笑福亭鶴二
当代以前に、少なくとも3人の「笑福亭鶴二」の存在が確認されている。
それ以前
編集月亭春松編の落語系圖には4代目笑福亭松鶴の門人に確認できる。俗に「ひきうそ(ひき臼)」という。それ以前にもいたと思われるが何人いたか不明。
先々代
編集笑福亭 鶴二(しょうふくてい つるじ、1901年 - 1979年1月9日)本名は中田 和三郎。
本名 | 中田 和三郎 |
---|---|
別名 | 中田つるじ |
生年月日 | 1901年 |
没年月日 | 1979年1月9日 |
師匠 | 4代目笑福亭松鶴 5代目笑福亭松鶴 |
活動期間 | 1916年 - 1979年 |
活動内容 | 落語家 寄席囃子鳴物方 |
受賞歴 | |
文化庁芸術祭優秀賞(1975年) 第5回上方お笑い大賞功労賞 | |
物心付いたころから寄席通いをし、学校そっちのけで素人落語をやっていた。 後に玄人として、1916年に4代目松鶴の門下になり、鶴二と名乗った。 その後5代目笑福亭松鶴の門下になった。
大正末期から噺家に見切りをつけて、寄席囃子鳴物方に転じる。戦後になって、中田つるじと改名し「つるじ社中」を主催、鳴物の保存に力を入れた。
1975年、文化庁芸術祭優秀賞受賞、第5回上方お笑い大賞の功労賞などの受賞も多い。
没後「つるじ社中」は林家市染が「なにわの会」として受け継いだ。
先代
編集当代
編集 五枚笹は、笑福亭一門の定紋である。 | |
本名 | |
---|---|
生年月日 | 1968年3月30日(56歳) |
出生地 | 日本・大阪市生野区 |
師匠 | 六代目笑福亭松鶴 |
名跡 | 1. 笑福亭鶴児 (1986年 - 1998年) 2. 笑福亭鶴二 (1998年 - ) |
出囃子 | 独楽 |
活動期間 | 1987年 - |
活動内容 | 上方落語 |
所属 | 松竹芸能 |
受賞歴 | |
1998年「なにわ芸術祭新進落語家競演会」新人奨励賞 | |
備考 | |
上方落語協会会員 | |
笑福亭 鶴二(しょうふくてい つるじ、1968年3月30日 - )は大阪市生野区出身の落語家。本名は上田 忠正。出囃子は「独楽」。所属事務所は松竹芸能。上方落語協会会員。六代目笑福亭松鶴最後の弟子。
来歴
編集実家は北巽駅前の「みさを寿司」(2024年11月閉店)[2][3]。
近畿大学付属高等学校卒業。
1986年3月1日に六代目笑福亭松鶴に入門。1987年9月の道頓堀「浪花座」にて「笑福亭鶴児」として初舞台。
「新鋭・上方落語会」(旧・RG研進会)のメンバー。
逸話
編集血液型はAB型。
- 中学1年の時に道頓堀角座で観た師匠6代目松鶴の「らくだ」に衝撃を受け、中学3年で弟子入りを申し出、休日ごとに通っていた。
- 正式入門後、半年で六代目松鶴が亡くなったため、兄弟子の笑福亭松葉(没後、七代目松鶴を追贈)、次いで四代目林家染丸にも稽古をつけてもらった。
- 『茶屋町MBS劇場』(MBSラジオ)2016年11月26日放送分で流されたラジオドラマ「上方落語四天王 さえずり噺〜ああ、青春の上方落語〜」では六代目松鶴を演じた。
- 三味線・日本舞踊(花柳旭夓門下)も得意。
弟子
編集廃業
編集受賞歴
編集出演
編集- hanashikaの時間。(2019年4月 - 、ラジオ大阪) - 木曜日パーソナリティ。
脚注
編集注釈
編集- ^ これは文枝が上方落語の分裂事件(詳細は三友派#浪花新生三友派を参照)の際に師匠の4代目桂文枝と行動をともにせず5代目松鶴の預かり弟子となった(これは4代目文枝と5代目松鶴の了解を得ていた)ことが尾を引いて、5代目松鶴の没後に噺家を廃業、結核の闘病生活(1951年から約2年間)ののちに落語を演じる際、元の芸名「桂あやめ」では立場上問題があることから、前記の先々代鶴二(当時は中田つるじ)が自分のかつての高座名を便宜的に与えたものだった[1]。中田つるじは4代目文枝にあやめの復帰を持ちかけて承諾され、1954年3月より3代目桂小文枝を名乗ることになった[1]。5代目文枝が笑福亭鶴二の名前で落語会に出たのは「二、三回」という[1]。
出典
編集出典
編集- 月亭春松(編)『落語系圖』
- 戸田学『上方落語の戦後史』岩波書店、2014年
- 協会員プロフィール:笑福亭鶴二 - 公益社団法人 上方落語協会公式サイト
関連項目
編集外部リンク
編集- 笑福亭鶴二のほのぼの亭 - 公式サイト
- 笑福亭鶴二 (@tsuru2chan) - X(旧Twitter)