「音符の一つ一つには、家のように奥行きがある」(ブラームスの言葉)
もう3年前ですが、激しい緊迫感の漂う二種類のCDを聴きました。
ひとつはムラヴィンスキー・レニングラードフィルのイギリス公演(1960)。ショスタコーヴィチの第8イギリス初演の録音と同時に、モーツァルトの交響曲第33番が収録されています。ステレオで音質が鮮明に伝わってきますけれど、癪にさわるのは咳払いが多いこと。イギリスの聴衆はこんなにマナーが悪いのか?と疑ってしまいます。そんな無神経な咳払いをよそに、演奏は淡々と進められます。楽員が完全に音楽に集中している。ショスタコーヴィチの第8も名曲ですし、質的に鬼気迫る演奏がふさわしいのは当然で、そちらは期待通り、というところです。一方のモーツァルトは、演奏者にとって、集中の甘さが露呈しやすい難物です。それが、まさに一糸乱れぬアンサンブルを成立させている。しかも、演奏は決して淡白ではない。第1楽章にジュピターのフーガと同じテーマが現れる愛らしい曲のはずなのですが、起伏の鮮やかさはむしろ厳しさを強烈に印象づけてきます。「愛らしい」対象に向かうにも、彼らの態度は「甘くない」のです。
それは果たして・・・プロだから、なのでしょうか?
もう一つは、フルトヴェングラーのブラームス交響曲全集。
戦後の録音を集めたもので、第1だけがウィーンフィル、他はベルリンフィルです。戦後活動を再開したフルトヴェングラーの指揮については、時代遅れになって楽員がついていけなくなっていた、という定説がありました。しかし、今回聴いた1949年から52年にかけての演奏は、戦前の演奏に比べてもテンポの変動が激しいにも関わらず、オーケストラは何の戸惑いもみせず生き生きと従っています。かつ、楽員すべてが音一つ一つに向かってひたむきに突進している。定説が誤りなのは一聴瞭然です。モノラルでザラザラした録音であるにも関わらず、あまりに強烈な音の厚みに、寝床で聴いていた僕は跳ね上がってぶっ飛んでしまいました。第1の第3楽章では、オーボエのトップが集中を高めようとするあまり出遅れてしまう、そんな瞬間もありました。それでもハマっている。どうして、ハマれたのでしょうか。
・・・プロだから?
結論のかわりに、ブラームスの言葉を揚げるのが、この際適切かも知れません。
もっと演奏を楽しまなくっちゃ。
音符の一つ一つには、家のように奥行きがあるからこそ、
音楽に詳しくない人でも参加できるんだ。
聴衆を前にすると音楽を楽しめないって、いったいどういうことなんだい?
(「ブラームス回想録集2 ブラームスは語る」天崎・関根訳 音楽之友社)
ここで、ブラームスの言葉だけでは分からない問題をお出しします。
プロの対極にあると考えられがちな"amateur"、これは日本語では果たして何を意味することばでしょう? お分かりになります?
そのまんま「アマチュア」でいいんじゃないか、と言われれば、まあ、そうなんです。でも、この語意は本当は
「愛好家」
を示すのです。
英語の、語源の説明までついた辞典によれば、この単語"amateur"はラテン語で愛好を示す"am-"という語根に由来します。この語根によるラテン語の動詞の三人称単数が、"amato"([彼・彼女は]愛する)です。
ところが、それを語源にする"amateur"は、英語でもドイツ語でも、綴りはフランス語と同じでありながら、「素人」という意味を持ってしまっています。日本語の「アマチュア」に「素人」の意味が付加されたのは、この語彙がゲルマン系経由で輸入されたことを伺わせます。
和仏辞典のほうだと、「素人」にあたるフランス語に"amateur"が出てくるのですけれど、本来は使い方によるのでしょう。"amateurisme"なる語彙があって、こちらは日本で言うと京都弁風の皮肉のようです。「素人芸どすなあ」って言う感じ。"amateur"に戻ると、幾つかの仏和辞典を覗いてみましたが、こちらに「素人」の日本語が充てられている例は皆無でした。それどころか、「目利き」などとう、もっと優れたイメージの訳語が割り当てられていたりするのです。
ちなみに、より直接にラテン語の子孫であるイタリア語ではどうか、を調べてみますと、"amatore"というのが"amateur"に合致する語で、やはり「愛好家、目利き」という日本語が充てられています。(その他に「女たらし」なんていう意味まで持っています!)イタリア語で「素人」に当たるのは、"dilettante"です。
くどくどと"amateur"の意味ばかり綴ってしまいましたけれど、果たして私は何が言いたいのか!?
そう、「アマチュア」って、本来は「素人」じゃないんです!
ラテン語直系のイタリア語、やはり古代ローマの影響が強かったフランス(ガリア地方ですね。カエサルの「ガリア戦記」も、読みにくいですけれど面白い本ですヨ)の語が、そもそも「素人」の語義を含んでいないのが、何よりの証拠です。
物事を愛する人、それが「アマチュア」の本義なのでしょう。
すると、その中にはもちろん素人も含まれることになりますけれど、日本にも「玄人はだし」という言葉があります。広辞苑では「素人が技芸に優れていること」と解いていますが、元来は「玄人(すなわち日本では今、プロと呼ばれる人種)がはだしで逃げる」を短縮した語彙ですから、「素人が〜」という言い方がどの程度適切なのか難しいところです。
モーツァルトのピアノソナタの大半も、いわゆる「アマチュアのために」作られたものです。古典派の時代、シンフォニーといえば職業音楽家達によって公の場で演奏される編成の大きめな曲種の代表格だったということですが、ソナタはそれとは対照的に、サロンで活躍したり家庭で音楽を楽しむ「玄人はだし」のアマチュアの為の曲種だった、と、音楽史関係の本には書かれています。
それを裏付けるかのように・・・モーツァルトについては残念ながらほんの一部しか判明しないので・・・ベートーヴェンを例にとりますと、彼が交響曲を献呈した相手はことごとく彼のパトロン(しかも自らは演奏しなかった人も含まれます)のに対し、習作を除く32曲のピアノソナタのうちほぼ半数に当たる15曲がアマチュア演奏者に捧げられています(パトロンでもありましたがピアノの弟子でもあったルドルフ大公をも含みます)。
私の加入しているオーケストラは、アマチュアです。
残念ながら、今は家庭の事情で練習を休みがちです。
でも、あと少しして、家庭での課題に一通りメドが立った暁には、「素人集団」としての「アマチュア」という発想はやめて、またみんなといっしょに、「アマチュア」の本義である「愛好者」の集団、音楽を心から堪能する人たちの集まりとして、この先も歩んでいければいいなあ、との想いに耽っているところです。
お粗末。
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コメント
こんにちは。
フルトヴェングラーの話題がありましたので、
一言。
ライブならではの事故はありますが、オーケストラのアンサンブルは全体としてはすばらしく、
オーケストラ芸術の真髄の一つと聴いています。
プロとアマチュアの点について、
出谷啓氏は、
「フルトヴェングラーの音楽の特徴は、拍子にならぬ前の拍子、すなわちアウフタクトによって、生死が決定してしまうところにある。これは緊張から弛緩へ受け渡される一種のテクニックで、すなわちアウフタクトの処理いかんで、巨匠自身がいうように、「村の楽団にウィーン・フィルに匹敵するような演奏をさせるか、逆にウィーン・フィルから村の楽団のような音しか引き出せないか」のポイントが決まるのである。」
と述べています。
イタリアのオケもストックホルムフィルも、フルトヴェングラーの薫陶を受けた後は、個々の技量の低さはあるものの、指揮者の意図したところをよく音にしていると思います。
投稿: furtwan | 2007年11月26日 (月) 12時13分
furtwanさん、コメントありがとうございました。
ハンドルネームからして、フルトヴェングラーについてはお知りになり尽くしているものと推察いたします。
「ライヴならではの事故」は、彼の演奏に限った話ではないですから、特に問題になることはないでしょう。
私は、フルトヴェングラーの指揮した演奏は、聴いた限りのものは全て大好きです。「フルトヴェングラーの手紙」を読んでからは、なお好きになりました。彼がいかに音楽「そのもの」を愛していたか、それを如何に人に伝えようと苦悶していたか、が、よく伝わってきたからです。
映像もいろいろ出回るようになりました。ハーケンクロイツの前で演奏しているショッキングなものまで見ることができるようになりましたが、この映像では彼が終始渋面をつくっているのが分かり、彼の切ない思いが伝わるようで、悲しくて直視できませんでした。
「アート・オブ・コンダクツ」の2の方でしたか、彼が「ティル」を指揮している演奏が、珍しく全曲のこっていますね。
解説が出色で、
「さすがのフルトヴェングラーも、この曲ではきちんと拍を振っている」
・・・こんな解説自体が、フルトヴェングラーを大いに誤解した(彼の指揮は「分からない」のが普通)見方から生まれたのであることは、言うまでもなかろうと思います。
世の中に、「拍のわからない」指揮をする人は結構います。日本の有名どころでは(古くなりますが)近衛秀麿さんや山田一雄さんがそうでした(山田さんの棒の下では、私は実際に弾きました)。が、拍なんか、オーケストラが自主性を持っていれば、どうにでもなるものです。
furtwanさんが仰っているとおりの「アウフタクト云々」は、そこで既に、私が標題に掲げた「音符の一つ一つには家のような奥行きがある」ことを、冒頭から楽員に知らせることができる、すなわち、音楽を知り尽くしている識者だけができることではないか、と考えております。
今後とも、こうしたステキなコメントを是非頂けます様、心から宜しくお願い申し上げます。
投稿: ken | 2007年11月26日 (月) 13時44分
確かにエマヌエル・バッハにも「識者と愛好家のためのソナタ集」なんてのもあるくらいですから、アマチュアって言葉は本来「素人」の意ではないはずですよね。
モーツァルトでいえばピアノ協奏曲のいくつかも、はっきりとアマチュアのために書かれています。特にト長調協奏曲K453ほどの作品がアマチュアの弟子をソリストだと想定して作曲されているという事実は、「アマチュア」とは何なのかを考えさせられます。
投稿: Bunchou | 2007年12月 1日 (土) 14時04分
中世からバロックにお詳しい、でも音楽の、ではない先生が、別の個所で、アマチュアの本義に付いては私の述べている通りです、と折紙を付けて下さったので、じつは一安心しているところです。
アマチュア、というものにたいする認識は、日本人は明治以降「アマチュア」という言葉が入ってきてしまったことで、あまりに狭く解釈するようになってしまいました。
クラシックの分野ではなく、たとえば「謡(うたい)」の分野には「アマチュア」と「プロ」という二分割は今でもあるわけではありませんし、他の伝統文化も同じようなものです。ただし、本職にするために要する金銭の多さや血筋というものが結構重視されるので、我々庶民はなかなかこの<二分割の非存在>に気づけない。残念なことです。
投稿: ken | 2007年12月 1日 (土) 23時26分