安部真知
安部 真知 あべ まち | |
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生誕 |
山田 真知子 1926年8月26日 日本 大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市) |
死没 |
1993年9月24日 (67歳没) 日本 東京都調布市 |
教育 |
大分県立高田高等女学校卒業 女子美術専門学校日本画部師範科卒業 |
著名な実績 | 舞台芸術 |
配偶者 | 安部公房 |
子供 | 安部ねり |
受賞 |
第4回紀伊國屋演劇賞(1969年) 第5回伊藤熹朔賞(1972年) 第27回芸術祭賞演劇部門優秀賞(1972年) |
活動期間 | 1958年 - 1990年 |
安部 真知(あべ まち、1926年〈大正15年〉8月26日[1][2] - 1993年〈平成5年〉9月24日[3][4][注釈 1])は、日本の舞台美術家[3]。夫は作家の安部公房[3]。旧姓は山田、本名は真知子[2]。大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)出身。
生涯
[編集]1926年(大正15年)8月26日、大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)の廻船問屋・山田清とノブの間に生まれる[1]。1944年(昭和19年)、大分県立高田高等女学校(現・大分県立高田高等学校)卒業[5]。6人兄姉の5番目の次女であったが、兄弟のうちただひとり、母のとりなしにより東京に進学する[1]。
1947年(昭和22年)、女子美術専門学校日本画部師範科(現・女子美術大学)を卒業。その後、安部公房と出会い、同居を始める[5][2]。1958年(昭和33年)に「幽霊はここにいる」の装置担当を務めたのをきっかけに[2]、舞台美術家として活躍し、「棒になった男」を始め安部公房の作品を数多く手がけた[3]。また、安部の著作の装幀や挿絵も行った[5]。1993年(平成5年)9月24日の午前11時ごろ、急性心筋梗塞により、東京都調布市の自宅で死去した[5][6]。
舞台美術の仕事
[編集]- 1958年 劇団俳優座「幽霊はここにいる」[7]、劇団舞芸座「泥棒論語」
- 1960年 劇団俳優座「巨人伝説」
- 1965年 劇団俳優座「おまえにも罪がある」
- 1967年 劇団青年座「友達」、合同公演「奇想天外神聖喜歌劇」
- 1968年 劇団俳優座「タンゴ」[8]
- 1969年 劇団俳優座「御意のままに」[9]「狂人なおもて往生をとぐ」[10]、紀伊國屋演劇公演「棒になった男」
- 1970年 劇団文学座「花の館」
- 1971年 劇団民藝「神の代理人」、劇団文学座「十二夜」、劇団俳優座「オセロ」[11]「未必の故意」
- 1972年 劇団俳優座「リア王」[12]「管理人」[13]
- 1974年 劇団俳優座「三人姉妹」「かもめ」
- 1975年 劇団俳優座「帰郷」
- 1977年 演劇集団円「尺には尺を」
- 1978年 新劇団協議会「ペール・ギュント」
- 1980年 演劇集団円「まちがいつづき」、劇団俳優座「背信」
- 1981年 劇団俳優座「桜の園」、劇団民藝「廃屋のパーティ」
- 1982年 博品館劇場「キャバレー」、演劇集団円「ヴォルポーネまたの名を狐」
- 1983年 劇団俳優座「メアリ・スチュアート」[14]、劇団民藝「こわれがめ」
- 1984年 劇団俳優座「おまえにも罪がある」「貴族の階段」
- 1985年 劇団民藝「こんな筈では…」
- 1986年 劇団民藝「転落の後に」
- 1987年 セゾン劇場「朱雀家の滅亡」
- 1990年 劇団民藝「どん底」
受賞歴
[編集]- 1969年、劇団俳優座公演「狂人なおもて往生をとぐ」と、紀伊國屋演劇公演「棒になった男」の装置で紀伊國屋演劇賞受賞[15]。
- 1972年、「オセロ」「未必の故意」他で第5回伊藤熹朔賞受賞[5][16]。
- 1972年、劇団俳優座公演「リア王」の舞台装置で、昭和47年度(第27回)芸術祭賞演劇部門優秀賞受賞[17][18]。
人物
[編集]画像外部リンク | |
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平凡社『安部公房 21世紀文学の基軸』2024年刊 より | |
美術家・安部真知(pp.220-221) 平凡社 "生誕100年安部公房 21世紀文学の基軸" 書籍紹介ページ |
安部真知と公房は1960年の同じ日に運転免許を取得し、大晦日から九州へ10日間のドライブへでかけた[19]。以来二人は運転に関してライバル意識をもやしていた[20]。原稿を深夜に届けるのは真知の役目だった[19]。また公房が外で飲酒する機会には、真知が運転手としてついていった[21]。当初は1台の自動車を二人で交代で運転していたが、1965年にはルノー2台とクーペ1台の計3台を所有し、TPOに応じて使い分けていた[22]。二人は鈴鹿サーキットに毎年通うほど自動車運転を楽しんだ[22]。
真知は編み物が好きで、自作ニットのワンピースやストールを身につけ、スカーフや個性的アクセサリーで色とデザインを楽しんでいた[22]。
1993年1月に公房が没した後には、遺稿の整理など精力的に活動していた[23][24]。全集刊行に向けての整理により、未完の絶筆などが発見されていた[3][24]。9月初旬には作曲家武満徹・浅香夫妻と文芸評論家ドナルド・キーンと共に松本市へ旅行していたが、下旬に急逝し、多くの人が悼んだ[23]。結婚生活を通じ安部公房のよき理解者で、大江健三郎は「精神的な同志」と語っている[3]。喪主は長女の真能ねりが務めた[3]。
脚注
[編集]注釈
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 鳥羽耕史『安部公房 消しゴムで書く』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2024年7月10日、17-18頁。ISBN 978-4-623-09782-1。
- ^ a b c d 平凡社教育産業センター編「安部真知」『現代人名情報事典』(1987年、平凡社) - 36頁。
- ^ a b c d e f g h 「安部真知さん死去 公房文学の「同志」」『朝日新聞』1993年9月29日、東京朝刊 第一社会面、31面。
- ^ 鳥羽 2024, p. 344.
- ^ a b c d e 神奈川近代文学館、神奈川文学振興会 編「安部真知 略年譜」『安部公房 : 生誕100年 : 21世紀文学の基軸(公式展示図録)』平凡社、2024年10月18日、259-258頁。ISBN 978-4-582-20737-8。 NCID BD09188485。
- ^ 「訃報」『芸能』1993年11月号(芸能発行所) - 15頁。
- ^ 『俳優座劇場三十年の歩み』俳優座劇場、1984年5月、29頁 。
- ^ 『俳優座史 : 1965-1973』俳優座、1974年 。
- ^ 『俳優座史 : 1965-1973』俳優座、1974年 。
- ^ 『俳優座史 : 1965-1973』俳優座、1974年 。
- ^ 『俳優座史 : 1965-1973』俳優座、1974年 。
- ^ 『俳優座史 : 1965-1973』俳優座、1974年 。
- ^ 『俳優座史 : 1965-1973』俳優座、1974年 。
- ^ 『俳優座劇場三十年の歩み』俳優座劇場、1984年5月、67頁 。
- ^ “紀伊國屋演劇賞 | 株式会社 紀伊國屋書店”. 株式会社 紀伊國屋書店 - (2020年12月14日). 2024年11月17日閲覧。
- ^ 『俳優座史 : 1965-1973』俳優座、1974年、197頁 。
- ^ 自由国民社編集部 編『賞と記録の人名事典 1973年版』(1973年、自由国民社) - 57頁。
- ^ 文化庁芸術祭賞受賞一覧 - 文化庁(2024年11月21日閲覧)
- ^ a b 安部真知「パンク旅行の記(生活随想)」『婦人之友』第55巻第3号、婦人之友社、1961年3月、42-43頁、大宅壮一文庫所蔵:200211367。
- ^ 「安部真知さん(女性は操縦する;7)」『週刊公論』第3巻第33号、中央公論社、1961年8月21日、グラビア10頁、大宅壮一文庫所蔵:200126508。
- ^ 「夫が飲むとき運転手:画家安部真知さん(奥さま登場)」『週刊読売』第24巻第4号、読売新聞社、1965年1月24日、100-101頁、大宅壮一文庫所蔵:100103035。
- ^ a b c 安部真知「車好きの生活」『ミセス』第44巻、文化服装学院出版局、1965年5月、196-198頁、大宅壮一文庫所蔵:200081159。
- ^ a b 「夫・安部公房の遺稿整理も終えぬまま、真知夫人が急逝」『週刊読売』第52巻第48号、読売新聞社、1993年10月17日、22-23頁、大宅壮一文庫所蔵:100104563。
- ^ a b 「安部公房に命かけた真知夫人」『朝日新聞』1993年10月5日、東京夕刊 文化面、15面。