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功山寺

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功山寺

仏殿 (国宝)
所在地 山口県下関市長府川端1丁目2-3
位置 北緯33度59分45.2秒 東経130度58分54.9秒 / 北緯33.995889度 東経130.981917度 / 33.995889; 130.981917 (功山寺)座標: 北緯33度59分45.2秒 東経130度58分54.9秒 / 北緯33.995889度 東経130.981917度 / 33.995889; 130.981917 (功山寺)
山号 金山
宗派 曹洞宗
本尊 千手観音菩薩
創建年 嘉暦2年(1327年
開基 虚庵玄寂
別称 長福寺(旧称)
札所等 中国三十三観音霊場19番
山陽花の寺9番
文化財 仏殿(国宝)
地蔵菩薩半跏像(県指定)他
公式サイト http://kouzanji.org/
法人番号 5250005003506 ウィキデータを編集
功山寺の位置(山口県内)
功山寺
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毛利家墓所

功山寺(こうざんじ)は、山口県下関市長府にある曹洞宗長府毛利家菩提寺。山号は金山(きんざん)。中国三十三観音霊場第十九番札所、山陽花の寺二十四か寺第九番。

仏殿は、善福院釈迦堂とともに鎌倉時代禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。

歴史

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嘉暦2年(1327年)、虚庵玄寂を開山として臨済宗の長福寺として創建された。開基は北条時仲と推定されている。なお、仏殿の建立は上記創建年より早い元応2年(1320年)である。正慶2年(1333年)に後醍醐天皇勅願寺となり、建武3年(1336年)には足利尊氏から寺領が寄進されるなど、朝野の尊崇を得て栄えた。

室町時代には大内氏の庇護を得、文明8年(1476年)には大内政弘によって復興された。弘治3年(1557年)、周防大内氏最後の当主大内義長が境内で自害した後、寺は一時衰退する。

慶長7年(1602年)、長府藩毛利秀元金岡用兼を招聘し、曹洞宗の笑山寺として再興した。慶安3年(1650年)、秀元の没後、功山寺に改名された。

幕末の文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。高杉晋作は当寺で挙兵した(回天義挙)。

文化財

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国宝

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  • 仏殿 - 柱の墨書により元応2年(1320年)の建立と判明する。入母屋造、檜皮葺き。一重裳階(もこし)付き。方三間の身舎の周囲に裳階をめぐらした形になる。堂内には本尊千手観音坐像を安置する。典型的な禅宗様仏殿で、鎌倉時代にさかのぼり、建立年代の明らかなものとして貴重である。

県指定文化財

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市指定文化財

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国の登録有形文化財

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  • 総門 - 軸部は室町時代中期の形式を残すが、軒回りは江戸時代に改変されている。禅宗様、四脚門、木造、瓦葺き、間口4.4m[1]
  • 旧長門尊攘堂 - 1933年築、鉄筋コンクリート造平屋建、瓦葺、建築面積315平方メートル。2016年まで、下関市立長府博物館本館として使用

境内

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  • 総門
  • 山門
  • 仏殿
  • 法堂
  • 書院
  • 庫裡
  • 鐘楼
  • 経蔵
  • 毛利家廟所
  • 地蔵堂
  • 高杉晋作像

墓所

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その他

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  • 高杉晋作挙兵(回天義挙)像
  • 旧長門尊攘堂 - 登録有形文化財。収蔵品は長府毛利家や明治維新関連のものが中心。
  • 万骨塔 - 明治維新に殉じた志士を供養するため、全国から寄せられた石が組まれている。

交通アクセス

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前後の札所

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中国三十三観音霊場
18 宗麟寺 -- 19 功山寺 -- 20 大照院
山陽花の寺二十四か寺
8 東行庵 -- 9 功山寺 -- 10 木山寺

脚注

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参考文献

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  • 『週刊朝日百科 日本の国宝 27』、朝日新聞社、1997(功山寺の解説執筆は町田一仁、日向進)

関連項目

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外部リンク

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