騙されちゃいけません!・・・ある「美響」の求めかた
齋藤友美賀ヴァイオリンリサイタル(2009年4月28日、市ヶ谷にて)、是非お出掛け下さい。
ノリントンを、日本でいうところの「古楽」演奏家、と見るのは大きな誤りであることを、彼の指揮するワーグナーの前奏曲の音を聴いて、非常な驚愕をもって思い知らされました。
よくよく顧みてみれば、彼の指揮で録音されたり映像になった作品は、モンテヴェルディ作品もある、とはいうものの、現在手に入るものを探すと、<古典派>以降の作品が圧倒的に多いのですよね。
ただ、確かに、1998年にシュトゥットガルト放送響の首席指揮者となるまで、彼はそれらの作品を、主に、ロンドン・クラシカル・プレイヤーズという、オリジナルやレプリカ楽器の専門家集団と共に演奏して来たのでした。
ですから、そのままだったら、彼は「古楽復興主義者」と色眼鏡で見続けられてもいい存在だったかもしれません。
「ワーグナーへの道」 学研 9478632001
と題された映像で、しかし、ノリントンは前年首席指揮者に就任したシュトゥットガルト放送響(過去にチェリビダッケ、マリナー、日本ではどの程度知られているか分かりませんがロッシーニのオペラに造詣の深いジェルメッティが歴代前任者です)という「モダン楽器のオーケストラ」で、それまで専門団体を使ってやっていたのと同じ演奏法を採らせている。
しかも、楽団員の皆さんが、それに抵抗をしめすどころか、表情を見る限りでは、楽しんで演奏している印象を受ける。
このペアでの映像は、その後、チャイコフスキー、ベルリオーズ、ブラームス作品が発売されていますが、いずれもノリントンのレクチャー付きです。ブラームスのもの(交響曲全集)は、Frisch "Brahms: The Four Symphonies" (Yale University Press ISBN 0-300-09965-7、邦訳がありましたが絶版です)で述べられているようなこれらの交響曲の特徴を、どちらかというと難しいことは抜きにして、各曲にまつわるエピソード、ノリントンなりの文学的もしくは絵画的な解釈をユーモアを交えながら語るという趣のものです。私自身は、とくに第3番については、ノリントン流は「好みではないなあ」と思いながら、それでも彼の話が面白いので見ていました。・・・その語りの中では、彼が「論」を張る時に用いる「ノンヴィブラート」云々については、2005年時点ではもう、いう必要を感じなかったからなのでしょうか、全くもしくはそれに近いほど言及されていなかったと記憶しております。
シュトゥットガルトに着任直後のノリントンは、「ワーグナーへの道」の中では、冒頭部でこの語を少しだけ口にします。ただし、それは多分にプロパガンダ的なものに聞こえます。なぜなら、この言葉を彼が視聴者に呈示するとき引き合いに出すうちの一人、フルトヴェングラーは、じつは、残した録音をよく聴きますと、別段、ヴィブラート推進者だったとは思われないからです。(フルトヴェングラーを例にとりますと、彼の指揮したものの録音でも、たとえば1925年のベートーヴェンの第5、1929年のシューベルト「グレイト」、そしてなんと1944年のR.シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲル」は、オーケストラは殆どヴィブラートを用いずに演奏しています。)
彼は、彼がオーケストラに「ヴィブラートをかけない」演奏をさせる時に、もうひとつ重要な要素として、テンポを「重々しくないように」することを心がけています。フルトヴェングラーを引き合いに出すのは、まさにこのテンポについての20世紀の演奏に<アンチテーゼ>を呈示する上で、フルトヴェングラーが恰好のシンボルになるからでしょう。ヴィブラートについても、同じく、フルトヴェングラーの後を「支配」したカラヤンの名を前面に押し出すことで、話を分かり易くしている。・・・ですが、カラヤンとて、確信犯的なヴィブラート推進者ではなかった事実は、とくに堂々としたハーモニーを響かせたいときのカラヤンの演出は「ヴィブラートをかけさせないこと(代表例は「パルジファル」の録音の随所で耳にすることができます)」にあったことなどを聴いて見れば分かることです。
ノリントンは、ここまでに名前が出て来た二人よりも、はるかに「確信犯」です。
彼の、「ヴィブラート」をオーケストラに掛けさせない演出は、明らかに意図的なものです。
そしてその根本には、ブルーノ・ワルターに非常に似通った、ノリントンの嗜好があるようです。彼は、もともと、ヴィブラートを多用する演奏はマンハッタンのジャズに由来すると捉えており、ワルターのように強烈に、ではありませんが、深層では、オーケストラの響きの中に「ジャズの要素が入り込んでしまった」のが不純に聞こえて仕方がない、というところに、クラシック演奏の原点を求めているかのようです。
ただし、ノリントンがワルターと決定的に違うのは、ジャズをインモラルなものとして疎外する方向に、ではなく、「クラシックの響きに混じることは誤りである」と証明する努力の方向に進んだことではなかろうか、と感じます。・・・騙されてはいけないのです、フルトヴェングラーもカラヤンも、ノリントンはダシにしているだけです。そうすると話が分かりやすくなるからです。強いインパクトをも、彼の言葉に耳を傾ける人たちに与え得るからです。
ノリントンが目指しているのは、19世紀への回帰ではないのだ、とは、私の主観的な捉え方に過ぎないのではないか、とは、考えてもおります。ですが、ノリントンが映像の中でワーグナーの自筆譜や同時代作品を傍証に採り上げれば採り上げるほど、彼は考証学的な復古を、ではなく、新しい演奏への脱皮のための<復活>、20世紀後半に音楽に付着した不純な重みを除去することを意図しているのだ、彼のしていることは「革新」であり、「直近の過去の否定」なのだ、と、いっそう強く思わされる結果となり、私は稲妻に撃たれるように身震いしてしまったのです。
これまで彼の演奏を聴いても、彼の指揮する姿を見ても、こんなことは考えてもみませんでした。
どんなに古そうに見えるものを持ちだして話しているように見えても、彼が奏でよう、人々に聴かせようとしているのは、まさしく現代の音、命を持った響きなのです。古い屍を墓場から引きずり出してフランケンシュタインの怪物を作ることなど、まったく考えていない。
テンポにしても、ノリントン指揮の演奏は、単に
「従前の指揮者に比べると速い」
と思い込まれがちですが、これはこれで、たとえばブラームスの「ハイドン変奏曲」の録音では、録音を残すことの出来た先人たちと左程変わらない速さで演奏されていることなどから、テンポをいたずらに速めるのがノリントンの意図ではない、と知り得ます。
「ワーグナーへの道」でノリントンがレクチャーしつつ指揮するのは
・「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲
・「トリスタンとイゾルデ」第1幕前奏曲
・「パルジファル」第1幕前奏曲(部分)
の3つで、そのテンポは、先に名前の出たフルトヴェングラーやカラヤンに比べると、確かに速い。
ですが、1925年頃に残されたカール・ムック指揮の「マイスタージンガー前奏曲」、同じ頃、(作曲者であるリヒャルト・)ワーグナーの子息ジークフリートが指揮した「トリスタン前奏曲」のテンポと比較したときには、「やや速めかな?」程度におさまっているのです。
話は脱線しますが、ムック指揮の演奏では、オーケストラの方が、ムックの指示する「速さ」について行き切れない(晩年のフルトヴェングラーが指示した「遅さ」にオーケストラが追随できずにいたことが伺われる演奏があるのと正反対の意味で、「速いことについて行けない」)様子さえ伺われるのは、また興味深いことです。
ヴィブラートをかけない演奏は、とくに弦楽器においては、表現そのものが体の内側に染み付いていないと非常に困難でして、弓も決して「持たないでしっかり」持つ・・・変ないい方ですが・・・そういうことが出来、弓で楽器を歌わせられなければ、非常にみっともないことになります。まだヴィブラートをかけられない子供達で編成されたジュニア・オーケストラの音をご存知のかたには、想像がつくかと思います。
それがモダン楽器でもらくらく出来る(いや、いわゆる古楽器でだって決してらくらく出来ることではないはずでしょうが、私はその演奏経験がないので断言できません)のは、かなりの技術者たちによって初めて可能なことなのでして、安易な「ものまね」ではノリントン自身を前にした時にはノリントンの要求どおりには出来ないでしょうね。
音そのものを、真っ直ぐに、伸びやかに、解放してやる。
それが「モダン」の楽器でも可能なのだ、と確信するまでに、恐らくはノリントン自身にとって、かなり時間はかかったし、また、彼もあえて時間を掛けて来たのではないでしょうか?・・・けれど、今の彼は、それが長い時間だったとは思っていないようです。
彼の物言いには怖じ気づいたところが全くありませんけれど、それは、そうしたした準備期間を充分に置いた上での彼の自信の現れなのではないでしょうか?彼の演出を巡って現在のように賛否両論が起こることは見越した上で、むしろそうであることを望んで「確信犯」となっているのではないでしょうか?
この映像を見るまで、私はこれに全く気が付きませんでした。
いえ、「気が付いた」と思い込んでしまったことが、もう間違っているのかもしれません。
ブログのタイトル自体が「へりくつ」ですから、ああでもない、こうでもない、と述べましたけれど、本当は、途中で述べたただ一事、言葉は変えますが、
「ノリントンは私たちのいのちを前提とした、現在進行形の<美しい響き>を求めている」
・・・この事実に、いまさら気づいた自分のバカさ加減には、ただ呆れかえるしかなかった、ということだけが、ほんとうなのです。それは、好むか好まないか、とはまた別の話であり、音楽そのものに打たれる、という本来的な経験に属するものなのではないか、と、いま、稲光のせいで真っ黒焦げになってしまった自分の体を、私から離脱した魂が、茫然自失のていで眺めているような気がします。
彼のレクチャーもしくは語り付きのDVDには、他に次のようなものがあります。
・ 交響曲第6番『悲愴』(リハーサルと演奏)、他
・・・「ワーグナーへの道」は、こちらにも併集されています。
・名指揮者の軌跡 Vol.5 / ロジャー・ノリントン (モーツァルト:交響曲第39番リハーサルと演奏)
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コメント
このDVD(私はチャイコ付きのを持っています)良いですよね。
>>1925年頃に残されたカール・ムック指揮の「マイスタージンガー前奏曲」、同じ頃、(作曲者であるリヒャルト・)ワーグナーの子息ジークフリートが指揮した「トリスタン前奏曲」のテンポと比較したときには、「やや速めかな?」程度におさまっているのです。
これ探します。貴重な情報有り難うございます。
レーベルは何でしょうか?
投稿: 右近 | 2009年4月28日 (火) 01時47分
右近さま
Appian Publicationz and Recordings(イングランドのレーベル)で、
品番はAPR 5521です。
SIGNATURE SERIES
Karl Muck THE HMV/ELECTRA WAGNER ORCHESTRAL RECORDINGS 1927-29
解説文は1996年のものです。
Amazonジャパンでも入手できます。(他にもあります。)
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_b?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Daps&field-keywords=Karl+Muck&x=12&y=17
同じときのものかどうか分かりませんが、
HMVジャパンでの検索結果
http://www.hmv.co.jp/search/index.asp?target=MUSIC&category=1&adv=1&keyword=Karl+Muck&site=
DVDは、チャイコフスキー/ベルリオーズのもの(これに「ワグナーへの道」が併集されていますね)、ブラームスの全集とも、ドイツ在住の友人や娘の恩師に勧められて見て参りました。練習風景が真摯でありながら和やかなので、感激しております。
最近出たハイドンは未見です(予算がない!)。
何とぞ宜しくお願い申し上げます。
投稿: ken | 2009年4月28日 (火) 06時35分
ken様
細かい情報までご用意していただき、感謝します。
ハイドンのDVDは私も未聴です。というか知りませんでした(爆)。
またまた情報有り難うございます。
投稿: 右近 | 2009年4月28日 (火) 23時47分
右近さま
ご丁寧に、恐縮です。
慌てたので、ジークフリート・ワグナーの方を探していなかったのに気づき、探し直しましたが、こちらは現時点では自作の録音しか見つかりませんでした。
私の持っているもののレーベル、品番は下記のとおりです。
ARCHIPEL ARPCD 0288-2(2枚組)
フランクフルトの会社のようです。2001年に出ています。中身は1922年の録音です。
投稿: ken | 2009年4月29日 (水) 01時12分
ジークフリート・ワグナーのほうは、本当に貴重ですよね。
情報有り難うございました。
投稿: 右近 | 2009年5月 1日 (金) 01時30分
読んで下さるお友達の皆様へhttp://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-16f0.html
投稿: ken | 2014年9月27日 (土) 00時06分