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栗村智

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
くりむら さとる
栗村 智
プロフィール
出身地 日本の旗 日本 広島県
生年月日 (1953-08-23) 1953年8月23日(71歳)
血液型 A型
最終学歴 中央大学法学部卒業
職歴 ニッポン放送スポーツ部→フジテレビ編制制作局アナウンス室→制作部アナウンサールーム→ニッポン放送スポーツ部
活動期間 1977年 -
ジャンル スポーツ実況
公式サイト オフィス栗好み
出演番組・活動
出演経歴 #過去の出演番組を参照

栗村 智(くりむら さとる、1953年昭和28年〉8月23日[1] - )は、広島県広島市出身のフリーアナウンサーで、元・ニッポン放送アナウンサー。

来歴

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血液型はA型[1]で、広島学院高等学校から中央大学法学部法律学科へ進学[1]。大学卒業後の1977年ニッポン放送へ入社した[1]。同期入社のアナウンサーは塚越孝

入社後は、主にスポーツアナウンサーとして活動。プロ野球中継では、1981年ヤクルトスワローズ広島東洋カープ戦(明治神宮野球場)で、全国放送での実況デビューを果たした[1]

2006年3月腎臓を患ったが、ニッポン放送の再編によって、2006年4月3日付でニッポン放送スポーツ部からフジテレビに転籍した。同期の塚越も転籍していたが、腎臓疾患の影響で人工透析が欠かせなくなった栗村だけは、3ヶ月でニッポン放送に再転籍。当初は制作部のアナウンサーとしてスポーツ中継から離れていたが、2012年度のナイターシーズンからスポーツ中継に復帰した。本人が後に明かしたところによれば、「体調の不安からスポーツ中継の担当から離れたが、スポーツの現場の迫力や興奮が忘れられずに復帰した」という[2]

2013年の誕生日でニッポン放送の定年に達した[2]が、8月31日の定年退職後も、嘱託契約のアナウンサーとして5年間在籍。嘱託契約の満了(2018年8月31日)を機に、個人事務所(オフィス栗好み)を立ち上げたうえで、フリーアナウンサーとして活動している。

エピソード

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  • フジテレビからニッポン放送への復帰後は、週に3回のペースで人工透析を受けながらラジオ番組へ出演している。2014年4月上旬には脳出血を患ったが症状は軽く、5月上旬に職場復帰した。
  • カープファンである。1975年のカープ初優勝時の実況中継で、NHKアナウンサーの鈴木文弥の「広島カープに過去は有りません。現在あるのみです」のアナウンスに感動したという[1]
  • 趣味が寄席鑑賞。落語への造詣が深く、空いた時間に都内の寄席に出向いては落語を楽しんでおり、ニッポン放送のリスナー感謝イベントである『ラジオパーク』では自ら落語を披露するほどの落語好きである。だが、3代目古今亭志ん朝が死去して以降は2004年まで寄席通いをやめていた。
  • 高校2年の時に上京して5代目柳家小さんに弟子入りを志願するが、小さん本人から「あんちゃん、学校だけは卒業しな。」と諭され断念しており、栗村本人も「もしアナウンサーになっていなかったら?」の問いに対して、「5代目柳家小さん師匠に入門して噺家になっていただろう。」と答えている[1]
  • 中央大学では落語研究会に所属し、あたり家 大穴(9代目…11代目はテレビ朝日アナウンサーの小木逸平)という高座名を名乗っていた。大学3年生の時に六大学落研対抗戦で優秀賞を受賞した[1]
  • 2017年JRA最優秀障害馬の投票でGI 2勝のオジュウチョウサンがいるにもかかわらず、ただ一人「該当馬なし」に一票を投じた[3]

担当番組

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過去の担当番組

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CM

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h DJ名鑑 1987三才ブックス、1987年2月15日、219頁。
  2. ^ a b 栗村智 朝のひとりごと 2013年9月25日の記事
  3. ^ 2017年度JRA賞 記者投票集計結果

外部リンク

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