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この記事とThe World のシーリーン・ジャアファリー によるラジオレポートの初出は、2014年2月13日 PRI.org上であり、賛同の意を共有するコンテンツの一部として再公開されている。
イランでは、どのような映画を公開する場合でも、監督は厳しいイスラム法に従わねばならない。
登場人物の男女が触れ合うことはできないし、女性は四六時中頭髪を覆っていなければならない。
「異性間のほんのわずかな肉体的接触も見せられないとしたら、映画製作者として語れないストーリーは何本あるか想像できますか?」 アメリカ合衆国を拠点とする監督ジャムシード・アクラミは問う。
アクラミは、12人のイラン人映画製作者や男優および女優へのインタビューに5年を費やした。 その成果が、彼の最新ドキュメンタリー “Cinema of discontent.(訳注:映画への不満の意)”である。
イスラムの規範に従わなければならない状況で、映画のストーリーを話すという困難を味わうことを皆が嘆いている。
「分かり切ったことですが、私は恋愛をテーマにした作品のことだけを言っているのではありません。親の愛情すら表現できない状況について話しているのです。例えば、男性医師が女性患者を診察するところも見せられません」と彼は言い添えた。
アクラミがドキュメンタリーでインタビューした監督のひとりが、バフマン・ファルマナーラだ。 彼は自作映画“A Little Kiss(訳注:軽いキスの意)”の中で、扱いの難しいワンシーンをうまく避ける方法を説明している。
彼はこう言っている。「“A Little Kiss” にはこんなひと続きのシーンがあります。父親は、38年間スイスで暮らした後、息子が自殺したために急遽帰国し、娘のもとを訪ねます。そうですね。私たちが従うべき法に照らしてみれば、明らかに男女が抱きしめ合うことはできません。 父と娘というこの特殊な場合でさえそうなのです」
ファルマナーラ監督は、この場面を上手に避けて通る方法をこう紹介している。
「そこで私がしたことといえば…。娘が父親に向かって2,3歩踏み出すとき、父親は帽子を取ります。 この行動で、娘が近づかないようにしているのです」
ファルマナーラはこう補足している。「イランは映画の中でキスもしなければ触れもしなければ抱き締めることもないが、どうしたものか、奇跡的にその人口が3,700万人から7,000万人に達している国なのです」
イラン映画には同様のケースがあまりにたくさんあるので、イラン映画を何作も見てしまうと、逆に登場人物が接触したり、例えばダンスしたりすると本当に驚かれるだろう。
しかし、映画製作者や俳優は常にこの越えてはならない一線に挑んでいる。
“ギーラーネ(邦題:母ギーラーネ)〔fa〕 ”という映画では、 麻痺状態の息子を世話する母親が息子を風呂に入れ、あちこち連れて行き、あるシーンでは実に、彼を元気づけようとダンスを始める。
アクラミのドキュメンタリーの中で、ラクシャン・バニエテマド監督は、検閲を不安に思いながらもタブーを犯さなければこのストーリーは語れないと感じたと話している。
アクラミは、イラン人映画製作者としてこう述べている。「あなたの最も賞賛すべき技術は、検閲規定をすり抜ける能力です。イランでの映画製作という話になると、芸術家としての才能は実は二の次になります。」
しかし、いくら規制されても、イラン映画は世界中の映画祭に参加を続け、評価されてきた。
例えば2012年には、アスガル・ファルハーディーが自作映画 “A Separation”でアカデミー賞外国語映画賞を受賞し、歴史を作った
ほかにも多くの映画が国際的な賞を勝ち取った。
その一方で、イランのドキュメンタリー映画製作者 Mahdi Kouhian は、イランのハサン・ロウハニ大統領の就任以来、以前より前向きな空気になっていると言う。
例えば、彼は4年ぶりにファジル国際映画祭に参加すると言った。
映画祭は、イスラム革命を記念するために毎年開催される。
しかし、映画製作者アクラミは楽観視していない。 それは、根本的改革が全く見られないとの言からわかる。彼は言う。
「ロウハニ氏の選出は、私にとって表面的変化でしかありません。 怪物に化粧をほどこすようなものです。根本的に、怪物の本性は決して変わりません。 まだ怪物はいるのです」
彼にとってイラン映画で最も嘆かわしいことは、最高の映画は決して作らせてはもらえないことだ。