南部甕男
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南部甕男(1913年) | |
生年月日 | 1845年7月19日 |
出生地 | 土佐国高岡郡 |
没年月日 | 1923年9月19日(78歳没) |
称号 | 正二位勲一等男爵 |
大審院長 | |
在任期間 | 1896年10月7日 - 1906年7月3日 |
元首 | 明治天皇 |
枢密顧問官 | |
在任期間 | 1906年7月3日 - 1923年9月19日 |
南部 甕男(なんぶ みかお、弘化2年6月15日(1845年7月19日) - 1923年(大正12年)9月19日)は、明治期の日本の司法官僚。正二位勲一等男爵。号は南陽。
生涯
[編集]弘化2年(1845年)、土佐藩郷士・南部従吾(忠克、静斎)の長男として高岡郡大野見村久万秋(現在の中土佐町)に生まれる。父は佐藤一斎に学んだ陽明学者で、門人には武市瑞山、谷干城らがいた。
土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862年)に脱藩して上洛。諸藩の志士と交わるなど勤皇活動に従事した。三条実美の衛士となり、八月十八日の政変では実美に従って長州藩へ亡命し、大宰府移住にも随行した。戊辰戦争では東山道先鋒総督の書記兼斥候を務めた。
維新後は、明治元年(1868年)12月の兵部少録任官を皮切りに、1875年(同8年)5月に7等判事、1876年(同9年)9月に熊本裁判所長、1880年(同13年)4月に神戸裁判所長、1881年(同14年)10月に司法権大書記官・民事局長、1891年(同24年)に大審院長心得(兼大審院部長)、東京控訴院長など、主に司法畑の要職を歴任した。同29年(1896年)6月5日に男爵に叙せられ[1]、同年10月に大審院長に就任する。1906年(同39年)7月に退官した後は枢密顧問官を務め、法曹会の設立にも尽力した。
1923年(大正12年)、享年79で死去。青山霊園に葬られた。
栄典
[編集]- 位階
- 1884年(明治17年)6月30日 - 従五位[2]
- 1890年(明治23年)11月4日 - 従三位[3]
- 1896年(明治29年)12月21日 - 正三位[4]
- 1904年(明治37年)2月10日 - 従二位[5]
- 勲章等
- 1887年(明治20年)11月25日 - 勲四等旭日小綬章[6]
- 1889年(明治22年)
- 1891年(明治24年)3月30日 - 勲二等瑞宝章[9]
- 1900年(明治33年)6月30日 - 勲一等瑞宝章[10]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[11]
- 1923年(大正12年)9月19日 - 帝都復興記念章[12]
系譜・親族
[編集]南部家は南部光行の子孫と伝える。
甕男には3女があった。家督は長女幸子(さきこ)の婿である南部光臣(烏丸光徳三男、宮中顧問官・貴族院議員)が嗣いだ。次女瑞芽(みずめ)は志水美英(海軍主計大監)に嫁ぎ、三女敏子(としこ)は松平頼親(伯爵松平頼聰の六男)の夫人となった。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 『官報』第3880号、明治29年6月6日。
- ^ 『官報』第301号「叙任及辞令」1884年7月1日。
- ^ 『官報』第2209号「叙任及辞令」1890年11月8日。
- ^ 『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。
- ^ 『官報』第6181号「叙任及辞令」1904年2月12日。
- ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。
- ^ 『官報』第2322号「叙任及辞令」1891年3月31日。
- ^ 『官報』第5098号「叙任及辞令」1900年7月2日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)
公職 | ||
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先代 蜂須賀茂韶 |
文官高等懲戒委員長 行政裁判所長官評定官懲戒裁判所裁判長 会計検査官懲戒裁判所長官 1918年 - 1923年 |
次代 倉富勇三郎 |
先代 松岡康毅 |
東京控訴院長 1891年 - 1896年 |
次代 大塚正男 |
その他の役職 | ||
先代 三好退蔵 児島惟謙 |
法曹会会長 1896年 - 1906年 1892年 - 1893年 |
次代 横田国臣 三好退蔵 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 南部(甕男)家初代 1896年 - 1923年 |
次代 南部光臣 |