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畠山政国 (総州家)

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畠山 政国(はたけやま まさくに、? - 文明2年10月5日1470年11月6日))は、室町時代武将能登国守護畠山義有の子[1]畠山義忠の孫で畠山義統の弟にあたる)。畠山義就猶子[1]通称は次郎。室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱を受けて政国(旧字体:政國)と名乗る。

生涯

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本家の河内畠山氏の内紛の際、能登畠山氏は義就を支持し、政国を義就の猶子として関係を強化した。

文正元年(1466年)12月、紀伊国牟婁郡芳養荘(現・田辺市)を熊野新宮に寄進した[1][2]。この後、熊野三山は蜂起する[1]応仁元年(1467年)にかけて紀伊国の大半を平定した[1]

応仁の乱直後の同年(応仁元年)6月、紀州勢を率いて上洛し、義就に合流した[1]

義就に実子の修羅が誕生すると追放され、越前において朝倉孝景に殺害された。

脚注

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参考文献

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