織田信富
織田 信富(おだ のぶとみ)は、江戸時代中期の大名。上野国小幡藩6代藩主。通称は主膳、靭負。官位は従五位下・和泉守。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保8年(1723年) |
死没 | 明和元年6月7日(1764年7月5日) |
改名 | 長英(初名)→信富 |
別名 | 通称:主膳、靭負 |
官位 | 従五位下・和泉守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重→家治 |
藩 | 上野小幡藩主 |
氏族 | 織田氏(信雄系信良流) |
父母 |
父:織田信就 養父:織田信右 |
兄弟 |
信房、信常、信乗、信右、長顕、信富、津田長季、津田正春正室ら8男3女 養兄弟:信賁、信尹、九鬼隆貞継室 |
妻 | なし |
子 | 養子:呉姫、信邦 |
生涯
編集4代藩主・織田信就の七男として誕生。初名は長英。
5代藩主の兄信右の長男であった信賁の死去に伴い、宝暦7年(1757年)12月11日、信右の養子となった。宝暦8年(1758年)3月1日に9代将軍・徳川家重に御目見し、12月18日に従五位下和泉守に叙任された。宝暦9年(1759年)11月11日、信右の隠居により家督を継いだ。宝暦11年(1761年)8月11日、藩主として初めてお国入りを許可される。明和元年(1764年)6月7日死去、享年42。
兄たちと同様に病弱な上[1]、正室、子女ともになかった。丹波国柏原藩分家の高家旗本・織田信栄の四男・信邦が末期養子として家督を継いだ。
系譜
編集正室・子女ともになし
父母
養子、養女