井尻陽久
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 和歌山県[1] |
生年月日 | 1952年6月19日(72歳)[1] |
選手情報 | |
ポジション | 内野手[1] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
この表について
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井尻 陽久(いじり はるひさ、1952年6月19日 - )は、和歌山県出身の元社会人野球選手(内野手)、野球指導者。
経歴
[編集]和歌山市立河西中学校[2]から東海大相模高校に進学。野球部5期生として原貢監督の指導を受ける[3]。エース上原広(のち東海大学)を擁し遊撃手として甲子園に3回出場。チーム初出場の1969年夏の選手権は、1回戦で静岡商のエース松島英雄に完封負けを喫する[4]。翌1970年春の選抜にもチーム初出場。しかし2回戦(初戦)で箕島高の島本講平に抑えられ敗退[5]。同年夏の選手権は順調に勝ち進み、決勝でPL学園を降し優勝を飾る[4][3]。主将、三番打者としてチームを牽引した[3]。
高校卒業後は東海大に進学。遊撃手として在学中3回の優勝を経験、1974年秋季リーグではベストナインに選出される[6]。卒業後は社会人野球の名門・日本生命に入社[3]。1975年の社会人野球日本選手権は準決勝に進むが、北海道拓殖銀行の山口敏男、千藤和久の継投に抑えられ完封負けを喫する[7]。都市対抗野球大会でも常連として活躍、1984年の都市対抗で10年連続出場表彰を受ける[8]。1985年の都市対抗は、決勝で東芝に逆転勝利、初優勝を飾った[8] 。
現役引退後は日本生命硬式野球部監督に就任し、1990年の社会人野球日本選手権、1992年の都市対抗に優勝する[3]。その後は1993年アジア野球選手権大会でコーチとして優勝。1996年アトランタオリンピックでもコーチ(守備・打撃)に就任し、日本代表の銀メダル獲得に貢献した[3]。社業では日本生命保険熊本支社長などを歴任し、定年退職[3]。定年後は日本野球連盟理事などを務め球界発展に尽力している[3]。
2021年2月1日付で母校の東海大学硬式野球部監督に就任し[1]、2023年秋のリーグ最終戦をもって退任[9][10]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i “東海大新監督にOBの井尻陽久氏 元日本生命監督”. 日刊スポーツ. 2021年8月11日閲覧。
- ^ “井尻 陽久(いじり はるひさ)プロフィール” (PDF). 2021年8月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “「原監督も喜んでいるだろう」 45年前の初優勝主将・井尻さん”. 神奈川新聞. 2021年8月11日閲覧。
- ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ “高3夏には全国制覇…活動再開した東海大を新しく率いる井尻陽久監督の野球人生とは?”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年8月11日閲覧。
- ^ 「日本社会人野球協会会報1975」日本社会人野球協会 1976年
- ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
- ^ “東海大・井尻監督 快勝で有終の美 後任にはOB長谷川国利氏が有力”. 週刊ベースボールONLINE (2023年10月23日). 2023年11月26日閲覧。
- ^ “【大学野球】東海大監督にOBの元巨人スカウト部長・長谷川国利氏が就任へ 巨人女子チーム助監督から転身”. スポーツ報知 (2023年10月22日). 2023年11月26日閲覧。