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神保春茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
神保 春茂
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文23年(1554年
死没 文禄5年1月19日1596年2月17日
戒名 練徳心研
墓所 紀伊国如意輪寺
官位 式部大輔あるいは式部丞
主君 畠山秋高豊臣秀吉
氏族 湯川氏?→神保氏
父母 父:神保茂定[1]神保光茂[2]
兄弟 湯川春仍[2]神保茂家[1]
相茂、娘(多賀常長妻)
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神保 春茂(じんぼう はるしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。官途は式部大輔あるいは式部丞。

出自

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寛政重修諸家譜』によると、惟宗姓の神保宗右衛門長誠から孫の彦九郎茂政[注釈 1]-彦次郎則茂[注釈 2]-三河守茂勝[注釈 3]-右衛門尉茂定[注釈 4]-春茂と続いたとされる[1]

一方で、『古今采輯』によると、姓の神保宗右衛門(長誠)から彦次郎宗角[注釈 5]-彦九郎則角[注釈 6]-右衛門尉光茂[注釈 7]-春茂と続いたとされる。加えて、春茂には「春仍弟」とあり、血筋としては湯川直春-直定-春定-春茂と続いた可能性がある[2]

概要

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寛政重修諸家譜』によると、紀伊国有田郡石垣鳥屋城に住んでおり、畠山氏が没落した後は紀伊国に幽居し、その後豊臣秀吉に仕え大和国高市郡に6000石の知行地を与えられたという[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 某年大和国河原合戦にて戦死
  2. ^ 某年大和国高間合戦にて戦死
  3. ^ 某年紀伊国有田郡石垣にて死去
  4. ^ 某年河内国東光合戦にて戦死
  5. ^ 某年大和国宇智郡河原陣討死
  6. ^ 某年大和国高間陣討死
  7. ^ 某年河内国経光寺合戦討死

出典

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  1. ^ a b c d 寛政重修諸家譜 第7輯』(國民圖書、1923年)p.156
  2. ^ a b c 『古今采輯』[要文献特定詳細情報]

関連項目

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