陸佃
陸 佃(りく でん、1042年 - 1102年[1][2][3])は、中国北宋の文人官僚。陸游の祖父[4]。『埤雅』『鶡冠子注』『陶山集』などの著作が現存する。
人物
編集『宋史』に伝がある[5]。神宗・哲宗・徽宗の時代に活動した。
字は農師、号は陶山、越州山陰(現在の浙江省紹興市)の人。1070年(熙寧3年)の省試で首席(省元)、殿試では第5位で合格した[6]。王安石の弟子でありながら「新法・旧法の争い」では中立の立場をとった[4]。徽宗の時代に尚書左丞(副宰相・参知政事にあたる)となったが[4]、元祐党禁(旧法党への弾圧)に巻き込まれ左遷された[3]。
友人に李公麟がおり官職に推挙した[7]。『神宗実録』の編纂に参加したとき黄庭堅と論争した[3]。遼への使者も務めた[8]。子に陸宰、その子に陸游がいる[4]。
主な著作
編集現存
編集- 『埤雅』 - 『爾雅』の系譜に連なる名物学書・辞書。当初の題は『物性門類』だった[9][10]。
- 『爾雅新義』[10]
- 『鶡冠子注』[10] - 『鶡冠子』の主要な注釈書だが、質は高くない[11]。
- 『陶山集』 - 詩文集。
散佚
編集脚注
編集- ^ “埤雅. 巻第1-20 / 陸佃 撰”. www.wul.waseda.ac.jp. 2023年10月2日閲覧。
- ^ 庄涵淇「宋代の紹興園林と園林生活」『都市文化研究』第23巻、大阪市立大学大学院文学研究科 : 都市文化研究センター、2021年3月、161頁、CRID 1390290699900458880、doi:10.24544/ocu.20210421-004、ISSN 1348-3293。
- ^ a b c 甲斐雄一「陸游と四川人士の交流 : 范成大の成都赴任と関連して」『日本中國學會報』第62巻、日本中國學會、2010年10月、174,179、CRID 1050861482658713088、hdl:2324/18389、ISSN 03873196。
- ^ a b c d 村上哲見『中国の詩人 その詩と生涯 12 陸游 円熟詩人』集英社、1983年。ISBN 978-4081270125。30頁。
- ^ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:宋史/卷343
- ^ 近藤一成「王安石の科擧改革をめぐって」『東洋史研究』46-3、東洋史研究會、1987年。NAID 40002659990
- ^ 西野貞治「李公麟-北宋文人画の巨擘-の家系と行跡について」『人文研究』第25巻第1号、大阪市立大学文学部、1973年、92頁、CRID 1050001202453949312、ISSN 0491-3329。
- ^ a b 洪性珉「陸佃『使遼録』の佚文とその史料価値について―陸游の筆記史料を中心に―」『東洋学報』第98巻第1号、東洋文庫、2016年6月、63-89頁、CRID 1050845763866675072、ISSN 0386-9067。
- ^ 陳捷 著「経学註釈と博物学の間 江戸時代の『詩経』名物学について」、陳捷 編『医学・科学・博物 東アジア古典籍の世界』勉誠出版、2020年。ISBN 978-4-585-20072-7。246頁。
- ^ a b c 澁澤尙「羅願爾雅翼考」(PDF)『立命館文學』第664号、京都 : 立命館大学人文学会、2019年12月、538-560頁、CRID 1520572357824245248、ISSN 02877015。
- ^ 大形徹「『鶡冠子』——不朽の國家を幻想した隱者の書」『東方宗教』第59号、日本道教学会、1982年 。62頁。
- ^ 山田俊「金朝『道德經』注釈資料としての李霖『道德眞經取善集』について」『熊本県立大学大学院文学研究科論集』第9巻、熊本県立大学大学院文学研究科、2016年9月、7頁、CRID 1050564287701966592、ISSN 1882-9082。
- ^ 原田信「陸佃の『禮象』について -出土彝器收録の意圖」『中國文學研究』第36巻、早稻田大學中國文學會、2010年12月、60頁、CRID 1050282677464421376、hdl:2065/39590、ISSN 0385-0919。