秋元 喬知(あきもと たかとも)は、江戸時代前期から中期の大名甲斐谷村藩主、武蔵川越藩主。老中元禄12年(1699年)から正徳4年(1714年)まで務めた。館林藩秋元家4代。実父の戸田忠昌、実弟の戸田忠真と共に老中を務めた。

 
秋元喬知
秋元喬知肖像(光厳寺所蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 慶安2年(1649年
死没 正徳4年8月14日1714年9月22日[1]
改名 甚九郎(幼名)→喬知
別名 喬朝[2]
戒名 済川院殿義舟喬知大居士
墓所 群馬県前橋市総社町総社の光巌寺
官位 従五位下但馬摂津守、
従四位下侍従
従三位
幕府 江戸幕府奏者番寺社奉行若年寄老中
甲斐谷村藩主→武蔵川越藩
氏族 戸田氏秋元氏
父母 父:戸田忠昌、母:秋元富朝
養父:秋元富朝
兄弟 喬知戸田忠真戸田忠定戸田忠章戸田忠恒
秋元忠朝の娘
武朝喬房朽木稙元正室、
秋田就季正室、戸田忠昌養女
養子:深受院秋元成朝娘、有馬一準正室)
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生涯

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下総佐倉藩戸田忠昌の長男[3]。男子のなかった外祖父の谷村藩主秋元富朝の養子となる。奏者番から寺社奉行若年寄老中を歴任する。5代将軍徳川綱吉、6代将軍・家宣の2代にわたって仕えた。土木行政に手腕を発揮し、江戸城三の丸建設や護国寺寛永寺中堂、厳有院仏殿などの造営奉行、元禄大地震の復興総奉行を担当した。また好学の名君であり、将軍綱吉に進講することもあった。

綱吉亡き後に将軍になった家宣の側近である新井白石間部詮房正徳の治を支持した数少ない閣老であり、老中退任後も白石・詮房派として閣内に隠然たる影響力を残した。宝永4年(1707年)に八瀬童子天台座主公弁法親王の争いに裁定を下し、宝永5年(1708年)には禁裏造営奉行を、白石が発議した正徳金鋳造の総奉行を担当した。

甲斐国谷村藩主時代の秋元氏は、甲斐都留郡における用水堰の開発や郡内織の生産奨励などを行っているが、喬知の時代には河口湖から新倉村(富士吉田市)まで用水を引く新倉掘抜を着工したと言われている。川越藩主としては殖産政策で知られる。

経歴

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※日付は明治4年までは旧暦

  • 1657年明暦3年)10月2日、養父富朝没後、9歳で遺領の甲斐谷村藩1万8,000石を継ぎ、4代将軍家綱に謁する。
  • 1677年延宝5年)7月3日、幕府奏者番となる。
  • 1681年天和元年)11月29日、寺社奉行を兼帯。
  • 1682年(天和2年)10月16日、若年寄に異動。
  • 1691年元禄4年)2月3日、下野都賀郡内において5000石加増。
  • 1694年(元禄7年)12月10日、河内八上郡内において7000石加増。
  • 1699年(元禄12年)10月6日、老中に異動。
  • 1700年(元禄13年)3月7日、下野足利郡都賀郡内及び河内丹南丹北郡四郡内において1万石加増。
  • 1704年宝永元年)、元禄地震復興に功績ありとして、12月1日、河内丹南丹北八上三郡において1万石加増。
  • 1711年正徳元年)12月1日、武蔵入間高麗榛澤足立埼玉河内国丹南丹北八上の八郡内において1万石を加増。合計6万石。同月25日、武蔵川越城を賜う。
  • 1714年(正徳4年)8月14日、老中在職中に死去。享年66。
  • 1912年大正元年)11月19日、政府より贈従三位。

官歴

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※日付は旧暦

  • 1660年万治3年)12月28日、従五位下但馬守に叙任。
  • 1665年寛文5年)12月26日、摂津守に遷任。
  • 1685年貞享2年)10月21日、但馬守に還任。
  • 1699年(元禄12年)12月5日、従四位下に昇叙。但馬守如元。
  • 1700年(元禄13年)12月4日、侍従兼任。

系譜

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父母

正室

子女

養子

脚注

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  1. ^ 秋元喬知』 - コトバンク
  2. ^ 賞延武鑑(正徳三年)秋元家系譜より
  3. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 18頁。

関連項目

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関連作品

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