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室生犀星

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
室生むろう 犀星さいせい
59歳の室生犀星(1948年)
誕生 室生 照道(むろう てるみち)
1889年8月1日
石川県金沢市
死没 (1962-03-26) 1962年3月26日(72歳没)
東京都港区虎ノ門
墓地 野田山墓地(石川県金沢市)
職業 詩人小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 長町高等小学校中退
活動期間 1913年 - 1962年
ジャンル 小説俳句随筆
主題 近代抒情詩
文学活動 理想主義
代表作 『愛の詩集』(1918年)
『抒情小曲集』(1918年)
性に眼覚める頃』(1933年)
あにいもうと』(1934年)
杏っ子』(1957年)
かげろふの日記遺文』(1958年 - 1959年)
蜜のあはれ』(1959年)
主な受賞歴 文芸懇話会賞(1935年)
菊池寛賞(1941年)
読売文学賞(1957年)
毎日出版文化賞(1959年)
野間文芸賞(1959年)
配偶者 室生とみ子1895年 - 1959年
子供 室生朝子
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室生犀星生誕地跡石碑(室生犀星記念館・金沢市)

室生 犀星(むろう さいせい、1889年明治22年〉8月1日 - 1962年昭和37年〉3月26日)は、日本詩人小説家石川県金沢市出身。本名は室生 照道(むろう てるみち)。別号に「魚眠洞」、「魚生」、「殘花」、「照文」。別筆名は「秋本 健之」。日本芸術院会員。

姓の平仮名表記は、「むろう」が一般的であるが、犀星自身が「むろう」「むろお」の両方の署名を用いていたため、現在も表記が統一されていない。室生犀星記念館は「「むろお」を正式とするが、「むろお」への変更を強制するものではない」としている。[1][注釈 1]

生後すぐ養子に出され、室生姓を名乗った。養母は養育料で享楽しようとするような女で、犀星は生母の消息をついに知ることなく、貰い子たちと共同生活を送る。

養母により高等小学校を中途で退学させられ、金沢地方裁判所に給仕として勤めさせられるが、この頃より文学に関心を抱いて、やがて上京する。しかし生活は苦しく、故郷に戻っても、出生・学歴などの理由で失恋し、東京と金沢との間を往きつ戻りつする。この間にうたわれたのが絶唱「小景異情」である。

1915年、萩原朔太郎・山村暮鳥らと詩誌「感情」を創刊。1918年に刊行した『愛の詩集』と『抒情小曲集』は詩壇に新風を吹き込んだ。1919年、小説「幼年時代」「性に眼覚める頃」を発表し、小説に活動の場を移した。長い沈黙のあと、1934年に「あにいもうと」を発表。第2次世界大戦後も沈黙があったが、1956年の『杏っ子』で復活をとげ、その後は小説家として名を上げた。

経歴

[編集]

1889年明治22年)、金沢市裏千日町に生まれる[2]加賀藩足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種と、その女中であるハルの間に私生児として生まれた[注釈 2]。生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗)住職だった室生真乗の内縁の妻、赤井ハツに引き取られ、ハツの私生児として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この時から室生照道を名乗ることになった。私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出された生い立ちは、犀星の文学に深い影響を与えた。「お前はオカンボ(を意味する金沢の方言)の子だ」と蔑まれた犀星は、生みの母親についてのダブルバインド(二重束縛)を背負っていた[要出典]。『犀星発句集』(1943年)に収められた

「夏の日の匹婦[3]の腹に生まれけり」

との句は、犀星自身50歳を過ぎても、このダブルバインドを引きずっていたことを提示している[要出典]

1895年(明治28年)9月金沢市立野町尋常小学校入学。

1896年(明治29年)2月室生真乗の養嗣子となる。

1898年(明治31年)3月実父小畠吉種死去。このあと実母ハルは行方不明となる。

1899年(明治32年)3月野町尋常小学校を卒業。

1900年(明治33年)4月金沢高等小学校に入学。

1902年(明治35年)5月長町高等小学校を3年で中退し[4][注釈 3]、義母の命令により[5]、義兄真道の勤務する金沢地方裁判所に給仕として就職[注釈 4]海月寺の庫裏を下宿先としていた[6]

1903年(明治36年)頃より裁判所の上司に河越風骨[注釈 5]、赤倉錦風といった俳人があり手ほどきを受け[注釈 6]、文学書に親しみ始める。俳句会への出席および新聞への投句を始め[注釈 7]1904年(明治37年)10月8日付け『北國新聞』に初掲載。第四高等学校教授藤井乙男(紫影)が俳句欄の選者であった[注釈 8]。この時の照文(てりふみ)[7] 。その後短歌などにも手を染める。

1905年(明治38年)勤務先で回覧雑誌をつくる。

1906年(明治39年)『文章世界』3月創刊号に小品の文章が初入選する。使用した号は、室生殘花。また、北國新聞その他に俳句が掲載され始める。なお、犀星を名乗ったのはこの年からである。犀星という筆名は、当時金沢で活動をしていた漢詩人の国府犀東に対抗したもので、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。犀星が育った雨宝院は犀川左岸にあり、犀星はこの川の風情と、上流に見える山々の景色とをことの外愛した。

1907年(明治40年)『新聲』7月号に児玉花外の選により詩「さくら石斑魚に添へて」が掲載される。この頃から詩作も始める。

1908年(明治41年)5月同郷の友人である表棹影、尾山篤二郎、田辺孝次らと「北辰詩社」結成。初の小説「宗左衛門」が『新聲』8月号に掲載される。第八高等学校に転出した藤井乙男の後任大谷繞石と識る[2]

1909年(明治42年)1月、金石登記所に転任。2月、尼寺に下宿する。北原白秋から強い影響を受け、「かもめ」「海浜独唱」を作詩。4月表棹影病没。この頃徴兵検査を受けるが、丙種合格。9月裁判所退職。10月福井県三国町の『みくに新聞』に就職するが、社長と衝突[注釈 9]。12月に退社し、金沢に戻る。

1910年(明治43年)1月京都旅行。藤井紫影の紹介で上田敏を訪問する。福井を経て金沢に戻り、2月金沢の『石川新聞』に入社するが、2ケ月ほどで退社。5月裁判所時代の上司であった赤倉錦風を頼り上京し、下谷根岸の赤倉家に止宿する。さらに、北原白秋、児玉花外を訪問。赤倉の薦めで、東京地方裁判所の地下室での裁判関係の筆耕に通う[8]。7月本郷根津片町で下宿開始。このあと谷中三崎町、千駄木林町などを移り住む。

1911年(明治44年)7月生活上の困苦と夏の暑さのため帰郷。10月再び上京し、駒込千駄木町に下宿。その後は、幾度も帰郷・上京をくりかえす。 1912年(明治45年)1月北原白秋を訪問する[8]。7月帰郷。北原白秋や『スバル』の発行編集人江南文三あて詩を送付。「青き魚を釣る人」ほかが『スバル』10月号に掲載される[注釈 10][9]。1912年(大正元年)12月、尾山篤二郎が金沢で創刊した雑誌『樹蔭』に参加する。

1913年大正2年)2月、半年ぶりに上京し[8]根津神社裏に下宿。藤澤淸造、安野助太郎、廣川松五郎らと交流し、佐藤春夫山村暮鳥を知る。一方で、北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ざんぼあ)』に寄稿し、1月の創刊号から第5号廃刊まで毎号掲載される。ほかに『詩歌』、『創作』、『秀才文壇』、『女子文壇』にも詩を発表する。なお、同年春に『朱欒』掲載の抒情詩に感激した未知の萩原朔太郎から手紙を受け取り、終生の親交をもつ。夏から秋にかけて郷里に滞在[8]。11月上京[8]。12月『女子文壇』の編集を引き受けるも1ケ月でやめる。

1914年(大正3年)2月前橋に萩原朔太郎を訪ね、利根河畔の旅館一明館に3月8日まで滞在する[8]。このとき聖書を読む。前橋より上京[8]。4月尾山篤二郎と「北辰詩社」を復活させ、詩と短歌を有料で添削指導する。この頃、恩地孝四郎と識る。また高村光太郎を訪問する[8]。5月頃、尾山と共著詩歌集『靑き甕』を企画する[8]。6月萩原と山村暮鳥とともに「人魚詩社」を結成する。8月帰郷[8]。9月創造社刊行の『創造』に掲載した「急行列車」が原因となり該当誌が発売禁止となる[注釈 11]。同月雑誌『地上巡禮』が創刊され、発行元の巡禮詩社の社友となる。同月雑誌『異端』が創刊され、同人となる。11月自宅である金沢市千日町に「詩の會」を設立し、有料で詩の添削を始める。この頃、『詩歌』、『創作』、『風景』、『アララギ』、『異端』、『地上巡禮』などに詩を発表する。

1915年(大正4年)1月金沢で『遍路』が創刊され、詩の選者となる。3月山村、萩原と『卓上噴水』を創刊して、編集を担当するが、第3号で廃刊となる。4月多田不二と識る。5月8日萩原を金沢に迎え、17日まで滞在。多田、小畠貞一らと歓待する[8]。5月上京し、本郷千駄木町に下宿する。萩原の紹介で、竹村俊郎を知る。また、北原らと交遊する[8]。この頃、『詩歌』、『地上巡禮』、『遍路』、『處女國』、『ARS』、『秀才文壇』、『創造』、『卓上噴水』などに詩および感想文を発表する。10月、前橋に萩原を訪問する。

1916年(大正5年)には、トルストイドストエフスキーの作品を読む。4月山村の編集により雑誌『LE PRISME』創刊。室生が発行名義人となる。6月萩原とともに「感情詩社」を設立し、同人誌『感情』を創刊。再び共同主宰し、室生も編集運営に当たる[9][注釈 12]。7月田端の沢田方へ「感情詩社」とともに移転し、『感情』第2号、第3号を「抒情小曲集」として特集、金石時代以来の詩60篇を掲載。9月「抒情小曲集」に感激した谷崎潤一郎が来訪。また、佐藤惣之助百田宗治ら多数の詩人と知り合う。11月『文章世界』の「詩壇九人集」に参加する[注釈 13]

1917年(大正6年)1月メエゾン鴻の巣での各グループ詩人懇談会に出席[8]。2月萩原の詩集『月に吠える』が出版されるが、発売禁止問題が起こり、室生が警視庁に出頭する[注釈 14]。雑誌『感情』で「室生犀星特集號」を特集。3月南葛飾の北原白秋を訪問[8]。5月群馬県梨木鉱泉へ行く。帰路、萩原と伊香保温泉に谷崎潤一郎を訪問[8]。7月下旬熱病罹患し数日間病臥[8]。8月養父重病のため帰郷。看護してのち帰京。この頃、近所に越してきた北原白秋と頻繁に往来[8]。9月23日養父真乗死去。家督を継ぎ寺院および家財を整理する。このあいだに、文通交際中であった浅川とみ子(実名とめ)と婚約[注釈 15]。10月初旬帰京[8]。11月「詩話會」が設立され、会員となる[8]

1918年(大正7年)1月1日第一詩集『愛の詩集』を感情詩社より自費出版[注釈 16][注釈 17]日夏耿之介詩集の「転身の頌の會」に出席し、芥川龍之介福士幸次郎と識る。月末帰郷。2月13日生家小畠家にて浅川とみ子と結婚式を挙げ、まず新妻を置いて上京、月末とみ子も上京し、田端の沢田方に新居を持つ。散文、評論の執筆を積極的に始める。4月『新らしい詩とその作り方』を刊行。9月『抒情小曲集』を感情詩社から自費出版[注釈 18]。亡父一周忌法要に帰郷。10月詩話會委員となる[8]

1919年(大正8年)には中央公論に『幼年時代』、『性に眼覚める頃』等を掲載し、注文が来る作家になっていた[注釈 19]。この年、2月「詩話會」発行の年刊詩集『日本詩集』編集委員に就任。5月『第二愛の詩集』を刊行[注釈 20]。6月10日に『愛の詩集』出版記念会が本郷燕樂軒で開催されて、北原、芥川、加能作次郎ら32名が出席した。10月田端571番地に転居。11月、雑誌『感情』が32号で終刊となる。

1920年(大正9年)『中央公論』、『新潮』、『雄辯』、『文章世界』、『改造』、『文章倶楽部』、『太陽』、『解放』などに30篇以上の小説を執筆。1月小説集『性に眼覺める頃』刊行[注釈 21]。これは最初の小説集となった。2月『感情同人詩集』を編集発行。4月、『中央公論』に「結婚者の手記」を発表し、3月に単行本として刊行。同月、初の新聞小説である「海の僧院」を39回『報知新聞』に連載。また、『雄辯』に発表した「蒼白き巣窟」が部分削除処分となる。4月「美しき氷河」、6月「古き毒草園」を『中央公論』に発表。5月約半月の間帰郷。この頃から魚眠洞、魚生と号する。8月詩集『寂しき都會』刊行。9月「香爐を盗む」を『中央公論』に発表。11月短篇集『蒼白き巣窟』刊行[注釈 22]

1921年(大正10年)40篇以上の小説を執筆。このうち7回は『中央公論』への掲載。1月号「おれん」、3月号「萬華鏡」、4月号「影絵のごとく」、6月号「芋掘藤五郎」、都市と田園号「植物物語」、四百号記念号(秋季大附録号)「孔雀と痴人」、12月号「お小姓兒太郞ほか二篇」。2月短篇集『古き毒草園』刊行。3月短篇集『香爐を盗む』刊行。3月から4月にかけて「蝙蝠」33回を『大阪毎日新聞』、『東京日日新聞』に連載。5月長男豹太郎誕生。6月短篇集『鯉』、短篇集『美しき氷河』刊行[注釈 23]。同月、伊香保温泉に遊び、帰途前橋に萩原を訪問。7月「金色の蠅」を『報知新聞』に連載。8月上旬萩原と赤倉温泉に遊ぶ[8]。同月「詩話會」委員となる。9月短篇集『蝙蝠』刊行。

1922年(大正11年)小説も詩も多作。2月詩集『星より來れる者』刊行。3月『室生犀星詩選』刊行。同月千家元麿らと詩誌『嵐』を創刊。6月詩集『田舎の花』刊行。同月24日長男死去。同月中篇小説『走馬燈』刊行。7月夫人と湯ヶ島温泉に萩原を訪ね、同道して北原白秋を訪問[8]。11月短篇集『幼年時代』刊行。12月亡児追悼の作品集『忘春詩集』刊行。

1923年(大正12年)1月短篇集『萬花鏡』刊行。4月詩集『青き魚を釣る人 抒情小曲』刊行。7月アルス社より『抒情小曲集』を再び刊行[注釈 24]。8月27日長女朝子誕生。9月1日関東大震災罹災。10月1日一家で金沢に転居し、池田町を経て上本多町川御亭に住む。12月川岸町に転居。この年、中野重治堀辰雄を知る[8]

1924年(大正13年)大阪の文化社が3月『肉の記録』を、大阪の萬有社が4月『肉を求むる者』をそれぞれ無断出版したことを知り、6月訴訟のため上京。この月萬有社より『彼等に』が刊行される。同月号『新潮』に「山河老ゆる」を発表。なお、このあいだ5月に芥川を金沢に迎える[8]。7月、堀辰雄を金沢に迎える[8]。9月詩文集『高麗の花』刊行。

1925年(大正14年)1月金沢より上京し、田端613番地に仮寓する。2月田端608番地に移り、家族を迎える。3月童話集『翡翠』刊行。4月田端523番地に転居。5月初旬、詩話會同人と湯ヶ島方面に遊ぶ[8]。6月初の随筆集『魚眠洞随筆』刊行。この年、堀、中野、窪川鶴次郎西沢隆二、宮木喜久雄、太田辰雄らの若い詩人や栗田三蔵らが来訪。近所に移ってきた萩原と頻繁に往来[8]

1926年(大正15年)4月下旬、詩話會同人と伊豆方面に遊ぶ。中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らによる同人雑誌『驢馬』の創刊を後援する。6月小曲集『野いばら』刊行。9月次男朝巳誕生。10月詩話會解散に当り、声明書に署名。この年、秋本健之の筆名で『日本詩人』などに詩を発表[8]德田秋聲を知る。

1927年昭和2年)1月、この月より『驢馬』同人との「パイプの會」、德田秋聲を囲む「二日會」に出席し始める。5月萩原その他の人々と『昭和詩選』の編集に当たる。6月詩集『故郷圖繪集』、随筆集『庭を造る人』刊行[注釈 25]。12月「詩人協會」設立の発起人となる。この年芭蕉に関する散文を『文藝春秋』、『サンデー毎日』などに発表。この年俳句、短歌の発表多し。

1928年(昭和3年)1月『愛の詩集』第三版刊行。詩人協會創立総会に出席し、評議員となる。3月日本文芸家協會寄託による第2回文藝賞(「渡辺賞」)受賞。4月末養母赤井ハツ死去し、金沢に戻る。5月評論集『芭蕉襍記』刊行[注釈 26]。6月田端の家を引き払い軽井沢で避暑。さらに9月軽井沢より金沢に移る。池田町に仮寓し、山田屋小路に移る。同月、詩集『鶴』刊行[注釈 27]。11月上京し、大森谷中に移る。この年文芸時評、映画時評の発表多し。

1929年(昭和4年)2月随筆集『天馬の脚』刊行[注釈 28]。4月初の句集『魚眠洞發句集』を刊行[注釈 29]。5月帰郷。7月改造文庫で『新選室生犀星集』刊行。9月春陽堂から『芥川龍之介・室生犀星篇』(明治大正文学全集第45巻)刊行。11月第一書房から萩原朔太郎編による『室生犀星詩集』刊行。12月旧『驢馬』同人懇親会。同月、改造文庫『室生犀星詩集』刊行。なお、この年改造8月号「浮気な文明」、文藝春秋9、10月号「私の白い牙」などで近代的手法による表現を試みた。

1930年(昭和5年)5月生田春月自殺。追悼のための合同詩文集『海図』に寄稿。同月短篇集『生ひ立ちの記』刊行。6月詩集『鳥雀集』刊行。9月随筆集『庭と木』刊行。10月改造社から『久保田万太郎・長与善郎・室生犀星集』(現代日本文学全集第44篇)刊行。この年の前後に山崎泰雄、津村信夫、衣巻省三、乾直恵、伊藤新吉、立原道造らを知る[注釈 30]

1931年(昭和6年)6月から8月にかけて『都新聞』に芥川をモデルとした「靑い猿」を連載[注釈 31]。7月軽井沢に別荘建築。

1932年(昭和7年)3月長篇『靑い猿』刊行。4月大森区馬込町東に新築転居。明治大学に講師として招かれるも、講義1回で中止となった。9月随筆集『犀星随筆』刊行。また詩集『鐵集』を刊行し、これを自ら「最後の詩集」と称した。

1933年(昭和8年)2月詩集『十九春詩集』刊行。8月「ハト」を『中央公論』に、「哀猿記」を『改造』に発表。11月随筆集『茱萸の酒』刊行[2]。12月京都放送局で講演放送する[8]

かつて1920年からしばらく小説の第1次の多作期があり、さらに1930年代に入り第2次の多作期となり、

1934年(昭和9年)には、「あにいもうと」を中心にいわゆる「市井鬼もの」を書き始めた。1月「文藝懇話會」設立、会員となる。4月「鶴千代」(のちに「山犬」と改題)を『新潮』に発表。5月「洞庭記」を『中央公論』に発表、『鉛筆詩集』を含む随筆集『文藝林泉』刊行[注釈 32]。7月「醫王山」を『改造』に、「あにいもうと」を『文藝春秋』に発表。『文藝』8月号に「詩よ君とお別れする」を発表し詩との訣別を宣言したが、実際にはその後も多くの詩作を行っている。9月「神かをんなか」を『文藝』に「チンドン世界」を『中央公論』に発表。同月、別版『抒情小曲集』刊行。11月「神々のへど」(のちに「續あにいもうと」と改題)を『文藝春秋』に発表。

1935年(昭和10年)1月短篇集『神々のへど』刊行[注釈 33]。自伝小説「弄獅子」を『早稲田文學』に1月号より6回、「女の圖」を『改造』その他に5回にわたり分載、その他「悪い魂」を『文藝』1月号に、「会社の圖」を『新潮』2月号に、「笄蛭圖」を『文藝春秋』4月号に発表。2月随筆『慈眼山随筆』、短篇集『哀猿記』刊行[2]。3月創設された 旧・芥川賞選考委員となる[注釈 34]。6月評論「復讐の文學」を『改造』に発表し、反響を呼ぶ。同月短篇集『女ノ圖』刊行。同月『犀星發句集』刊行[注釈 35]。7月「あにいもうと」で第1回文藝懇話會賞を受賞。8月23日より「聖處女」を『朝日新聞』に12月25日完結で78回連載。9月『随筆文學 犀星随筆集』刊行。12月長篇『復讐』(「人間街」を改題)刊行。

1936年(昭和11年)1月「文藝懇話會」の機関誌『文藝懇話會』発刊。編集同人に参加。2月長篇『聖處女』[注釈 36]、詩集『十返花』刊行[注釈 37]。「龍宮の掏児」を『文藝春秋』3月号に発表。4月随筆集『薔薇の羹』刊行[注釈 38]。6月純粹小説『弄獅子』刊行。6月随筆集『印刷庭苑』刊行。8月「あにいもうと」が木村荘十二監督、ピー・シー・エル映画製作所製作、東宝配給で映画化され封切。9月非凡閣より『室生犀星全集』刊行開始[注釈 39]。10月「詩歌懇話會」設立。会員となる。

1937年(昭和12年)「女の一生」を紫式部學會出版の「趣味と教養、研究と教養」の雑誌『むらさき』2月号より19回連載する。4月中旬から5月初旬にかけて朝日新聞の依嘱により、満州旅行。大連奉天哈爾濱、朝鮮を経て帰国し、京都に滞在してから帰京。5月『室生犀星篇』(現代長篇小説全集第4巻)刊行。7月より、立原道造が室生邸の軽井沢避暑中の留守を預かり[10]、ここから勤務先に通い始める[11][12]。9月随筆集『駱駝行』刊行。10月10日より長篇「大陸の琴」を61回にわたり『東京朝日新聞』に連載。

1938年(昭和13年)1月新潮文庫より『あにいもうと』刊行。2月『大陸の琴』刊行。「波折」を『中央公論』2月号に発表。5月「詩人懇話會」設立され、会員となる。同月『室生犀星文學讀本・春夏の巻』刊行。7月春陽堂文庫で『犀星短篇集』刊行。9月長篇『女の一生』刊行。同月、自伝小説『作家の手記』刊行[注釈 40]。11月『室生犀星文學讀本・秋冬の巻』刊行。同月新潮文庫から『室生犀星詩選集』刊行。同月、とみ子夫人が脳溢血に倒れる。以後、半ば身体の自由を失う。

1939年(昭和14年)3月短篇集『波折』刊行。また、解散されていた「詩歌懇話會」の基金を引き継いで「詩人賞委員會」が設立され、同月その委員に就任。4月より第1回「詩人賞」授賞をめぐり雑誌『改造』誌上で北原白秋と論争になる。同月作品文庫で随筆集『あやめ文章』刊行。9月から翌年にかけて、讀賣俳壇の選者担当。10月短篇集『つくしこひしの歌』刊行。10月初旬萩原とともに講演のため水戸へ赴く[8]。10月から12月にかけて、「よきひと」14回を『週刊朝日』に連載。

1940年(昭和15年)3月長篇『よきひと』刊行。5月短篇集『乳房哀記』刊行。6月短篇集『美しからざれば哀しからんに』刊行。9月随筆集『此君』刊行。12月短篇集『戰死』刊行。『婦人之友』11月号に初の王朝小説「荻吹く歌」を発表。

1941年(昭和16年)『婦人之友』1月号に「遠つ江」を発表。3月短篇集『信濃の歌』刊行。4月『戰死』により第3回菊池寛賞受賞。同月長篇『戰へる女』刊行。『新女苑』5月号から「泥雀の歌」を10回連載。7月短篇集『蝶・故山』刊行。8月随筆集『花霙』刊行[注釈 41]。9月短篇集『王朝』刊行[注釈 42]。12月短篇集『甚吉記』刊行[注釈 43]。同月「哈爾浜詩選」を含む自選作品集『定本室生犀星詩集』刊行。12月胃痛を覚える[2]

抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや」の詩句が有名である。この句の通り、文壇に盛名を得た1941年が最後の帰郷となり、以後は代わりに犀川の写真を貼って故郷を偲んでいたという。

1942年(昭和17年)「えにしあらば」を『中央公論』3月号に発表。4月、胃潰瘍のため本所横網同愛病院に20日あまり入院。4月童話集『鮎吉・船吉・春吉』刊行[注釈 44]。5月11日、萩原朔太郎死去。同月自伝小説『泥雀の歌』刊行[注釈 45]。6月より『萩原朔太郎全集』編集。6月短篇集『筑紫日記』刊行。同月短篇集『蟲寺抄』刊行[注釈 46]。7月短篇集『乙女抄』刊行[注釈 47]。夏の間、萩原朔太郎、佐藤惣之助の2人の亡友を追悼する長篇「我友」を執筆。12月短篇集『瞼のひと』刊行[注釈 48]。同月随筆集『殘雪』刊行[注釈 49]

1943年(昭和18年)1月短篇集『木洩日』刊行。童話集『三吉物語』、『山の動物』刊行[注釈 50]。3月短篇集『萩の帖』刊行[注釈 51]。同月『佐藤惣之助全集』全2巻を編集。4月および7月に『芥川龍之介の人と作』上巻、下巻を刊行。6月随筆集『日本の庭』刊行[注釈 52]。7月詩集『美以久佐』[注釈 53]、長篇『我友』(のちに『名木』と改題)刊行[注釈 54]。8月詩集『いにしへ』刊行。同月『犀星発句集』刊行[注釈 55]。9月少年向け詩集『動物詩集』刊行。12月詩集『日本美論』(のちに『夕映梅花』と改題)刊行。同月短篇集『神國』刊行。

1944年(昭和19年)3月から4月にかけて『中部日日新聞』に「山吹」38回を連載。3月小説集『餘花』刊行[注釈 56]。一家で軽井沢に疎開し、1949年(昭和24年)まで住む。

1945年(昭和20年)7月次男朝巳が金沢第九師団に入隊。8月終戦。9月次男除隊帰宅。10月長篇『山吹』刊行。

戦後は小説家としてその地位を確立、多くの作品を生んだ。

1946年(昭和21年)1月『人間』創刊号に詩を発表。同月随筆集『信濃山中』刊行。2月『山ざと集』刊行。8月『童話三吉ものがたり 附動物詩集』刊行[注釈 57]。この年、さらに『潮流』、『別冊文藝春秋』、『東京新聞』、『光』、『婦人公論』、『高原』、『蝋人形』、『子供の広場』などに詩を発表。また『文藝春秋』、『新小説』、『新女苑』、『群像』、『新生』などに小説を発表。

1947年(昭和22年)1月短篇集『玉章』刊行。『新女苑』1月号より「みえ」を12回連載。2月詩集『旅びと』刊行。3月短篇集『山鳥集』刊行。10月短篇集『世界』刊行。同月詩集『逢ひぬれば』刊行。『群像』10月号に「祭服」を発表。

1948年(昭和23年)3月童話集『オランダとけいとが』刊行。4月長篇『みえ』刊行。同月短篇集『童女菩薩』刊行。5月アテネ文庫より自伝小説『童笛を吹けども』刊行。6月4日「唇もさびしく」(のちに「宿なしまり子」と改題)を『北海道新聞』、『西日本新聞』に70回連載。10月短篇集『氷った女』刊行。11月日本藝術院会員となる。同月童話集『五つの城』刊行。同月長女朝子結婚。

1949年(昭和24年)9月軽井沢での疎開生活を終えて帰京し、再度大森馬込に住む。6月自伝小説『室生犀星』刊行。8月随筆集『泥孔雀』刊行。また「消えたひとみ」を『群像』8月号に発表。

1950年(昭和25年)「奥医王」を『風雪』4月号に、「俗調『膝』悲曲」を『文學界』5月号に、「刀身」を『群像』7月号に発表。

1951年(昭和26年)「餓人伝」を『文學界』3月号に発表。8月『萩原朔太郎全集』刊行に際し、編集企画を担当する。「誰が屋根の下」を『改造』9月号に発表。9月新潮文庫『室生犀星詩集』刊行。

1952年(昭和27年)2月、水谷八重子らにより『あにいもうと』が大阪歌舞伎座で上演される。「黒髪の宿」を『中央公論』5月号に、「野に臥す者」を『小説公園』12月号に発表。

1953年(昭和28年)1月長女、夫と別居し室生家に戻る。「お天気博士」を『群像』1月号に、「貝殻川」を『文學界』4月号に、「生涯の垣根」を『新潮』8月号に発表。

1954年(昭和29年)1月川島胃腸病院に1ケ月以上入院。退院後、自宅にて静養。「鞄(ボストン・バッグ)」を『新潮』1月号に発表。入院生活に取材した「黄と灰色の問答」を『群像』4月号に発表。5月に『性に眼覚める頃』が『麥笛』と改題されて豊田四郎監督東宝配給にて映画化される。「蝶紋白」を『文藝』6月号に発表。同月、角川書店『昭和文学全集 佐藤春夫・室生犀星集』刊行。「妙齢失はず」を『婦人朝日』8月号より17回連載。12月夫と別居中であった長女、協議離婚のうえ室生家に復籍。

1955年(昭和30年)随筆「女ひと」を『新潮』1月号より6回連載。2月短篇集『黒髪の書』刊行。「ワシリイの死と二十人の少女達」を『文藝』7月号に発表。8月筑摩書房から『現代日本文学全集第27巻 菊池寛・室生犀星集』刊行。10月随筆集『女ひと』刊行。「めたん子傳」を『文學界』10月号に発表。「横着の苦痛」を『文藝』10月号に発表。

1956年(昭和31年)1月短篇集『少女野面』刊行。「舌を噛み切った女」を『新潮』1月号に発表。2月短篇集『舌を噛み切った女』刊行。3月長篇『妙齢失はず』刊行。同月随筆集『續女ひと』刊行。「三人の女」を『週刊新潮』5月1日号より15回連載。5月、『舌を噛み切った女』が菊五郎劇団により歌舞伎座で上演される。9月長篇『三人の女』刊行。10月随筆集『誰が屋根の下』刊行。「陶古の女人」を『群像』10月号に発表。「鴉」を『婦人朝日』11月号に発表。11月19日から「杏っ子」271回を『東京新聞』に連載[注釈 58]。12月短篇集『陶古の女人』刊行。

1957年(昭和32年)「夕映えの男」を『婦人公論』1月号に発表。「つゆくさ」を『文藝春秋』6月号に発表。6月短篇集『夕映えの男』刊行。7月詩集『哈爾浜詩集』刊行。「遠めがねの春」を『新潮』8月号に発表。10月長篇『杏っ子』を刊行。「名もなき女」を『小説新潮』11月号に発表[2]

娘朝子をモデルとした半自叙伝的な長編『杏っ子』その他の業績により、

1958年(昭和33年)1月に昭和32年度第9回読売文学賞を受賞。「わが愛する詩人の伝記」を『婦人公論』1月号より12回連載。2月随筆集『刈藻』刊行。3月短篇集『つゆくさ』刊行。「黄色い船」を『中央公論』5月号に発表。5月『杏っ子』が成瀬巳喜男監督、東宝配給で映画化。「二十歳の燦爛」を『別冊小説新潮』7月号に発表。「かげろふの日記遺文」を『婦人之友』7月号より13回連載。9月『山吹』が菊五郎劇団により歌舞伎座で上演される。「歯の生涯」を『それいゆ』10月号に発表。11月から新潮社『室生犀星作品集』を全12巻で刊行開始[注釈 59]。12月『我が愛する詩人の伝記』(なお、佐藤惣之助の遺族の抗議により該当項目削除)刊行[2]

1959年(昭和34年)「蜜のあはれ」を『新潮』1月号より4回連載。「生きるための橋」を『群像』1月号に発表。3月次男朝巳結婚。同月定本自筆本句集『遠野集』刊行。「借金の神秘」を『小説新潮』4月号に発表。5月短篇集『生きるための橋』刊行。同月随筆集『硝子の女』刊行。同月『平安遷都』(河出書房現代人の日本史第4巻)刊行。同月古稀にあたって日本文芸家協会より祝辞、記念品を贈られ、名誉会員となる。その詩業に対して現代詩人会より感謝状と記念品とを贈られる。「衢のながれ」を『中央公論』6月号に発表。「なやめる森」を『新潮』8月号に発表。8月詩集『昨日いらっしって下さい』刊行。「火の魚」を『群像』10月号に発表。10月長篇『蜜のあはれ』刊行。10月18日妻とみ子死去。前年1957年12月刊行の評論『わが愛する詩人の伝記』で11月に第13回毎日出版文化賞を受賞。同年11月に刊行された、古典を基にした長篇『かげろふの日記遺文』により、同年12月、第12回野間文芸賞を受賞した。なお、同賞祝賀会の席上で、この賞金を基にした室生犀星詩人賞の創設、「犀星文学碑」の建立[注釈 60]、『室生とみ子遺稿句集』の刊行の企画が発表され[注釈 61]、このうち詩人賞は翌1960年(昭和35年)年12月に第1回授賞が滝口雅子『青い馬』、『鋼鉄の足』に対して行われた[2]

1960年(昭和35年)「黄金の針」を『婦人公論』1月号より12回連載。「告ぐるうた」を『群像』1月号より6回連載。3月短篇集『火の魚』刊行。同月、『かげろふの日記遺文』菊五郎劇団により歌舞伎座で上演される。「字をぬすむ男」を『小説新潮』4月号に発表。5月、旧「驢馬」同人を中心に「驢馬の会」が生れて第1回の集いあり[注釈 62]。7月長篇『告ぐるうた』刊行。「怒れる三本の鉤(のちに「三本の鉤」と改題)を『新潮』9月号に発表。9月随筆集『生きたきものを』刊行。「我が草の記」を『群像』10月号に発表。10月『新潮社日本文学全集第24巻 室生犀星集』刊行。「帆の世界」を『小説新潮』12月号に発表。12月短篇集『二面の人』刊行。

1961年(昭和36年)1月「タールの沼」を『新潮』1月号に、4月『黄金の針』刊行。「簪マチ子」を『別冊文藝春秋』6月号に発表。「渚」を『群像』7月号に発表。「はるあはれ」を『新潮』7月号に発表。7月短篇集『草・簪・沼』刊行。夏、軽井沢にあって身体不調。9月肺炎で臥床する。「末野女」を『小説新潮』9月号に発表。10月港区虎の門病院に検査入院。11月退院。同月、「私の履歴書」を『日本経済新聞』に掲載。同月『講談社日本現代文学全集第61巻 室生犀星集』刊行。12月第2回「室生犀星詩人賞」を富岡多恵子辻井喬に贈る[2]

1962年(昭和37年)、「明治の思ひ」を『小説新潮』1月号に発表。「われはうたへどやぶれかぶれ」を『新潮』2月号に発表。2月小説『はるあはれ』刊行。2月25日に書かれ『婦人之友』4月号に掲載された「老いたるえびのうた」が絶筆となる。3月1日虎の門病院入院[注釈 63]。19日より意識不明。肺癌のため虎の門病院で死去。従四位に叙せられ勲三等瑞宝章を贈られる。28日密葬、29日青山葬儀場にて無宗教による葬儀[13]。葬儀委員長中野重治[14][2]

1962年(昭和37年)5月金沢市中川除町に文学碑建立。10月18日、金沢郊外の野田山墓地に埋葬された[8]。「犀星忌」は3月26日。生前刊行された単行本は、260冊に及ぶ[15]犀川大橋から桜橋までの両岸の道路は「犀星のみち」と呼ばれる。

全集

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  • 室生犀星全集 (全13巻別巻1 非凡閣 1936年-1937年)
  • 室生犀星作品集 (全12巻 新潮社 1958年-1960年)
  • 室生犀星全集 (全12巻・別巻2 新潮社 1964-68年)
  • 室生犀星未刊行作品集(全6巻 三弥井書店 1986-90年)
  • 室生犀星童話全集 (全3巻 創林社 1978年)
  • 詩歌は「全詩集」が筑摩書房(限定版と普及版で全1巻、1962年)と、冬樹社(全3巻、1978年)で出版。
  • 室生犀星全王朝物語(上下巻、作品社、1982年)
  • 室生犀星句集 魚眼洞全句(北国出版社、1977年)
    いずれも娘・室生朝子編、いくつかの「詩集」を編み「晩年の父犀星」をはじめ多数の関連著作を刊行した。

作品

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室生犀星の像(金沢市)
室生犀星記念館(金沢市)

詩集

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  • 『愛の詩集 第一詩集』感情詩社、1918年 のち角川文庫
  • 『抒情小曲集 第2詩集』感情詩社、1918年
  • 『第二愛の詩集 第四詩集』文武堂書店、1919年
  • 『寂しき都会』聚英閣、1920年
  • 『星より来れる者』大鐙閣、1922年
  • 『田舎の花』新潮社、1922年
  • 『忘春詩集』京文社、1922年
  • 『青き魚を釣る人 抒情小曲』アルス、1923年
  • 『高麗の花 詩文集』新潮社、1924年
  • 『故郷圖繪集』椎の木社、1927年
  • 『鶴』素人社書店、1928年
  • 『魚眠洞発句集』武蔵野書院、1929年
  • 『鳥雀集 拾遺抒情詩』第一書房、1930年
  • 『鐵(くろがね)集』椎の木社、1932年
  • 『十九春詩集』椎の木社、1933年
  • 『犀星発句集』野田書房 1935年
  • 『十返花 詩歌集』新陽社 1936年
  • 『泥雀の歌』実業之日本社 1942年
  • 鉛筆詩集(単行本なし)
  • 『美以久佐(みいくさ)』千歳書房、1943年
  • 『詩集 いにしへ』一條書房、1943年
  • 『動物詩集』日本繪雑誌社、1943年
  • 『日本美論』昭森社、1943年 - 戦後に『夕映梅花』と改題され再刊
  • 『山ざと集』生活社、1946年
  • 『信濃山中』全国書房、1946年
  • 『旅びと』臼井書房、1947年
  • 『逢ひぬれば』富岳本社 1947
  • 『室生犀星詩集』自選 岩波文庫、1955年 他に新潮文庫・ハルキ文庫で刊
  • 『哈爾濵詩集』冬至書房 1957年
  • 『遠野集 定本犀星句集』五月書房 1959年
  • 『女ご(をみなご)のための最後の詩集』(単行本なし、『続女ひと』所収)
  • 『昨日いらつしつて下さい』五月書房 1959年(『女ごのための最後の詩集』での増補作)
  • 『晩年』(『昨日いらつしつて下さい』以降の作品群。単行本未収録。筑摩版『室生犀星全詩集』に収録)
  • 『室生犀星全詩集』筑摩書房 1962年

小説

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  • 『或る少女の死まで』1919年
  • 『結婚者の手記 あるひは「宇宙の一部」』新潮社、1920年
  • 性に眼覚める頃』新潮社、1920年 のち角川文庫、新潮文庫
  • 『蒼白き巣窟』新潮社、1920年
  • 『鯉』春陽堂、1921年
  • 『古き毒草園』隆文館、1921年
  • 『蝙蝠』隆文館、1921年
  • 『香炉を盗む』隆文館、1921年
  • 『美しき氷河』新潮社、1921年
  • 幼年時代』金星堂、1922年 のち旺文社文庫
  • 『走馬灯』新潮社、1922年
  • 『万花鏡』京文社、1923年
  • 『肉の記録』文化社 1924年
  • 『翡翠』寳文館、1925年
  • 『青い猿』春陽堂、1932年
  • 『神々のへど』山本書店、1935年 - 普及再版で改題『兄いもうと』(「あにいもうと」が映画・ドラマ化)
  • 『女ノ図』竹村書房、1935年
  • 『哀猿記』民族社、1935年
  • 『弄獅子』有光社(純粋小説全集 第8巻)、1936年
  • 『聖処女』新潮社 1936年 のち角川文庫
  • 『女の一生』むらさき出版部、1938年
  • 『大陸の琴』新潮社、1938年
  • 『つくしこひしの歌』実業之日本社、1939年
  • 『波折』(小説集)竹村書房、1939年
  • 『乳房哀記』鱒書房、1940年
  • 『戦死』(小説集)小山書店、1940年
  • 『王朝』実業之日本社、1941年
  • 『戦へる女』明石書房、1941年
  • 『蝶・故山』桜井書店、1941年
  • 『甚吉記』愛宕書房、1941年
  • 『鮎吉船吉春吉』小学館、1942年
  • 『瞼のひと』偕成社、1942年
  • 『蟲寺抄』博文館、1942年
  • 『乙女抄』偕成社、1942年
  • 『筑紫日記』小学館、1942年
  • 『山の動物』(童話)小学館、1943年
  • 『萩の帖』全国書房、1943年
  • 『木洩日』六芸社、1943年
  • 『神国』全国書房、1943年
  • 『我友』博文館、1943年
  • 『余花』昭南書房、1944年
  • 『三吉ものがたり』新洋社、1946年
  • 『山の動物』小学館、1946年
  • 『作家の手記』養徳社、1946年
  • 『信濃の歌』清水書房、1946年
  • 『女の図』大日本雄弁会講談社、1947年
  • 『世界』(小説集)東京出版、1947年
  • 『玉章』共立書房、1947年
  • 『山鳥集』桜井書店、1947年
  • 『オランダとけいとが』(童話集)小学館、1948年
  • 『五つの城』東西社、1948年
  • 『みえ』実業之日本社、1948年
  • 『童笛を吹けども』弘文堂書房、1948年
  • 『童女菩薩』酣灯社、1948年
  • 『狩衣』玄文社、1948年
  • 『氷った女』クラルテ社、1948年
  • 『或る少女の死まで』岩波文庫、1952年
  • 『あにいもうと・山吹』角川文庫、1953年
  • 『黒髪の書 犀星近作集』新潮社、1955年
  • 『幼年時代・あにいもうと』新潮文庫、1955年
  • 『妙齢失はず』新潮社、1956年
  • 『三人の女』新潮社、1956年
  • 『陶古の女人』三笠書房、1956年
  • 『舌を噛み切った女』河出新書、1956年 のち新潮文庫
  • 『少女の野面』鱒書房(コバルト新書)、1956年
  • 杏つ子』新潮社、1957年 のち文庫
  • 『夕映えの男』大日本雄弁会講談社、1957年
  • 『つゆくさ』筑摩書房、1958年
  • 『生きるための橋』実業之日本社、1959年
  • 蜜のあはれ』新潮社、1959年
  • 『かげろふの日記遺文』講談社、1959年 のち角川文庫
  • 火の魚』中央公論社、1960年 - 『蜜のあはれ』を装丁した栃折久美子をモデルとした小説[16]
  • 『告ぐるうた』講談社、1960年
  • 『二面の人』雪華社、1960年
  • 『草・簪・沼 小説集』新潮社、1961年
  • 『古事記物語』小学館(少年少女世界名作文学全集)、1962年
  • 『はるあはれ』中央公論社、1962年
  • 『宿なしまり子』角川書店、1962年
  • 『われはうたへどもやぶれかぶれ』講談社、1962年

評論・随筆

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  • 『新らしい詩とその作り方』文武堂書店、1918年
  • 『魚眠洞随筆』新樹社、1925年
  • 『庭を造る人』改造社、1927年
  • 『天馬の脚』改造社、1929年
  • 『庭と木』武蔵野書院、1930年
  • 『茱萸の酒』(随筆集)岡倉書房、1933年
  • 『文芸林泉』(随筆集)中央公論社、1934年
  • 『慈眼山随筆』竹村書房、1935年
  • 『復讐』竹村書房、1935年
  • 『随筆文学 犀星随筆集』三笠書房、1935年
  • 『印刷庭苑 犀星随筆集』竹村書房、1936年
  • 『薔薇の羹』改造社、1936年
  • 『駱駝行』(随筆集)竹村書房、1937年
  • 『作家の手記』河出書房、1938年
  • 『あやめ文章』作品社、1939年
  • 『一日も此君なかるべからず 室生犀星随筆集』人文書院、1940年
  • 『花霙』豊国社、1941年
  • 『芭蕉襍記』三笠書房、1942年
  • 『残雪』竹村書房、1942年
  • 『日本の庭』朝日新聞社、1943年
  • 『乳房哀記』コバルト社、1946年
  • 『信濃山中』全国書房、1946年
  • 『残雪』清水書房、1946年
  • 『泥孔雀 随筆』沙羅書房、1949年
  • 『随筆 女ひと』新潮社、1955年、のち文庫、岩波文庫
  • 『続随筆 女ひと』新潮社、1956年、のち文庫
  • 『誰が屋根の下』(随筆)村山書店、1956年
  • 『李朝夫人』村山書店、1957年
  • 『我が愛する詩人の伝記』中央公論社、1958年、新編2021年[17]、のち角川文庫、新潮文庫、中公文庫
    • 『中央公論』で連載中に佐藤惣之助の遺族から抗議があり、佐藤の章は未収録。
  • 『刈藻』清和書院、1958年
  • 『現代人の日本史 平安遷都』河出書房新社、1959年
  • 『硝子の女』(随筆)新潮社、1959年
  • 『室生犀星集』日本書房(現代知性全集)、1960年
  • 『翡陶』有信堂、1960年
  • 『生きたきものを』中央公論社、1960年
  • 『黄金の針 女流評伝』中央公論社、1961年
  • 『四角い卵』(随筆)新潮社、1962年
  • 『好色』筑摩書房、1962年
  • 『憑かれたひと 二つの自伝』冬樹社、1972年

文庫・新編版

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  • 『犀星王朝小品集』岩波文庫、1984年
  • 『かげろうの日記遺文』講談社文芸文庫、1992年、改版2012年
  • 『蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ』講談社文芸文庫、1993年
  • 『加賀金沢・故郷を辞す』講談社文芸文庫、1993年
  • 『あにいもうと・詩人の別れ』講談社文芸文庫、1994年
  • 『抒情小曲集・愛の詩集』講談社文芸文庫、1995年
  • 『或る少女の死まで 他二篇』岩波文庫 改版2003年
  • 『室生犀星集 童子』東雅夫編、ちくま文庫・文豪怪談傑作選 2008年
  • 『哈爾浜詩集・大陸の琴』講談社文芸文庫 2009年
  • 『庭をつくる人』ウェッジ(文庫判)、2009年
  • 『天馬の脚』ウェッジ(文庫判)、2010年
  • 『深夜の人・結婚者の手記』講談社文芸文庫 2012年
  • 蜻蛉日記 現代語訳』岩波現代文庫 2013年 - 元版は河出書房『王朝日記随筆集』ほかに収録
  • 『わが肌に魚まつわれり―室生犀星百詩選』宮帯出版社 新書 2016年
  • 『我が愛する詩人の伝記』講談社文芸文庫、2016年
  • 『室生犀星俳句集』岸本尚毅編、岩波文庫、2022年

校歌作詞

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交友

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派生関連本

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脚注

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注釈

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  1. ^ 「室生」の歴史的仮名遣いによる表記は「むろふ」である。1986年内閣告示の「現代仮名遣い」では、「歴史的仮名遣いでオ列の仮名に「ほ」または「を」が続くものはオ列の仮名に「お」を添えて書く」としており、「むろふ」はこれに該当しないので、「現代仮名遣い」の原則にしたがえば表記は「むろう」となる。
  2. ^ 吉種は、加賀藩で百五十石扶持の足軽組頭をつとめ、廃藩後は剣術道場を開いた。
  3. ^ 学業成績不良が原因。奥野健男「青き魚―室生犀星の詩的故郷―」『日本文学研究資料叢書 近代詩』有精堂出版、1984年 p.95
  4. ^ 勤め始めは月給一円五十銭。福永武彦「室生犀星伝」『現代日本文学館21 佐藤春夫・室生犀星』文藝春秋、1968年 pp.237-252
  5. ^ 検事局の監督書紀。奥野健男「青き魚―室生犀星の詩的故郷―」『日本文学研究資料叢書 近代詩』有精堂出版、1984年 p.101
  6. ^ 能筆の俳人の監督書紀。奥野健男「青き魚―室生犀星の詩的故郷―」『日本文学研究資料叢書 近代詩』有精堂出版、1984年 p.101
  7. ^ 北聲會という俳句の月例会に参加した。奥野健男「青き魚―室生犀星の詩的故郷―」『日本文学研究資料叢書 近代詩』有精堂出版、1984年 p.103
  8. ^ ホトトギス派の句人でもあった。奥野健男「青き魚―室生犀星の詩的故郷―」『日本文学研究資料叢書 近代詩』有精堂出版、1984年 p.103
  9. ^ 相場新聞であったものを室生は文芸新聞にしてしまい、社長に譴責された。福永武彦「室生犀星伝」『現代日本文学館21 佐藤春夫・室生犀星』文藝春秋、1968年 pp.237-252
  10. ^ 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で知られる「小景異情」は第5号掲載作品。
  11. ^ 卑猥語をローマ字表記した詩語を用いたのを当局に知られた。
  12. ^ 1919年(大正8年)11月までに計32号刊行した。
  13. ^ 高村光太郎、山村暮鳥、加藤介春、三木露風、福士幸次郎、日夏耿之介、白鳥省吾富田砕花、室生の9名。
  14. ^ 刊行後の2月21日、内務省から、納本された『月に吠える』の発行者を呼び出す通知があり、室生が出頭。収録詩のうち「愛憐」を削除すること、そのまま書店配布すれば発売禁止にするという「厳しい命令でもあり、比較的同情ある注意(前田夕暮)」がある。製本の遅れで流通前であったため、「愛憐」とそれに続く「恋に恋する人」を削除し、断り書きをつけて店頭に出した。
  15. ^ 金沢で小学校教師をしていた。歌や俳句をつくり、かねてから文通があった。福永武彦「室生犀星伝」『現代日本文学館21 佐藤春夫・室生犀星』文藝春秋、1968年 pp.237-252
  16. ^ 亡父への献呈。
  17. ^ 三田文學』誌上で野口米次郎による丁寧な批評と紹介を受ける。室生犀星『庭を造る人』改造社、1927年 pp.209-210
  18. ^ 北原白秋、萩原朔太郎、田邊孝次による序文あり。
  19. ^ 同年「幼年時代」の原稿を『中央公論』編集長滝田樗陰あて送付したところ、滝田の来訪あり。『中央公論』8月号に「幼年時代」、10月号に「性に眼覚める頃」、11月号に「或る少女の死まで」が掲載され、小説家として有名になった。
  20. ^ 恩地孝四郎による装幀。
  21. ^ 瀧田哲太郎への献呈。
  22. ^ 恩地孝四郎による装幀。
  23. ^ 恩地孝四郎による装画。
  24. ^ 北原白秋への献呈。
  25. ^ 岸田劉生による装幀。
  26. ^ 藤井紫影による序文。下島勳による表紙題簽。室生自身による装幀考案。
  27. ^ 福士幸次郎による序文。恩地孝四郎による装幀。
  28. ^ 下島空谷による題簽。室生自身による装幀。
  29. ^ 下島勳による題簽。室生自身による装幀。
  30. ^ 立原は、昭和10年代の或る日、室生の詩集について、『抒情小曲集』を採るか、『愛の詩集』を採るか、そのどちらを採るかで、その人間の文学は決定されるのだ、と中村真一郎に語り、自分は断乎として『愛の詩集』を採ると述べた。中村真一郎「詩人の肖像」『日本の詩歌15 室生犀星』中公文庫、1975年 p.405
  31. ^ 恩地孝四郎による題簽・挿繪、室生自身による中扉。
  32. ^ 室生自身による装幀。
  33. ^ これはのち9月に『兄いもうと』と改題し普及版刊行。
  34. ^ 1942年(昭和17年)まで続けた。
  35. ^ 下島勳による題簽。室生自身による装幀。
  36. ^ 恩地孝四郎による装幀、挿畫。
  37. ^ 10歳の子供による題簽。室生自身による装幀。
  38. ^ 11歳の子供による題簽。室生自身による装幀。
  39. ^ 全14巻。1937年10月完結。
  40. ^ 山﨑斌による装幀。畦地梅太郎による文刻。
  41. ^ 室生自身による装幀。
  42. ^ 折口信夫による序文「王朝語」。下島勳による題簽。室生自身による装幀。
  43. ^ 下嶋勲による題簽。
  44. ^ 恩地孝四郎による装幀。大石哲路による挿畫。
  45. ^ 室生自身による装幀。
  46. ^ 室生自身による装幀。
  47. ^ 室生自身による装幀。
  48. ^ 室生自身による装幀。
  49. ^ 室生自身による装幀。
  50. ^ 立野道正、大石哲路による挿絵。
  51. ^ 室生自身による装幀。
  52. ^ 巻末「著者紹介」に日本文學報國會會員と表示。
  53. ^ 室生自身による装幀。
  54. ^ 恩地孝四郎による題字。
  55. ^ 室生自身による装幀。
  56. ^ 室生自身による装幀。
  57. ^ 恩地孝四郎装幀・扉・カット。靑木淸による挿絵。
  58. ^ 翌1957年(昭和32年)8月18日まで。
  59. ^ 1960年(昭和35年)5月に完結。
  60. ^ 1960年(昭和35年)6月に軽井沢二手橋畔に用地選定、1961年(昭和36年)7月に「切なき思ひぞ知る」の詩を刻した詩碑が完成。なお、妻の一周忌にちなみ「昭和三十五年十月十八日」の日附が刻まれた。
  61. ^ 1960年(昭和35年)3月『とみ子發句集』が刊行され知人に贈られた。
  62. ^ 佐多稲子、西沢隆二、宮木喜久雄、窪川鶴次郎、伊藤新吉、中野重治、原泉、室生犀星、室生朝子ら。中村真一郎「詩人の肖像」添付写真解説『日本の詩歌15 室生犀星』中公文庫、1975年 p.407
  63. ^ 見舞客のうち、福永武彦は面談して、辞去する際次にどこにいくつもりなのか、室生が気にしている有様だったが、中村真一郎は、「男なんかに会ってもしようがない。」と室生が娘に言ったため、ついに入室できなかった。福永武彦「室生犀星伝」『現代日本文学館21 佐藤春夫・室生犀星』文藝春秋、1968年 pp.237-252、中村真一郎「詩人の肖像」『日本の詩歌15 室生犀星』中公文庫、1975年 pp.396-411

出典

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  1. ^ アーカイブされたコピー”. 2014年8月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年11月4日閲覧。富山新聞、2010年8月5日
  2. ^ a b c d e f g h i j 吉田精一「室生犀星年譜」『現代日本文学館21 佐藤春夫・室生犀星』文藝春秋、1968年 pp.455-480
  3. ^ ひっぷ。封建制度下において使われた言葉で、教養がなく、身分の低い女の意味。
  4. ^ 金沢市立小将町中学校 旧ホームページ(2010年8月13日アーカイブ) - 国立国会図書館Web Archiving Project 「学校紹介」中の「本校母体の沿革」付記を参照。"明治33年4月から同35年5月まで室生犀星が本校に在学している"
  5. ^ 奥野健男「青き魚―室生犀星の詩的故郷―」『日本文学研究資料叢書 近代詩』有精堂出版、1984年 p.95
  6. ^ 犀星ゆかりの寺損壊、保全困難 金石の海月寺、建て替え検討”. 北國新聞. 2024年2月10日閲覧。
  7. ^ 「室生犀星の「本名」と「号」の読み方と、犀星の随筆『夏の夕』の読み方を知りたい。」(白山市立松任図書館) - レファレンス協同データベース(2018年3月1日閲覧)
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 伊藤信吉「年譜」『日本の詩歌15 室生犀星』中公文庫、1975年 pp.412-415
  9. ^ a b 室生犀星 - 『デジタル版日本人名大辞典Plus』講談社コトバンク
  10. ^ 小川和佑「立原道造年譜」『現代詩読本 立原道造』思潮社、1978年 p.238
  11. ^ 小山正孝「年譜 立原道造」『日本の詩歌24 丸山薫、田中冬二、立原道造、田中克己、蔵原伸二郎』中央公論社、1968年 pp.421-422
  12. ^ 「立原道造年譜」『日本詩人全集28 伊東静雄、立原道造、丸山薰』新潮社、1968年 pp.223-224
  13. ^ 福永武彦「室生犀星伝」『現代日本文学館21 佐藤春夫・室生犀星』文藝春秋、1968年 pp.237-252
  14. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)p.326
  15. ^ 奥野健男「室生犀星の文学 ―評価の方法―」『日本文学研究資料叢書 近代詩』有精堂出版、1984年 p.76
  16. ^ 番組エピソード 文豪の世界への誘い 〜大作家の作品のドラマ化〜 -NHKアーカイブス
  17. ^ 「婦人公論」同時連載時のエッセイ、濱谷浩による約100点のグラビア写真も収録

関連項目

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外部リンク

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