大蔵平三
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大蔵 平三 | |
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生誕 |
1853年1月30日 備中国 |
死没 | 1911年8月25日(58歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1872年 - 1911年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
軍馬補充部本部長 騎兵監 |
大蔵 平三(おおくら へいぞう、1853年1月30日(嘉永5年12月21日[1][2]) - 1911年(明治44年)8月25日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。男爵。旧姓・大野。
経歴
[編集]岡山県出身[1]。医師・大野意俊の二男として生まれる。幼名は岡之介[3]。大蔵建安の養子となる[1]。開成所中退を経て、1872年(明治5年)、陸軍訳官(フランス語)となり、兵学寮12等出仕、同11等出仕、同10等出仕と昇進し、1875年(明治11年)8月、陸軍少尉に任官[1][4]。1877年4月から9月まで西南戦争に出征し、1882年(明治15年)4月、陸軍騎兵大尉に昇進[1]。陸軍大学校教授、参謀本部第2局員、陸大教官、騎兵第1大隊長を歴任[1][4]。
1892年(明治25年)11月、陸軍省軍務局馬政課長となり、兼軍馬補充部本部長、騎兵課長、騎兵監などを経て、1898年(明治31年)3月、陸軍少将に進級[1][4]。軍馬補充部本部長を勤め、1904年(明治37年)10月、陸軍中将となり、1906年(明治39年)2月、休職[1][2][4]。1911年春に胃癌に罹患し、療養していたが経過が良くなかったため[5]6月に待命となり、同年8月に死去した[1][4]。
また、1907年(明治40年)9月21日、男爵を叙爵し華族となる[1]。
1911年(明治44年)8月25日、死去[6]。墓所は青山霊園(1イ21-2)。
栄典
[編集]- 位階
- 1895年(明治28年)3月28日 - 従五位[7]
- 1898年(明治31年)4月30日 - 正五位[8]
- 1903年(明治36年)5月30日 - 従四位[9]
- 1908年(明治41年)6月20日 - 正四位[10]
- 1911年(明治44年)8月25日 - 従三位[11]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[12]
- 1895年(明治28年)
- 1899年(明治32年)5月9日 - 勲三等瑞宝章[15]
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲二等瑞宝章[16]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章・功三級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章[17]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [18]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本陸海軍総合事典』第2版、34頁。
- ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』144頁。
- ^ 岡山県総社高等女学校々友会『郷土史』。国立国会図書館デジタルコレクション コマ27
- ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』31頁。
- ^ 新聞集成明治編年史. 第十四卷 p.459
- ^ 明治44年8月29日『官報』第8457号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4
- ^ 『官報』第3521号「叙任及辞令」1895年3月29日。
- ^ 『官報』第4448号「叙任及辞令」1898年5月2日。
- ^ 『官報』第5972号「叙任及辞令」1903年6月1日。
- ^ 『官報』第7495号「叙任及辞令」1908年6月22日。
- ^ 『官報』第8456号「叙任及辞令」1911年8月28日。
- ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
- ^ 『官報』第3695号「叙任及辞令」1895年10月22日。
- ^ 『官報』第4029号・付録「辞令」1896年12月2日。
- ^ 『官報』第4754号「叙任及辞令」1899年5月10日。
- ^ 『官報』第6627号「叙任及辞令」1905年8月2日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
著書
[編集]参考文献
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 大蔵(平三)家初代 1907年 - 1911年 |
次代 大蔵公望 |