東京砲兵工廠
座標: 北緯35度42分20秒 東経139度44分57秒 / 北緯35.70556度 東経139.74917度
東京砲兵工廠(とうきょうほうへいこうしょう)は、現在の東京都文京区に存在した日本陸軍の工廠である。1871年(明治4年)から1935年にその機能を小倉工廠(福岡県小倉市、現福岡県北九州市小倉北区)に移転するまで操業し、小銃を主体とする兵器の製造を行った。また、官公庁や民間の要望に応えて、兵器以外のさまざまな金属製品も製造した。
概要
[編集]1870年3月3日(明治3年2月2日 (旧暦))、兵部省に造兵司が新設され、同年5月13日(4月13日 (旧暦))に大坂城青屋口門内中仕切元番所を仮庁として事務を開始した。大阪工場は、鋳物場・鍛冶場・機械場が6月(旧暦)から、火工所が10月(旧暦)から操業を開始した。明治4年7月(旧暦)、造兵司本局は東京に移転し、大阪は大阪造兵司と名称を変更。陸軍省の発足とともに1872年4月15日(明治5年3月8日 (旧暦))大砲製造所と改称した。
1870年(明治3年)3月(旧暦)、造兵司は東京の旧幕府営の関口製造所と滝野川反射炉を管轄とし、それらの設備を元に東京工場を小石川の旧水戸藩邸跡に建設し、1871年(明治4年)に火工所(小銃実包の製造)が操業、翌年には銃工所(小銃改造・修理)、大砲修理所の作業が開始された。後に板橋火薬製造所・岩鼻火薬製造所・十条兵器製造所など関東の陸軍兵器工場を管下においた。このとき藩邸内の日本庭園施設を一部残し、1874年(明治7年)以降、明治天皇の行幸および皇族による行啓の栄誉を受けた。
制度的には1875年(明治8年)2月8日、「砲兵方面本支廠条例」(陸軍省布第45号達)による組織改正で造兵司及び武庫司を廃止し、造兵司(東京)を「砲兵第一方面内砲兵本廠」、大砲製造所(大阪)を「砲兵第二方面内砲兵支廠」と改称した(陸軍省布第35号達)。さらに、1879年(明治12年)、「砲兵工廠条例」(陸軍省達乙第79号達)の制定に伴って、10月10日、陸軍省達乙74号より「東京砲兵工廠」となり、1923年(大正12年)4月1日より施行された「陸軍造兵廠令」(大正12年3月30日勅令第83号)によって、大阪砲兵工廠と合併し「陸軍造兵廠火工廠」、「陸軍造兵廠東京工廠」と改称した。また庭園部分は同年3月7日に、小石川後楽園として国の史跡および名勝の指定を受けた。
同年9月1日の関東大震災によって甚大な被害を受けたあと、小石川工場の本格的な復旧には多大な経費が必要なことから、造兵廠長官の直轄であった小倉兵器製造所への集約移転が図られ、1931年(昭和6年)から逐次、小倉へ移転が実施された。1933年(昭和8年)10月、小倉兵器製造所は小倉工廠となり、兵器製造所に加え砲具製造所・砲弾製造所を増設。1935年(昭和10年)10月、東京工廠は小倉工廠へ移転を完了し、約66年間の歴史の幕を閉じた。
工廠跡地は翌年設立した「株式会社後楽園スタヂアム」に売却され、翌1937年(昭和12年)9月、職業野球専用の新球場、通称「後楽園球場」や遊園地、競輪場など一大レジャー施設としてオープンした。
小石川後楽園は都立公園として整備され、世界的にも名園として知られている。園内には現在も砲兵工廠の遺構がいくつか保存され、また工廠敷地の形状をかたどった記念碑がある。
工廠長
[編集]砲兵本廠
[編集]- 提理
東京砲兵工廠
[編集]- 提理
- 工廠長
- 有坂成章 大佐:1896年6月6日[4] -
- (兼)桜井重寿 少将:1898年4月26日[4] -
- 桜井重寿 少将:1900年4月25日[4] -
- 西村精一 少将:1900年7月29日[4] - 1910年11月30日
- 提理
- 兵頭雅誉 少将:1910年11月30日 - 1913年8月22日
- 宮田太郎 少将:1913年8月22日 - 1920年8月10日[5]
- 松浦善助 中将:1920年8月10日[5] - 1922年8月15日[6]
- 南部麒次郎 中将:1922年8月15日[6] - 1923年3月30日[7](陸軍造兵廠東京工廠、同火工廠に再編)
陸軍造兵廠東京工廠
[編集]- 工廠長
- 近藤兵三郎 大佐:1923年4月1日[7] -
- 武田信夫 大佐:1923年8月6日[7] -
- 小柳津正蔵 砲兵大佐:1928年8月10日[8] -
- (兼)津田藤左衛門 少将:1932年4月11日[8] - 1932年8月8日[9] (本職:陸軍造兵廠作業部長)
- 高橋貞夫 少将:1932年8月8日[8][9] -
- 杉本春吉 大佐:1936年8月1日[8] -
- 杉浦辰雄 少将:1939年3月9日[10] - 1940年3月31日[10](東京第一陸軍造兵廠に改編)
陸軍造兵廠火工廠
[編集]- 廠長
- 南部麒次郎 中将:1923年4月1日[7] -
- 栃木綱貞 少将:1923年8月6日[7] -
- 井上与一郎 少将:1924年2月4日[7] -
- 能村磐夫 中将:1926年3月2日[8] -
- 鈴木貞造 少将:1928年3月8日[8] -
- 勝野正魚 少将:1928年12月21日[8] -
- 長谷川鉄次郎 少将:1930年8月1日[8] -
- 津田藤左衛門 少将:1933年3月18日[8] -
- 榊田圭蔵 少将:1935年3月15日[8] -
- 河内権五郎 少将:1936年8月1日[8] -
- 大島駿 少将:1939年3月9日[10] - 1940年3月31日[10](東京第二陸軍造兵廠に改編)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』(八朔社、1999年) ISBN 4-938571-76-5
- 三宅宏司『大阪砲兵工廠の研究』(思文閣出版、1993年) ISBN 4-7842-0776-7
- 『官報』
- 外山操、森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。