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中江藤樹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なかえ とうじゅ

中江 藤樹
中江藤樹像
生誕 (1608-04-21) 1608年4月21日
近江国高島郡滋賀県高島市
死没 (1648-10-11) 1648年10月11日(40歳没)
近江国高島郡
墓地 滋賀県高島市玉林寺
国籍 日本の旗 日本
別名 近江聖人
著名な実績 『大学啓蒙』
『翁問答』、『鑑草』
影響を受けたもの 王龍溪(王陽明の高弟)、王陽明
影響を与えたもの 熊沢蕃山淵岡山、中川謙叔
活動拠点 近江国
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中江 藤樹(なかえ とうじゅ、1608年4月21日慶長13年3月7日) - 1648年10月11日慶安元年8月25日))は、近江国滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。は原(はじめ)、は惟命(これなが)、通称は与右衛門、藤樹と号した[注釈 1]

経歴

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高島郡小川村で農業を営む中江吉次の長男として誕生[注釈 2]。9歳の時に伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。1617年元和2年)米子藩主・加藤貞泰伊予大洲藩愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)祖父が死去し、家督100石を相続する。

1634年寛永11年)27歳で母への孝行と健康上の理由によりに対し辞職願いを提出するが拒絶される。脱藩に潜伏の後、近江に戻った。郷里である小川村(現在の滋賀県高島市)で私塾を開く。これが藤樹書院である。1637年(寛永14年)伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘・久と結婚する。藤樹の屋敷に藤の巨木があったことから、門下生から「藤樹先生」と呼ばれるようになる。

やがて朱子学に傾倒するが、次第に陽明学の影響を受け、格物致知論を究明するようになる。その説く所は身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透し江戸の中期頃から、自然発生的に「近江聖人」と称えられた。

1646年正保3年)妻・久が死去。翌、1647年(正保4年)近江大溝藩士・別所友武の娘・布里と再婚する。1648年(慶安元年)41歳で死去[注釈 3]。墓所は滋賀県高島市玉林寺。

代表的な門人として熊沢蕃山淵岡山、中川謙叔、石川茂次などがいる。

ギャラリー

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逸話

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ある武士が近江国を旅していたときの話。大切な金を馬の鞍につけたまま馬を返してしまった武士は金が戻らずがっかりしていたが、そのときの馬子が金をそっくり渡すため武士のもとに戻ってきた。感謝した武士はせめて礼金を渡そうとするが馬子は受け取らない[3]。仔細をきくと、馬子の村に住む中江藤樹の教えに導かれてのことという。そこで武士は迷わず、藤樹の弟子となった。この武士こそのちに岡山藩家老となった熊沢蕃山であるという[3]

著書

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  • 大学啓蒙(1628年)
  • 持敬図説(1638年)
  • 原人(1638年)
  • 論語郷党啓蒙翼伝(1639年)
  • 翁問答(1640年)
  • 孝経啓蒙(1642年)
  • 小医南針(1643年)
  • 神方奇術(1644年)
  • 鑑草(1647年)
  • 大学考(1647年)
  • 大学解(1647年)
  • 中庸解(1647年)
  • 中庸続解(1647年)

刊本

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  • 『鑑草 附春風・陰隲』加藤盛一校註 岩波文庫 1939
  • 『日本哲学思想全書 第7巻 (科学 学問篇)』「大学解」 三枝博音清水幾太郎編 平凡社 1956
  • 『日本哲学思想全書 第14巻 (道徳 儒教篇・道徳論一般篇)』「中庸解」平凡社 1957
  • 『日本の思想 17』「翁問答(抄)」 西田太一郎編 筑摩書房 1970
  • 日本思想大系 29 中江藤樹』岩波書店 1974
    文集(二編) 安昌弑玄同論(尾藤正英校注)、林氏剃髪受位弁(山井湧校注) 翁問答(山下龍二校注) 孝経啓蒙(加地伸行校注)
  • 『藤樹先生全集』弘文堂書店 1976
  • 日本の名著 11 中江藤樹・熊沢蕃山』伊東多三郎責任編集「翁問答」中央公論社 1976
  • 『日本教育思想大系 中江藤樹』日本図書センター 1979
  • 『鑑草 現代語新訳』日本総合教育研究会 編訳 行路社 1990
  • 『中江藤樹人生百訓』中江彰著 致知出版社 2007
  • 『中江藤樹一日一言 孝を尽くし徳を養う』中江彰編 致知出版社 2008

伝記・研究・小説

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顕彰施設

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高島市内の施設

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高島市の説明板

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地図
中江藤樹の案内板地図

JR安曇川駅から藤樹書院までの通り「よえもんさん通り(通称)」には2種類の説明板がある[6]

  • 中江藤樹のことば
    • 遺言の現代語訳
  • 藤かげの道
    • 幼少期からの逸話

脚注

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注釈

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  1. ^ 別号に嘿軒(もくけん)、顧軒(こけん)[1]
  2. ^ 少年時代の藤樹については本人も言及していないが、後世の記録によれば、近所の子どもたちと遊ぶときもいつも物静かで、他の子のように騒ぎまわることはなかったという[2]
  3. ^ 亡くなる半年前に藤樹書院を新築した。

出典

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  1. ^ 「先哲叢談/原念斎・漢学者伝記集成」竹林貫一編
  2. ^ 本間・越田(2014)p.101
  3. ^ a b 本間・越田(2014)pp.100-101
  4. ^ 渋沢栄一と藤樹神社 高島市、2024年3月7日閲覧。
  5. ^ 創立100年を迎えた藤樹神社〜創立に関わった偉人たち〜 高島市、2024年3月7日閲覧。
  6. ^ 『近江聖人中江藤樹 散策マップ』高島市教育委員会事務局 社会教育課

参考文献

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  • 本間康司・越田年彦『覚えておきたい人と思想100人』清水書院、2014年9月。ISBN 978-4-389-50039-9 
  • 林田明大『評伝・中江藤樹』三五館、2017年10月。

関連項目

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外部リンク

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