)NHKも、コロナ一般については良質のドキュメンタリーを量産しており、個人的にはそれで間に合っている。
 IOCやJOC、組織委員会内部での知られざる出来事がいろいろ出てくるようなら別だが、当面は様子見のつもり。
 
 これまで述べてきたような意味性を棚上げすると、この作品で最も印象に残ったのは、競技場面の音だった。
 選手の足音、息遣い、プールの水音から衣擦れの音までが雄弁に聞こえてくる一方で、例えば陸上で隣のレーンを走る選手の足音は聞こえない。映像でいうクローズアップの手法を存分に使っている。すべての音を後からつけたとも思えず、現場での生音を加工したのだろうと思う。無観客大会ゆえにクリアな音が収録できたのだろうとは思うけれど、それだけのはずはない。見事なプロの仕事と感じた。

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コメント

東京1964 を経験した世代には到底受け容れられ無いオリンピック映画😥参加した其々の選手にその選手なりのストーリーが有るのは当然❗コロナ禍という未曾有の状況の中で、如何に取組み如何にパフォーマンス出来たか❓河瀬の主観では無く客観的な映像が見たい❗コロナ禍での開催は評価できるが、開会式の演出家·映画監督の人選に誤りがあったと断じざるを得ない😥

投稿: 重山和巳 | 2022/06/16 07:15

初コメント送信です。拝読 感心・得心しました。
74歳のロートルです。10年ほど前から「はてな」で続けている私のブログ『2ペンスの希望』での紹介を切望します。
PCについての知識おぼつかず、ここに許諾のお願いを記す次第です。よろしくお願い致します。

投稿: kobe-yama | 2022/06/17 07:46

kobe-yamaさま

ご丁寧にありがとうございます。
拙文をブログでご紹介いただくということでしたら、ご自由にどうぞ。
「2ペンスの希望」、最近の投稿をたいへん興味深く拝見しました。遡ってじっくり拝読したいと思います。

投稿: 念仏の鉄 | 2022/06/17 11:27

監督 = 河瀨 直美 が「残すべきものは何か」を徹底的に考え抜いた結果、
この形で完成したことを実感しました!

投稿: onscreen | 2022/07/07 09:04

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