貫井清憲
貫井 清憲(ぬくい きよのり、1892年〈明治25年〉4月28日[1][2] - 1984年〈昭和59年〉8月3日[1][3])は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県児玉郡若泉村長、同阿久原村長、同神泉村長。
貫井清憲 ぬくい きよのり | |
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生年月日 | 1892年4月28日 |
出生地 |
日本 埼玉県児玉郡若泉村 (現・神川町) |
没年月日 | 1984年8月3日(92歳没) |
出身校 | 群馬県立富岡中学校卒業 |
前職 | 実業家 |
所属政党 |
(立憲政友会→) 自由党 |
選挙区 | 旧埼玉3区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1952年10月1日 - 1953年3月14日 |
神泉村長 | |
当選回数 | 7回 |
在任期間 | 1954年 - 1982年 |
阿久原村長 | |
在任期間 | 1953年 - 1954年 |
埼玉県会議員 | |
選挙区 | 児玉郡選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1932年1月 - 1940年1月 |
若泉村長 | |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1929年 - 1946年 |
その他の職歴 | |
若泉村会議員 (1922年 - 1947年) |
経歴
編集埼玉県児玉郡若泉村(のち阿久原村を経て神泉村、現:児玉郡神川町)で生まれる[1]。1910年(明治43年)、群馬県立富岡中学校を卒業[1][3]。
実業家としては1920年(大正9年)から9年間鬼石銀行(現・群馬銀行)取締役を、1922年(大正11年)から18年間上武自動車社長を、1933年(昭和8年)から8年間児玉郡乾繭組合長をそれぞれ務めた[2]。また、1943年(昭和18年)に上信電鉄取締役に、1951年(昭和26年)に武蔵野銀行取締役にそれぞれ就任した[2]。そのほか、埼玉県森林組合連合会常務理事、若泉村酪農組合長、埼玉酪農業協同組合顧問、埼玉県緬羊協会長、鬼石製材社長、若泉製材工業会社取締役社長、埼玉県農業委員などを務めた[1][3]。
政界では、1922年から1947年(昭和22年)まで若泉村会議員を6期務めた[2]。1929年(昭和4年)から公職追放の1946年(昭和21年)まで同村長を5期務めた[2]。1932年(昭和7年)に児玉郡選挙区から立憲政友会所属で埼玉県会議員に当選した[2][4]。同年1月から1940年(昭和15年)1月まで2期務めた[2]。同年の選挙にも立候補したが、次点で落選した[5]。1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で旧埼玉3区に自由党所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた[1][3]。1953年(昭和28年)の第26回衆議院議員総選挙にも立候補したが、落選した[6]。その後、同年から阿久原村長となり、1954年(昭和29年)に市町村合併で成立した神泉村長となった[2]。1982年(昭和57年)6月24日に引退を表明した[7]。村長は7期務めた[8]。
親族
編集脚注
編集- ^ a b c d e f 『埼玉人物事典』618頁。
- ^ a b c d e f g h 『埼玉県議会史 6巻 487コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』484頁。
- ^ 『埼玉県議会百年史 231コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『埼玉県議会百年史 232コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『荒舩清十郎写真集 82コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『埼玉年鑑 昭和58年版 本編 33コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『埼玉年鑑 昭和60年版 本編 140コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『産業と環境 11(12)(121) 10コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『埼玉県議会史 第10巻 825コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
編集- 埼玉県教育委員会編『埼玉人物事典』埼玉県、1998年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。