花尾城
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花尾城 (福岡県) | |
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花尾城想像模型 | |
城郭構造 | 連郭式山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 宇都宮重業 |
築城年 | 建久5年(1194年) |
主な城主 | 麻生氏 |
廃城年 | 天正14年(1586年) |
遺構 | 曲輪、竪堀、石塁、井戸跡 |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯33度50分58秒 東経130度47分00秒 / 北緯33.84944度 東経130.78333度 |
地図 |
花尾城(はなおじょう)は、福岡県北九州市八幡西区にあった日本の城。本丸は標高351メートルの花尾山山頂に位置する。
沿革
[編集]建久5年(1194年)、麻生氏の祖・宇都宮重業によって築城された。
文明10年(1478年)、麻生家信(家延)と弘家(ひろいえ)との家督争いに大内政弘が介入、篭城する家信を攻めたが3年間落城させられず、和議により家信は遠賀荘を得て岡城へ退き、弘家が城主となる。
その後、城主の麻生弥五郎なる人物(詳細不詳)を追放した大内義隆が奪うが、城主となった相良武任が天文20年(1551年)の陶隆房(陶晴賢)の反乱(大寧寺の変)により殺害されると再び麻生氏に帰し、麻生鎮里(しげさと、家信の子、元・水晶城主)が城主となる。しかし鎮里は、永禄10年(1567年)、対立していた一族の麻生隆実(たかざね、遠賀郡山鹿城主)と戦うも、宗像氏貞の支援を得た隆実に敗れ、城を出て薩摩の島津氏の許へ逃れた。
天正14年(1586年)、豊臣秀吉の九州征伐で、麻生家氏(いえうじ、隆実の子とされる)は降伏して筑後へ所替えになり、小早川隆景の領有となって廃城になった。
現在は花尾山城公園として整備され、竪堀、石塁、井戸跡などの遺構が見られる。黒崎駅前にあった想像模型は、北九州市立八幡西図書館前に移動された。市内の龍潜寺には戦死者供養碑がある。
また、市の指定無形民俗文化財である「前田の盆踊」は、明応年間(1492年~1501年)に大内氏に攻められた際の、戦死者供養として始められたと伝わる[1]。
構造
[編集]所在地・アクセス
[編集]北九州市八幡西区大字熊手
- 西鉄黒崎バスセンター から西鉄バス、「花尾城東登山口」下車、遊歩道徒歩20分。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『筑前国続風土記』1703年