1941年の朝日軍
1941年の朝日軍(1941ねんのあさひぐん)では、1941年シーズンの朝日軍の動向をまとめる。
1941年の朝日軍 | |
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成績 | |
日本野球連盟9位 | |
25勝59敗1分 勝率.298[1] | |
本拠地 | |
都市 | 大阪府 |
球場 | 特定球場なし |
球団組織 | |
オーナー | 田村駒治郎 |
監督 | 竹内愛一(選手兼任) |
« 1940 1942 » |
この年の朝日軍は、竹内愛一選手兼任監督の1年目のシーズンである。前シーズン途中の9月、日米・日英関係の悪化から敵性語として英語を使用できなくなったことから、ライオン軍という名称を改称することを求められたのに対し、球団は「ライオンは日本語である」と抵抗を示したものの、このシーズンから「朝日軍」への改称を余儀なくされた。
チーム成績
編集レギュラーシーズン
編集順位 | 球団 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 |
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優勝 | 東京巨人軍 | 62 | 22 | 2 | .738 | - |
2位 | 阪急軍 | 53 | 31 | 1 | .631 | 9.0 |
3位 | 大洋軍 | 47 | 37 | 3 | .560 | 15.0 |
4位 | 南海軍 | 43 | 41 | 0 | .512 | 19.0 |
5位 | 阪神軍 | 41 | 43 | 0 | .488 | 21.0 |
6位 | 名古屋軍 | 37 | 47 | 0 | .440 | 25.0 |
7位 | 黒鷲軍 | 28 | 56 | 1 | .333 | 34.0 |
8位 | 朝日軍 | 25 | 59 | 1 | .298 | 37.0 |
できごと
編集前年首位打者を獲得した鬼頭数雄が南海に移籍した。また、投手陣では近藤久が前年で退団、菊矢吉男がシーズン序盤で応召したため、福士勇が孤軍奮闘することとなった。福士は、400イニング近く投げ、17勝28敗(28敗はシーズン最多)と踏ん張ったが、外野手の野村高義を急遽投手にコンバートするなどの投手不足であり、チームは2年連続の最下位となった。
選手・スタッフ
編集出典
編集- ^ “年度別成績 1941年 日本野球連盟”. 日本野球機構. 2018年9月11日閲覧。
- ^ ベースボールマガジン2002夏季号, ベースボールマガジン社, (2002), p. 151
- ^ 『日本プロ野球80年史 1934-2014』 【記録編】、ベースボール・マガジン社、2014年12月24日。ISBN 978-4-583-10668-7。