ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

「社会人になると人間はつまらなくなる」は本当に本当なのか?(俺はおもしろいけど)

「社会人になると人間はつまらなくなる」という説について。

まあ他人事みたいに言ってますけど、他人事ではない。

サラリーマン生活はじめてからネタが思いつかなくなったのは俺に関して言えばかなり本当で「こんな現実はイヤだ!」からの「全部がでたらめだったらおもしろいのに…」へつながる現実逃避的な思考回路、っていうんですか。現実を深刻に受け止めすぎないための俺なりの処世術が、俺をしてネタツイートを書かしめたり、ネタツイートを書かしめたりしたんだけども、それが就職以前でした。就職以降、なにかが変わる。なにか。

 

これはわかる人にはわかるだろうし、わからない人は何十万字書いてもわからないかもしれないんだけど「意味」って怖いんですね。とりあえずなんでもネタにして現実を凌ぐというのは「意味に縛られるのが怖いから、意味を無意味に変えて笑ってしまう」ということで、そういう処世術が途端に通用しなくなる現場が社会、および会社組織だと認識していただくと、就活を控える学生の方々にも参考になるかと思います。社会に出たらへらへら笑ってばかりじゃいられないってことですね。そりゃそうだ。

 

思えば就活生だった時分、自己PRをどうぞ、なんて言われて、「私は学生時代に○○を行い、創意工夫と努力によって組織を牽引しました、ゆえに私には☓☓力があります。そしてそれゆえに私は御社で☓☓力を活かせる有用な人材であります」みたいな語り、全然できなかった。「意味」とはこれですね。「私の過去の実績は、私のこれこれの能力を証明するものであり、ゆえに御社でもこの能力を開花させることが可能です」って、ウソじゃないですか。過去にたまたまそういうことがあったからってなんなんだ。

ウソだし「過去のある出来事があったおかげで現在そして未来の自分がある」という理屈は、怖い。怖いですよ。「私は両親に虐待されたおかげでこうなりました」ってカミングアウトするのと何が違うんだと思うんですけど、思わねえか。俺は思ってましたし、今でもやっぱ思う。

 

別に、過去に発生した諸々のイベントが現在のあなたを形成しているというのは否定しない。それは事実だと思いますけど、それをなぜ口に出さなきゃいけないの、って話じゃないですか。口に出したら、俺はそれを信じこまなきゃいけなくなる。

「なぜ現在のあなたは、現在のあなたであるのか?」と問われて「それは大学時代に、アニメのサークルで活躍したからである」って、あまりにバカバカしくて、面接中にへらへら笑い出すのはたしかに良くなかったけれど、でも笑わなかったらやってられない。やってられないけど、それをやると一次面接という社会は俺を認めてくれないんですね(そりゃそうだ)。

論理的思考能力が高すぎるがゆえに面接で落ちるとは不条理もいいところで、これを笑わずにいられようか。ということで、就活中は現実のネタ化にも気合いが入って、現実の不条理は笑い事にしていたわけです。しかしこうまとめると地獄だな。

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それでまあ、何の因果か最終面接までへらへら笑ってたら今の会社がなぜか内定を出してくれて、菩薩かと思ったんだけど、それで入社後もへらへら笑って通用するかといえばそうでもなく、営業に配属されたからには「なぜお前は○○をしたのか?」「お前はいま何をすべきであるのか?」「お前は何者なのか?」と上司や客が意味を問うてくる場面に何度も出くわす。なぜなのかと問われて「自分でもわからないけど、そうしました」と言えるほど正直者でもないので、その場でパッとひらめいた理由を言ったり、少し考えて何も思いつかなければ「うーん…すいません…」と謝ってみたり、時には絶句もするんですけど、しかしこれは、完全に社会不適合者じゃないか。書く気が失せてきたぞ…。

 

とにかくしかし、困ったときに「へらへら笑ってやり過ごす」という伝家の宝刀、俺のお家芸をふさがれると、困る。自分が悪いと思ってないのに「すいません」と言い続けてると喉が潰れていくし(本当に)、何かしら言葉をでっちあげてごまかして、それがなんとか通ったところで、自分が嘘をじゃかじゃか積み重ねているのが恐ろしくなって「この嘘ツリーが巨大化して手遅れになる前に、早くリセットしてゼロに戻さなければ…」と思うし(これが退職騒動を起こした理由ですね。はっは)。言い訳するな、へらへらするな、と言われたら、俺の二大名物が消える。琵琶湖とひこにゃんを奪われた滋賀県みたいなもんで、おもしろいわけがない。

というわけで、社会に出れば人間はおもしろくなくなる、というのは一つの道理ですね。げに恐ろしきは社会の闇よ…。

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思えば少年時代、無口で友達もおらず学校も休みがちだった俺が、ようやくコミュニケーションのコツ(?)をつかみはじめたのは10歳ごろで、とりあえずへらへら笑っておけば通る、という処世術はこのとき誕生する。口ベタでも笑ってりゃ嫌われないって、手探りするなかでわかってきたんでしょうね。

 

自分はこう思う、自分はこうしたい、これがほしい、とレゴブロック組むみたいにことばを組み立てる能力が未発達な子どもが、コミュニケーションの世界へ羽ばたくうえで「私は口ベタだけれど、あなたの敵じゃないよ〜」とことばを使わずに伝えられる「笑い」という表現は大変に便利なもので、発明だった。たぶん笑うという発想がなかったら、世の中と折り合わなさ過ぎて、とっくに死んでたか人を刺すかしてたんじゃないか。

酒鬼薔薇聖斗が小学生を殺したのは俺が9歳のときで、ワイドショーを見ながら「きっと俺もこうなるんだ…」って想像がリアルにできて怖ろしかったんだけど、こうならないためにはどうすればいいんだ、と考え、「とりあえず笑って不条理をやりすごす」って発明をしたのかもしれない。て、天才だ…。

酒鬼薔薇少年は文才もあり、絵の才能もあって、彼は早熟の天才かもしれないと当時の週刊誌は書いていたけれど、俺のほうが天才でしたね。こうして生き延びたんだから。

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で、幸か不幸かへらへら笑ってここまで来てしまったんだけど、これ何に似てるかというと、モラトリアムですね。モラトリアムの延長戦。

「酒鬼薔薇少年は殺人を犯すことで通過儀礼を行おうとした。彼は彼なりの通過儀礼をでっち上げ、子どもから大人へ移行しようとした」という論評も見たことがありますが、それで言えば俺はへらへら笑うことで誰も殺さず、通過儀礼から逃げ続けてここまで来た。だけども根本の問題はなんにも解決してない。へらへら笑って現実を見ないガキである。

乱暴なこと言ってるように見えて本当に乱暴なこと言ってるんですけど、でもちょっと前までツイッターで元気にネタツイートしてた人たちが社会に出たら急に死にたい死にたい言ってる理由って、これだと思う。「大人になれ」ってしめつけがどんどん強くなって、それは極論、人を殺すか・自分が死ぬかしかないっていう。そこまでいかないと通過儀礼を果たせない、大人になれないっていう。尾崎豊だってあれだけ派手に反抗して、大人になれないまま死んでいった。

 

俺がリスペクトしてやまない作家であり批評家の大塚英志は「現代は通過儀礼が不可能になってしまった時代だから、通過儀礼を疑似体験できるフィクション・物語を胸に抱いて、現実に耐えていくしかない」と何度も繰り返し言っていて、「なんでこの人はこんなに絶望してるんだ…?」と俺は最初、著作を読んで驚いた。けど、ようやく意味がわかってきた気がする。俺はなんだかんだでへらへら笑って現実をフィクションに変えて、通過儀礼をやり過ごしてきたんだなって。大塚英志は誤解されているけど、批評界にこんないい人はいないですよ。30年近くこればっかり言ってきたんだから。

そんな通過儀礼が不可能な時代で、無理やり実行してうっかり大人になってしまったのが「意識の高い学生」であり、もっとすごいのが「子役タレント」だろう。「早く大人になれ」と言われて大人になって、その結果、大人から「気持ち悪い」と言われたら悲しすぎるなと思うし、笑えないなと思う。かつて酒鬼薔薇聖斗になってたかもしれない俺は、そういう子役にだってなってたかもしれない。あんまり叩いていいもんじゃないよ。

 

でまあ一方、俺はへらへら笑って「通過儀礼なんてねえよw」と逃げてきたけども「どうしようか…」になったわけですね、ここにきて。なんだかんだで、まわりがおかしくなっていく中で俺だけまともに生き延びてしまった。なんだろう、終戦直後の日本人はこんな感じだったのかもしれない。気づいたらまわりは廃墟で、俺だけ生き延びてたっていう。

まあ最近は、お前こそ本当に頭がおかしいなんて言われまくってるけど、俺くらいまともな人間はいないからな。まともなことを言う人間がいちばんイカれて見えるくらい、この社会はふざけてるんですよ。真っ当なこと言ってりゃ、ただそれだけでロックになるんだからな。

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…飽きてきたのでもうまとめます(モラトリアム人間なので)。

じゃあどうすればいいんだというと、答えはないんだけども、ここにきてようやく「責任感」というものが、わかってきた気がする。それは酒鬼薔薇聖斗とか、意識が高くなってしまった人間とか、子役タレントとか、ツイッターで死にたい死にたい連呼してる人とか、小学生のときの自分とか、親兄弟とかそういうもの全部に対する責任っていうんですか。そういうの。

ここまで来ると「全人類に対する責任感」「宇宙に対する責任感」ってことになりかねないけど、それはそうで、でもそれを認めていっそ抱え込んじゃったほうが、楽かもしれないんだよな。モラトリアムを脱するって、そういうことなんだと思う。アフリカのある部族は、いい大人たちが夜ごと盛大な儀式をやって天を仰いで「俺たちが太陽を動かしてるんだ」って宇宙とつながってる気になってたらしいけど、それはそれで幸せだったんだと思うし、現在、人間の根本にそういうものがないかというと、ある気がするぞ、俺は。そういう部族では宇宙を動かす儀式への参加資格として、通過儀礼を経て大人になるというプロセスがあったりもしたんだから。大人になるとは宇宙に対する責任を追うことで、それが彼らに生きる実感を与えていた。

 

…ということで覚悟しました、俺は新しい宗教を立ち上げますという話ではなく、ちゃんと歴史の勉強とかしてます。なにが「ということで」なんだ…。

もう少しまともな文章を書くつもりだったのに、すぐ話を広げて宇宙まで持っていくクセがあって困る。まあどんなクセだって話なんだけど、そりゃ宇宙までつながったらめでたいよなあと思うし、僕なりの照れではあるんですけどね、一応。意味とか過去とかその他諸々よ、宇宙へ飛んでけーっていう。痛いの痛いのとんでけーと同じです。本当に。へらへら笑うのもきっとそうで、笑い声に乗せて毒気を宇宙へ飛ばしてるんだろうな。

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まとめます(今度こそ)。

「自分を社会の中に位置づけるための言葉を持てない」という人間は結構いて、その人が「成長して自分を語れるようになる」までの猶予期間が、「へらへら期=モラトリアム」である、と。へらへら笑って現実をやりすごすことが許される期間である、と。勝手に普遍化しましたけど、身に覚えがある人はいると思う。

 

そうすると俺がいま為すべきは「いつまでもへらへら笑ってないで、自分を社会に存在させるための言葉を、真剣に組み立てる」ということで、幸いにして部署も営業部から異動になり、コミュニケーションの反射神経があまり要求されないぬるめの職場に異動したこともありまして、この猶予を生かして学ぶしかないなと。いつまでも「世界がお笑いだったらいいのに…」とか言ってる場合じゃないなと。

「世界がお笑いだったらいいのに」と願ってるというのは、はっきり言えば子どもですけど、そういう子どもの心を捨てたら、この先なんにもないと思うんだよね。「お前は平気でへらへら笑って過ごして、それでいいのか?」って、子どものときの自分が問いかけてくるっつーのは昔からあったけど、社会に出たからってその声を完全に押し殺してしまったら、そのときは本当に、ただのつまらないサラリーマンになるんだと思う。

だから自分の中の子どもを捨てずに守るための言葉ですね、それを組み立てるしかないなと思います。アムロがガンダム乗るみたいなもんですね。ガンダムを作らねばならない。ガンダムだよ、諸君。この世界で大人になるとは、悲しいかなガンダムを作ることであり、美しい爆撃機を作ることである、と。

 

…ということで、最近は日本史・世界史の勉強から語学、ガンダムの作り方から宇宙のことまで、諸々勉強しているところであります。勉強は必要性ってのがわかると、骨身にしみますね。おもしろい。

2013年9月10日現在。俺はまだ、おもしろいぞ。