年収と自由

金はやばい。みんな金の話してる。

年収の話やめろ

齢30で私大教員として終身(?)雇用(?)され、ようやく名実ともに今後40年間(?)の社会人スタート、いきなり人並みの収入を得て困惑したのをよく覚えています。

その一方、出身研究室では国立大か弱小私大に決まる人が多くて、まともな私大に就職した人間はレアケースだったので、同窓の人々からひたすらに年収を聞かれる。いいか、マジ年収の話するのやめろ。

先日、PD続けてる先輩にしつこく聞かれたので、観念して「少なくとも我々の母校の国立大で助教やるよりはよっぽどもらってるはずです」って答えたら後日、その先輩はその国立大の助教の椅子に収まった。お前がしつこく聞いたからだぞ。そんときの飲み会の結論は、「業績重ねて有名私大に行くぞ!年収2000万だぞ!」だった。んなわけないだろ冷静になれ。顔出すのやめました。

大学を出てから金を無視した人生を送り7年(修士2年博士3年フリーター2年)、まともな額の金を得てようやく、金のやばみ見えてきた。

みんな金の話してる

インターネットみてても、最近みんな収入の話してる。周りの人がアラサーだからかなと思ったけど、大学生とかも同じな気がする。まあユーチューバー?(?)とかみてたらそうなるよな。あと大学生みんな留学の話してる。そんで日本を捨てる算段たててる。うまく行くといいですね。留学は日本が沈没するなかで経済的に食いっぱぐれないために、的なメリトクラシーの意識を感じてしまう。つまり収入の話に見えてしまう。見えてしまう自分に問題があるのかもしれない。自分の業界でも、仕事の前に「手当は出るの?」みたいな声ばっか出てきて不可解である。

別に他人にケチつけようというつもりではないですが、金のために働いている限り、どんだけ稼いでも金から自由になれないよなってつくづく思う

でもマジみんな収入の話してません????古い会社辞めてGAFA行ったら収入が増えたらしいぞガーファすげーみたいなさ、そんなん当たり前だろが、地球出て木星行ったらヘリウムがすごかった、みたいな話だぞ…………(そうなのか?????)、あとなんかこの記事、万が一にも、人間に読まれたら一定の怒られが生じる気がしてきた

なぜ金なのか

金を欲しがる理由は自分にだってわかる。リスク社会だからリスク軽減のために金を確保したいのだ。既存の社会秩序が溶解していくなかで我々は「確かなもの」を手にしたいのだ。

たぶん日本で「確かなもの」は、90年代は「愛」であり、2000年代は「夢」であり、2010年代は「私らしさ」であり、2020年代は「金」になる、そんなところなのだろう。そしてどれも確かなものではなかった。あとまた愛が流行ってきたよな…

金の性質

個人の収入の多寡は、個人の能力などではなく、もっと大きな構造によって決まる部分が大きい。ていうか運である。

基本的なこととして、金は、年収がいくら増えようが、足りないようになってる。金は無限に増やせるけど、金の価値は他者と比較可能なので、金は他人より多く持っていないと価値がないけど、自分より金を持ってる他人は無限に存在するので、金は常に不足する。自分がどんだけ金を持っていても、金は足りない。そんなことは、カルロスゴーンを見てればわかる。

あとみんな年収何千万円がどうのとか言ってるけど、年収5000万円と年収500万円では、生活の雰囲気はそれなりに違うだろうけど、たぶん本質的には生活変わんないですよね??だってどっちにしろ働くんでしょ?雰囲気が違うだけでしょ?自分の業界で言っても、地方弱小公立大に勤めるのも、青学に勤めんのも、経済的には大して変わんないでしょって感じ。日本の社会保障制度を考えても、利子だけで遊んで暮らせるようになって初めて本質的変化なんじゃないですか?すいません筆者あんま世間とかわかんいんで、、、、、、

結局、年収が今の10倍になったら、11倍の生活がしたくなるだろう。プロゲーマーの「ときど」さんが、テレビで「収入が増えても生活水準を上げるな」みたいな家訓を守ってるって言ってて、彼のお父様も実際そういう雰囲気で、すごい心に残ってる。

それはデカダンス

もしかしたらこの記事、金に執着する連中はおかしい、的な論旨だと思われてるかもしれんけど、そんなことはなくて、自分もまた、金の無意味さを分かっているのに、金の呪縛に囚われつつある恐怖を抱いているんですよね。何なんだこれは。

筆者は金を無視したい。幸いなことに、自分には「趣味イコール職業」という極めて有難い立場があるので、というかそれを目指したので、学生の頃は「金のことは置いといて好きなことをマイペースにやろう」という方法で、金の価値を脱構築する戦略をとってきた。

学生のときは、いや学生つっても28歳とかなんだけど、これで行けると思ってたけど、これは結局、フィクションとしての「個人の自由」の枠組みの中の話にすぎないのかもしれない。

そもそも今多くの人が考えてる「個人の自由」は、自由ではなくデカダンスに過ぎない。放っておいてくれ、俺は好きにさせてもらうという…… いわば「自分の自由」であろう。だから、金の価値から背を向けて研究に勤しむのも、同様に、デカダンスにすぎない。そしてデカダンスは必ず破綻する。90年代前半までの村上春樹作品が好きなんだけど、それはその辺のことが扱われてるからです。すいませんどうでもいいですね。全部どうでもいいのでは?

金と自由の脱構築

たぶん金だけを脱構築するのではなくて、同時に「自由」を脱構築する必要がある。

何となく、(個人の)自由というのは献身のことであろうと思う。身を捧げることが自由。「何に身を捧げるか」の自由ではない。身を捧げることによって解放されることが自由であり、どんだけ金を持っていても、何かに身を捧げないと自由は得られない。そんな印象を受ける。

なんかゴチャゴチャ書いてんな、つまり自分のためではなくて、他者のために金を使う的などうのこうのみたいなすいません終わりますお前こういう感じで記事終わんのよくないぞすいませんとにかく金に困惑してる先日は研究会の懇親会二次会で同じような私大にいる人に「週に数回昼ごろダラダラ出勤したらなんか賞与とかいう金額書かれた紙があってそんで14時とかにダラダラ帰るじゃないですかなんなんだこの生活はなんなんだその金は何に対する対価なんだって意味不明になって意味不明になりませんかなるやろがオラってウーロン茶がぶ飲みした終わりますとにかく金のために働く状態にはなんないようにしよマジ決意つうか違うんだよ俺はこのブログで飛んで埼玉を語りたいんだ何でこんな事書いてんだ?????????(?)