阪倉篤義

日本の国文学者、国語学者 (1917-1994)

阪倉 篤義(さかくら あつよし、1917年5月23日 - 1994年10月22日)は、日本国文学者国語学者文学博士京都大学論文博士・1962年)。京都大学名誉教授

阪倉 篤義
人物情報
生誕 (1917-05-23) 1917年5月23日
日本の旗 日本京都府
死没 (1994-10-22) 1994年10月22日(77歳没)
日本の旗 日本・京都府
脳動脈瘤
国籍 日本の旗 日本
出身校 京都帝国大学
配偶者 始子
両親 :阪倉篤太郎
学問
時代 昭和
研究分野 国語学
国文学
研究機関 京都大学
甲南女子大学
学位 文学博士
学会 国語学会
主な受賞歴 勲三等旭日中綬章
テンプレートを表示

来歴

編集

京都府京都市出身。漢学者阪倉篤太郎

1941年京都帝国大学文学部国文科卒業。1943年入隊、長沙市にて終戦を迎える[1]1946年6月に復員、11月に中村憲吉の三女始子と結婚[1]

1949年京都大学教養部助教授1962年「語構成の研究」で京大より文学博士学位を取得。1963年教授1981年定年退官、名誉教授甲南女子大学教授。

1991年秋、勲三等旭日中綬章受章[2]

1994年脳動脈瘤破裂、心機能低下により京都市西京区病院で死去[3]。柩が葬儀場の寺院を出て行くとき、第三高等学校寮歌「紅萌ゆる丘の花」の歌声が起こった[4]

業績

編集

研究領域は幅広いが、中心は上代日本語語彙論や文法論であった。とりわけ関心を注いだのは、「語がどのようにして構成されているか」という分野で、阪倉は「語は恣意的にできるのではなく、従うべき法則が厳然と存在する」とし、「語構成論」という術語を定着させた[4]。若年以来、上代日本語の語構成の分析について、慎重着実な方法に基づき、大胆かつ説得性の高い着実な方法を提示したが、それは「音義説」などの因習から脱却した画期的な語彙研究であった[5]。平安時代の和文の係助詞「なむ」の表現価値を始めとする一連の国語史研究や語源論もまた、厳密な語構成論を前提としている[6]

また、日本古典文学大系の中で、『竹取物語』『夜半の寝覚』などの校訂注釈を担当するなど、国語学のみならず、国文学の面にも卓越した成果を挙げている[5]

人物

編集

国語辞典などの監修者でも知られ、晩年は新村出記念財団理事長を務め、『広辞苑』第三版(岩波書店、1983)、同第四版 (1991) 刊行に際し序文も担当した。なお、学外の主な活動としては、日本学術会議専門委員、国語審議会委員、国立国語研究所評議員、国文学研究資料館評議員、国語学会代表理事などを務めた[3]

著作

編集

単著

編集

校注・訳

編集

共編著

編集
  • 『古語小辞典』専門図書 1959
  • 『現代のことば』(寿岳章子、樺島忠夫共著、三一書房)1960
  • 『日本文法』(樺島忠夫共著)三省堂 1967 指向と研究
  • 『夜の寝覚総索引』(高村元継、志水富夫共編、明治書院)1974
  • 『国語学概説』(有精堂出版)1975
  • 『日本語の基礎 自国語を再考する』編著 旺文社 1982 ラジオ大学講座
  • 『日本語の基礎』(放送大学教育振興会)1986
  • 『家 一語の辞典』(浅見徹との共著、三省堂)1996
  • 『国語辞典』(林大との共著、講談社)

監修

編集

脚注

編集
  1. ^ a b 糸井通浩 (1995), p. 24.
  2. ^ 「秋の叙勲 勲三等以上および在外邦人、帰化邦人、在日外国人、外国人の受章者」『読売新聞』1991年11月3日、朝刊。
  3. ^ a b 糸井通浩 (1995), p. 25.
  4. ^ a b 内田賢徳 (2020), p. 91.
  5. ^ a b 築島裕 (1995), p. 18.
  6. ^ 内田賢徳 (2020), pp. 92–93.

参考文献

編集

外部リンク

編集