鈴木輝彦
鈴木 輝彦(すずき てるひこ、1954年10月18日 - )は、将棋棋士。廣津久雄九段門下。棋士番号は136。静岡県袋井市出身。
鈴木輝彦 八段 | |
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名前 | 鈴木輝彦 |
生年月日 | 1954年10月18日(70歳) |
プロ入り年月日 | 1978年12月14日(24歳) |
引退年月日 | 2004年3月31日(49歳) |
棋士番号 | 136 |
出身地 | 静岡県袋井市 |
所属 | 日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 廣津久雄九段 |
段位 | 八段 |
棋士DB | 鈴木輝彦 |
戦績 | |
通算成績 | 334勝398敗 |
竜王戦最高クラス | 3組 |
順位戦最高クラス | B級1組(1期) |
2015年3月20日現在 |
棋歴
編集1970年、16歳のときに廣津の弟子となり、奨励会で指し始める。二段昇段(1973年5月)から三段昇段(1977年4月)までが長かった。ただし、三段昇段の事由となった12勝3敗の途中には、結核を患ったことによる約半年の休場がある[1]。
デビュー直後の第38期(1979年度)順位戦C級2組(当時の名称は「昇降級リーグ戦4組」)で8勝1敗で最終戦を迎え昇級争いに加わるが、敗れて8勝2敗となり次点(4位)で昇級を逃す。ところが翌年(第39期)では最後に2連敗して7勝3敗の成績でありながら、前期成績によるリーグ表上位が活きて2位となり、C級1組へ昇級[2]。その翌年の第40期(1981年度)C級1組では8勝2敗で2位となり、連続昇級でB級2組に上がる。
第48期(1989年度)順位戦B級2組で7勝3敗ながら2位となり、A級に一歩手前のB級1組へ昇級。段位は七段となった。翌年、第49期(1990年度)B級1組では、元棋聖の田中寅彦や当時王座獲得の途上にあった福崎文吾などから勝利を挙げるも、3勝8敗で陥落。なお、第50期(1991年度)順位戦では9回戦(1992年2月21日)で羽生善治前竜王と当たり、負けている。
第6期(1980年度)棋王戦で初代棋王の大内延介らに勝ち、本戦3回戦進出。
1981年度、第31回NHK杯戦の3回戦で中原誠棋聖に勝ち、4回戦に進出(ベスト8)。
第37期(1989年度)王座戦では、予選(1988年度)で大内延介や王将2期の中村修らに勝ち本戦進出。本戦では谷川浩司名人に勝ち2回戦進出。
第43期(1995年度)王座戦で中原誠永世十段を予選決勝で破り、さらに本戦ではタイトル5期の南芳一に勝って2回戦進出。しかし、その一方で第54期(1995年度)- 第55期(1996年度)の順位戦B級2組で2期連続の降級点を喫し、C級1組への陥落が決定。鈴木はC級1組で指さずに将棋の普及活動や文筆活動に力を入れたい[1]とし、フリークラス宣言をして順位戦から転出する道を選択。2004年、フリークラスの在籍期限よりも前に引退届を提出し引退[3]。
棋風
編集居飛車党で、矢倉、相掛かり、角換わり、対振り飛車急戦を指す。ただし、自陣の整備を完了する前に仕掛けることが度々あり、その場合は力戦調の将棋となる。
一方で矢倉中飛車の使い手としても知られ、本人も『将棋世界』誌上の連載で「『矢倉中飛車』の講座とくれば、現棋界で私しかいない、と胸を張って言う事ができる」と述べるほど。本人によれば奨励会時代からずっと指し続けているが、一時は戦績が低迷したため、将棋を知らないはずの妻から「矢倉チュウ飛車だけは止めて」と言われたこともあるという[5]。
人物・エピソード
編集- 文筆活動は、将棋棋士業ともに鈴木の天職。将棋関係誌には、筆者「鈴木輝彦」の名が頻繁に見られる。本人によると、前述の二段時代の入院時に毎日読書ばかりしていたのが、文筆活動のベースになっているとのこと[1]。
- 1997年、将棋世界に連載した「棋士それぞれの地平」により、将棋ペンクラブ大賞・一般部門:佳作。
- マジックのプロフェッショナル(SAM)である[1]。
- 1999年から日本将棋連盟が会員制通信対局、プロ棋士の指導対局、将棋関連のデジタルデータのメンテナンスおよび管理を行う会社、日本将棋ネットワーク株式会社(略称「NSN」)の代表取締役社長を務める。
- 谷川治恵がNHK杯テレビ将棋トーナメントの司会・聞き手を務めていた頃、鈴木が解説役として出演した際、谷川浩司についての話をしている最中に冗談で「弱い方の谷川さんは元気ですかね」と面と向かって言い、彼女を閉口させた。
- あだなは「ミジンコ」[6]。
昇段履歴
編集主な成績
編集在籍クラス
編集開始 年度 |
順位戦 出典[8]
|
竜王戦 出典[9]
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期 | 名人 | A級 | B級 | C級 | 期 | 竜王 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 5組 | 6組 | 決勝 T |
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1組 | 2組 | 1組 | 2組 | |||||||||||||||
1979 | 38 | C226 | ||||||||||||||||
1980 | 39 | C201 | ||||||||||||||||
1981 | 40 | C118 | ||||||||||||||||
1982 | 41 | B218 | ||||||||||||||||
1983 | 42 | B211 | ||||||||||||||||
1984 | 43 | B215 | ||||||||||||||||
1985 | 44 | B204 | ||||||||||||||||
1986 | 45 | B208 | ||||||||||||||||
1987 | 46 | B211 | 1 | 3組 | -- | |||||||||||||
1988 | 47 | B217 | 2 | 3組 | -- | |||||||||||||
1989 | 48 | B208 | 3 | 3組 | -- | |||||||||||||
1990 | 49 | B112 | 4 | 4組 | -- | |||||||||||||
1991 | 50 | B201 | 5 | 4組 | -- | |||||||||||||
1992 | 51 | B213 | 6 | 4組 | -- | |||||||||||||
1993 | 52 | B214 | 7 | 4組 | -- | |||||||||||||
1994 | 53 | B212 | 8 | 4組 | -- | |||||||||||||
1995 | 54 | B217 | 9 | 4組 | -- | |||||||||||||
1996 | 55 | B221 | 10 | 4組 | -- | |||||||||||||
1997 | 56 | F宣 | 11 | 5組 | -- | |||||||||||||
1998 | 57 | F宣 | 12 | 5組 | -- | |||||||||||||
1999 | 58 | F宣 | 13 | 6組 | -- | |||||||||||||
2000 | 59 | F宣 | 14 | 6組 | -- | |||||||||||||
2001 | 60 | F宣 | 15 | 6組 | -- | |||||||||||||
2002 | 61 | F宣 | 16 | 6組 | -- | |||||||||||||
2003 | 62 | F宣 | 17 | 6組 | -- | |||||||||||||
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。 順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 ) 順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。 竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。 |
棋戦
編集表彰等
編集- 1999年 - 通算300勝達成(1999年7月28日)[10]
- 2003年 - 現役勤続25年表彰
著書
編集- 将棋戦法小事典(1992年11月、木本書店、ISBN 4-90568-936-8)
- 続・将棋戦法小辞典(1994年12月、木本書店、ISBN 4-90568-951-1)
脚注
編集- ^ a b c d 将棋世界2000年1月号付録
- ^ 当期は、伊藤果も同様の理由で7勝3敗の成績でありながら3位となりC級1組昇級を決めた。3敗でのC級1組昇級は珍しく、鈴木及び伊藤を最後に出ていない。
- ^ 2004年3月31日付引退の棋士として「鈴木輝彦 七段(49)引退届提出により」とある。日本将棋連盟 - ウェイバックマシン(2004年3月29日アーカイブ分)
- ^ 現役員名簿 - 日本将棋連盟・2017年5月29日
- ^ 羽生善治五冠(当時)「また使わせて頂きます」 - 将棋ペンクラブログ・2014年7月27日
- ^ 能智映『愉快痛快 棋士365日」(日本将棋連盟)P.147
- ^ “2010年4月1日付昇段・昇級者|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
- ^ 「名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。
- ^ 「竜王戦」『日本将棋連盟』。
- ^ 『近代将棋(1999年10月号)』近代将棋社/国立国会図書館デジタルコレクション、171頁 。