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寒玉子爲治郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

寒玉子 爲治郎(かんたまご ためじろう、1888年2月27日 - 1948年4月5日)は、富山県礪波郡(現小矢部市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は土谷 爲治郎(つちや ためじろう)。最高位は西前頭9枚目(1916年5月場所)。現役時代の体格は166cm、90kg。得意手は突っ張り、押し。

来歴

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四股名の由来は師匠の友綱が「体は小さいが、寒の玉子のようにじっと辛抱すれば必ず出世する」という願いを込めて名付けたものだという。その願い通り、初土俵からちょうど9年目に見事入幕を果たした。幕内での活躍は少なく十両との往復が続いたが、愛嬌のある人気力士だった。

大関若嶌久三郎(6代楯山)の孫娘と結婚したのを機に、四股名を「若嶌」と改めた。

引退後は品川ビリヤード場を開いたほか、両国国技館内でも飲食店を営んだ。

年譜

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主な成績

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  • 番付在位場所数:36場所
  • 幕内在位:9場所
  • 幕内成績:20勝45敗3分4預18休 勝率.308
  • 通算成績:45勝65敗5分6預18休 勝率.409[1]

場所別成績

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寒玉子 爲治郎
春場所 夏場所
1903年
(明治36年)
西序ノ口36枚目
 
西序ノ口20枚目
 
1904年
(明治37年)
東序ノ口8枚目
 
西序二段67枚目
 
1905年
(明治38年)
東序二段27枚目
 
東序二段19枚目
 
1906年
(明治39年)
西序二段16枚目
 
東三段目46枚目
 
1907年
(明治40年)
西三段目37枚目
 
西三段目39枚目
 
1908年
(明治41年)
西三段目14枚目
 
東三段目6枚目
 
1909年
(明治42年)
東幕下57枚目
 
東幕下40枚目
 
1910年
(明治43年)
東幕下22枚目
 
西幕下10枚目
4–0 
1911年
(明治44年)
西十両6枚目
2–1
1分1預
 
西十両筆頭
5–4
1預
 
1912年
(明治45年)
東前頭17枚目
1–9 
西十両2枚目
5–2
1分
 
1913年
(大正2年)
西前頭14枚目
1–1–7
1分
 
西前頭17枚目
3–6
1分
 
1914年
(大正3年)
西十両筆頭
4–1 
西前頭14枚目
3–4–3 
1915年
(大正4年)
西前頭13枚目
1–7–1
1預
 
東十両筆頭
5–2 
1916年
(大正5年)
西前頭15枚目
4–4
2預
 
西前頭9枚目
5–5 
1917年
(大正6年)
東前頭12枚目
0–2–6
1分1預
 
東前頭17枚目
2–7–1 
1918年
(大正7年)
東十両筆頭
3–6 
東十両9枚目
1–4 
1919年
(大正8年)
東幕下3枚目
0–0 
西幕下27枚目
 
1920年
(大正9年)
西幕下9枚目
2–2
1預
 
東幕下10枚目
引退
2–3–0
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 幕下以下の地位は小島貞二コレクションの番付実物画像による。

四股名変遷

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  • 寒玉子 爲治郎(かんたまご ためじろう)1903年1月場所 - 1911年5月場所
  • 寒玉子 為治郎(- ためじろう)1912年1月場所
  • 寒玉子 爲治郎(- ためじろう)1912年5月場所 - 1916年5月場所
  • 若嶌 爲治郎(わかしま -)1917年1月場所 - 1917年5月場所
  • 若嶌 爲右エ門(- ためえもん)1918年1月場所 - 1920年5月場所

脚注

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  1. ^ 勝敗数等及び勝率は便宜上幕内と十両の合計を示す。他に幕下以下の記録として、少なくとも幕下15枚目以内の8勝5敗1預の記録が確認できる。

関連項目

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外部リンク

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