伊藤修令
伊藤 修令 | |
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生誕 |
1937年3月7日(87歳)[1] 広島県竹原市 |
国籍 | 日本 |
教育 | 広島大学 |
業績 | |
専門分野 | 機械工学 |
勤務先 | |
設計 |
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成果 | スカイラインGT-Rの16年ぶりの復活(KPGC110型以来) |
来歴・人物
[編集]1959年、広島大学工学部機械工学科卒業[1]。同年4月、プリンス自動車の前身の富士精密工業に入社[1][2]。
シャーシ設計を主にスカイライン(ALSID II型 - S50型系)を担当。日産自動車との合併後も、スカイライン、ローレル、レパード(F30型、F31型)の開発に参画。1982年1月からはプレーリー(主管)、マーチK10型(主管)などの開発を担当。
1984年には、スカイラインの初代から開発に携わり、2代目からスカイラインの開発主管を一貫して務めていた桜井眞一郎が病に倒れて入院した事により、旧・プリンス時代からの桜井の後輩で一番弟子であり共に車両開発に携わっていた伊藤が、急遽、他車種の開発主管から異動してスカイラインの開発主管を桜井から引き継ぐ事となる[1][3]。
しかし、伊藤がスカイラインの開発主管として桜井から引き継いだ時は、次期型として開発中であった7代目(R31型・7th(セブンス)、以下「R31」)は前任の開発主管の桜井の下で車両開発がほぼ終盤を迎えていた状態であり[1][4]、伊藤が実際にR31の開発主管として携わった仕事は、運輸省(当時)(現・国土交通省)に認証登録の申請をしただけであったという。
1985年8月、スカイラインは7代目(R31)にフルモデルチェンジされて発売されたものの、歴代のスカイラインユーザーやスカイラインファンや自動車評論家などの各界から不評を買ってしまう結果となってしまう[5]。だが、実際、R31は前任の開発主管であった桜井の下で車両開発されており、伊藤がR31の車両開発に直接携っていないにもかかわらず、R31の新車発表時のスカイラインの開発主管として、各界からR31に対する不評を聞くことになってしまった。その悔しさを挽回すべく、次期型となる8代目(R32型)の開発主管も伊藤が引き続き担当し、車両開発の初期段階から直接携わった。
1989年5月、スカイラインは8代目(R32型)にフルモデルチェンジされて発売され、一般価格帯のGTSグレードをはじめとするスカイライン全般のスポーツイメージを高めて、新車発表から3ヵ月後の8月に追加発売されたGT-Rを16年ぶりに復活させて好評を得た後、オーテックジャパンに出向して常務取締役[2]、ニッサン・モータースポーツ・インターナショナルのテクニカルアドバイザーを歴任。
2013年、長野県岡谷市の自動車博物館「プリンス&スカイラインミュウジアム」の名誉館長(顧問は渡邉衡三)に就任[6]。
関連事項
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f “伊藤 修令”. 日本自動車殿堂. 2021年4月11日閲覧。
- ^ a b 大串 2011, p. 35.
- ^ 大串 2011, pp. 31f.
- ^ 大串 2011, p. 31.
- ^ 大串 2011, p. 32.
- ^ “当館名誉館長、顧問の就任について”. プリンス&スカイラインミュウジアム. 2021年4月11日閲覧。
- ^ “日本自動車殿堂 JAHFA”. 日本自動車殿堂. 2020年11月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月11日閲覧。
- ^ 伊藤修令『走りの追求 - R32スカイラインGT-Rの開発』グランプリ出版、2005年4月18日、11頁。ISBN 4-87687-270-8。
参考文献
[編集]- 大串, 信「[特集] グループAスカイライン インタビュー 伊藤修令」『Racing on』第450巻、三栄書房、2011年1月、30-35頁、ISBN 9784779610837。
- (再録) 『Racing on Archives』第6巻、三栄書房、2012年、62-67頁、ASIN B00HWQC84Q、ISBN 9784779614781。