坂本政均
幕末の幕臣、明治期の司法官
(阪本政均から転送)
坂本 政均(さかもと まさひら[2]、1831年12月7日(天保2年11月4日[2][3])- 1890年(明治23年)1月15日[2])は、幕末の幕臣、明治期の司法官。元老院議官。旧姓・赤井、通称・三郎[2]。阪本と表記される場合がある[4]。
経歴
編集高松藩儒・赤井東海(蔵米100俵〈知行100石に相当〉[5])の第三子として生まれ、幕臣・坂本敬水、かよ夫妻の養子となる[2][6]。杉田玄端、緒方洪庵、広瀬玄恭などから蘭学を学んだ[4][6]。
明治政府に出仕し、慶応4年6月23日(1868年8月11日)民政裁判所留役に就任[2]。以後、同組頭、会計官権判事、大蔵少丞、民部少丞、大蔵権大丞などを歴任[2]。
明治3年11月20日(1871年1月10日)刑部省に転じ大解部に就任[2]。以後、司法大解部、同少判事、同権中判事、同中判事、大坂裁判所在勤、京都裁判所長、四等判事、鶴岡裁判所長、米沢裁判所長、福島裁判所長、判事、宮城上等裁判所長心得、広島控訴裁判所長、大審院詰、高等法院予備裁判官、同陪席裁判官、法律諮問会員などを務めた[2]。
1886年(明治19年)5月10日、元老院議官に就任し[2]、1890年1月、在任中に病のため死去した[2][4][6]。墓所は染井霊園。
栄典
編集- 位階
- 勲章
親族
編集脚注
編集- ^ 的野半介『江藤南白 上』南白顯彰会、1914年、643頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』467-472頁。
- ^ 『明治過去帳』新訂初版、294頁では「天保2月12月」。
- ^ a b c 『明治過去帳 新訂初版』294頁「阪本政均」。
- ^ 石山洋 他(編)『江戸文人辞典:国学者・漢学者・洋学者』東京堂出版、1996年、7-8頁。
- ^ a b c 『日本人名大事典 第3巻』75頁。
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第718号「賞勲叙任」1885年11月20日。
- ^ 「坂本釤之助」『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年、さ57-58頁。
参考文献
編集- 大植四郎編『明治過去帳 新訂初版』東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
- 『日本人名大事典 第3巻』平凡社、1979年(『新撰大人名辞典』(昭和12年刊)の改題複製)。
- 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』柏書房、1995年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
公職 | ||
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先代 (新設) |
広島控訴裁判所長 1881年 |
次代 松岡康毅 |
先代 早川景矩 |
宮城上等裁判所長心得 1877年 - 1881年 |
次代 西岡逾明 宮城控訴裁判所長 |