莫 徳恵(ばく とくけい)は中華民国の政治家。初めは北京政府奉天派に属し、後に国民政府に転じた。柳沈。満洲族、莫特哈利氏。署名は柳園。祖籍は吉林将軍管轄区阿勒楚喀副都統管轄区双城堡(現在の黒竜江省ハルビン市双城区)。

莫徳恵
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1883年4月16日
光緒9年3月初10日)
死去: 1968年民国57年)4月17日
中華民国の旗 中華民国台北市
出身地: 清の旗 新疆省
職業: 政治家
各種表記
繁体字 莫德惠
簡体字 莫德惠
拼音 Mò Déhuì
ラテン字 Mo Teh-hui
注音二式 Mò Déhuèi
和名表記: ばく とくけい
発音転記: モー ドゥーフイ
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事跡

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1907年光緒34年)、天津北洋高等巡警学堂に入学する。3年後に卒業して、浜江(現在のハルビン)巡警局局長、双城県知事を歴任した。

中華民国成立後の1913年民国2年)、衆議院議員に当選する。1917年(民国6年)12月、吉林省官産処処長となる。1922年(民国11年)、東三省保安司令部諮議となり、さらに省立東北大学校長もつとめた。1925年(民国14年)3月、蒙蔵院副総裁に任命され、5月には農商部次長となる。翌年4月、張作霖から奉天省省長に任命された。1927年(民国16年)10月、潘復内閣の農工総長に任命され、翌年6月の北京政府崩壊までその任にあった。

国民政府成立後の1929年(民国18年)1月、東北政務委員会委員兼中東鉄路(東清鉄道)督弁に任じられた。翌年、中ソ交渉において中国側首席全権代表を務めている。1938年(民国27年)以降、4期にわたって国民参政会参政員となる。1941年(民国30年)、川康建設期成会西昌弁事処主任に任じられた。1946年(民国35年)1月、中国政治協商会議(旧政協)に出席する。その後も行憲国民大会代表、憲政督導委員会会長などを歴任した。

国共内戦中国国民党が敗北すると、莫徳恵も台湾に逃れた。1954年(民国43年)9月、考試院長に就任し、1966年(民国55年)8月までその地位にあった。この他にも、引き続き国民大会代表となり、また、総統府資政中国語版光復大陸設計研究委員会副主任委員などを歴任している。

1968年(民国57年)4月17日、台北市で死去。享年86(満85歳)。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
   中華民国北京政府
先代
劉尚清
農工総長
1927年10月 - 1928年6月
次代
(廃止)
   中華民国国民政府
先代
賈景徳
考試院長
1954年9月 - 1966年8月
次代
孫科