私部 (交野市)
私部(きさべ)は、大阪府交野市の地名。現行行政地名は大字私部、私部1丁目から8丁目、私部西(きさべにし[3])1丁目から5丁目、私部南(きさべみなみ[3])1丁目から4丁目[2]。大字私部以外で住居表示実施済み[6]。
私部 | |
---|---|
北緯34度47分16.6秒 東経135度40分47.8秒 / 北緯34.787944度 東経135.679944度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 大阪府 |
市町村 | 交野市 |
面積 | |
• 合計 | 2.6505 km2 |
人口 | |
• 合計 | 12,489人 |
• 密度 | 4,700人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 | |
市外局番 | 072(寝屋川MA)[4] |
ナンバープレート | 大阪[5] |
地理
編集私部は免除川左岸の地名[7]。私部(以下、本節では特記ない場合私部1–8丁目)は交野市の北西に位置しており、京阪交野線を挟んで西に私部西と接し、私部西部の南側で私部南と接している[8]。私部の西から北側に掛けて梅が枝や郡津、幾野、倉治と隣接し、東から南に掛けて青山や向井田と接する[8]。私部南の南側には寺南野や森北が隣接し、私部南の西・私部西の南には天野が原町、星田北がある[8]。また、私部西は西側で枚方市と接している[8]。
大字私部は交野市の東端に位置し、大字傍示を挟んで南北に分かれている[8]。東に奈良県生駒市と接し、大字私部の北部は北に大字倉治と接する[8]。北部は大字傍示の他、大字寺にも接し、大字私部の南部は大字傍示の他に大字森や大字私市とも隣接している[8]。
河川
編集歴史
編集織豊期以前の私部
編集河内国交野郡の郷として、室町時代より私部郷の名が見える[7]。応永21年(1414年)の光通寺鐘銘に「河州交野郡私辺村」とあり、これが私部の初見となる[7]。私部にある光通寺は後村上天皇の勅願所で、応永18年(1411年)には足利義持により将軍家の祈祷寺にもなっている[11]。また、私部には光通寺だけでなく交野郡三宅山(交野市[12])を領する石清水八幡宮も勢力を及ぼしており[13]、永享5年(1433年)の石清水八幡宮駕輿丁前床神人交名には「下私部」の神人として4人の名が記載されている[14]。
永正15年(1518年)、「私部郷地下人」が石清水八幡宮の造営用材伐採を妨害したとして、その停止を命じる室町幕府奉行衆下知状が出された[14]。大永8年(1528年)の室町幕府奉行人奉書には、光通寺の僧が石清水八幡宮領を押領した旨が書かれており、光通寺と石清水八幡宮の間で対立が生じていた様子がうかがえる[15]。
また、戦国時代には「牧・交野一揆」という言葉が文献に見られるようになる[16]。天文11年(1542年)に三好政長が、天文15年(1546年)には細川氏綱がその軍事動員を期待しており、それら一揆は一定の軍事力を有していた[17][16]。これらのうち、牧一揆の中心地は招堤寺内町(枚方市招堤)で、交野一揆の中心地は私部郷だったと考えられる[16]。
永禄11年(1568年)、「於河州交野郡私部郷之内、鷹山当知行闕所分事」として、篠原長房から鷹山藤寿に諸課役を免除する書状が与えられている[18]。これにより、傍示越で私部とつながる[19]大和国鷹山(奈良県生駒市高山町[20])の鷹山氏が私部に所領を持っていたことがわかる[21]。
元亀元年(1570年)になると、文献上に私部城(交野城)の姿が見られるようになる[22]。城主は安見右近で、足利義昭・織田信長により再興された室町幕府の下で反幕府勢力に相対する城として、畠山秋高の高屋城や三好義継の若江城と共に私部城の名が挙げられている(『信長公記』)[23]。元亀2年(1571年)、右近は松永氏により奈良で自害させられ、私部城は松永勢により攻められた[24]。元亀3年(1572年)、織田勢により私部城は救援されている[24]。
安見右近に代わり私部城を守った[25]安見新七郎は、織田政権下で有力領主の地位にあり、天正9年(1581年)の馬揃にも招集されている[26]。しかし、天正10年(1582年)に明智光秀に味方して没落したのか、それ以降姿が見えない[27]。天正12年(1584年)には、その本拠であった私部は豊臣家の蔵入地となっている[27]。
江戸時代以降
編集江戸時代には私部村と称される[7]。西株(村高のうち1,077石余)は元和5年(1619年)より旗本畠山氏が知行し、東株(501石)は寛永10年(1633年)から大坂町奉行役知、元禄3年(1690年)から幕府領、元禄7年(1694年)から相模小田原藩の大久保氏領となった[7]。なお、文禄2年(1593年)の時点で「河内国交野郡私部村之内七百石之事」として徳川秀忠から畠山義春に知行が与えられている[7]。
私部村の鎮守は住吉神社(産土神社)で、村内の寺院として臨済宗光通寺、浄土宗想善寺、浄土真宗本派無量光寺があった[7]。
1881年(明治14年)、私部村は大阪府に所属し、1889年(明治22年)、交野村の大字私部となった[7]。
1929年(昭和4年)、信貴生駒電鉄(現在の京阪交野線)が開通し、交野駅(現・交野市駅)が設置された[7]。
地名の由来
編集皇后の部に「私部」があり、当地の地名はそれに由来するとされる[7][28]。『交野市史』によると、交野の地は物部守屋から敏達天皇の后・豊御食炊屋姫(後の推古天皇)に献上された土地で、交野の村々は皇后の部民となった[28]。私部や隣接する私市はそれらの村の中心だったと考えられる[28]。
当初は「きさいちべ」と呼ばれていた地名が、転訛して「きさべ」になったものと推測される[28]。
沿革
編集- 1889年(明治22年) - 交野村の大字となる[7]。
- 1939年(昭和14年) - 交野町の大字になる[7]。
- 1966年(昭和41年) - 天野が原が分離[7]。
- 1968年(昭和43年) - 梅が枝が分離[7]。
- 1971年(昭和46年) - 交野市の大字になる[7]。
- 1973年(昭和48年) - 天野が原町1–3丁目が分離[7]。
- 1974年(昭和49年) - 幾野1–2丁目が分離[7]。
- 1975年(昭和50年) - 青山1–5丁目、向井田1–3丁目が分離[7]。
- 1976年(昭和51年) - 郡津4丁目が分離[7]。
- 1978年(昭和53年) - 森北1丁目が分離[7]。
- 1980年(昭和55年) - 倉治2丁目、神宮寺1–2丁目が分離[7]。
- 1982年(昭和57年)10月10日 - 山間部を除く大字私部・大字寺・大字森・大字私市・大字郡津が、住居表示の整備に伴い、私部・私部西・私部南の町名となる[29]。
世帯数と人口
編集2024年(令和6年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
大字私部 | 0世帯 | 0人 |
私部1-8丁目 | 3,567世帯 | 8,005人 |
私部西1-5丁目 | 1,503世帯 | 3,168人 |
私部南1-4丁目 | 550世帯 | 1,316人 |
計 | 5,620世帯 | 12,489人 |
学区
編集市立の小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[30]。
町丁 | 番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
私部1-8丁目 | 全域 | 交野市立交野みらい小学校 | 交野市立第一中学校 |
私部西1-4丁目 | 全域 | ||
私部西5丁目 | 1-20番 | ||
私部南1-4丁目 | 全域 | ||
私部西5丁目 | 21-32番、982番地1及び2 | 交野市立藤が尾小学校 | 交野市立第四中学校 |
施設・園地
編集寺社
編集史跡
編集交通
編集鉄道
編集バス
編集道路
編集脚注
編集- ^ “大阪府交野市 (27230) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット”. Geoshapeリポジトリ. ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター. 2024年10月21日閲覧。
- ^ a b c “住民記録 人口世帯集計表”. 交野市ホームページ. 交野市の人口・世帯数(令和5年度分). 交野市 (2024年4月3日). 2024年10月21日閲覧。
- ^ a b c d e f “大阪府 交野市の郵便番号”. 日本郵便株式会社. 2024年10月21日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2024年10月21日閲覧。
- ^ “運輸支局等・自動車検査登録事務所と管轄地域”. 近畿の運輸支局・自動車検査登録事務所の管轄地域. 近畿運輸局 (2023年6月8日). 2024年10月21日閲覧。
- ^ a b “Ⅰ地勢”. 交野市ホームページ. 交野市統計書「統計時報」. 交野市 (2024年5月17日). 2024年10月21日閲覧。
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- ^ “免除川 (8606040152) 淀川水系 地図 | 国土数値情報河川データセット”. Geoshapeリポジトリ. ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター. 2024年10月21日閲覧。
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- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, pp. 365, 468; 小谷 2015, p. 318.
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- ^ 小谷 2015, p. 318.
- ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, p. 365; 小谷 2015, p. 318.
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- ^ a b c 馬部 2019, pp. 629–631.
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- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, p. 365; 小谷 2015, 史料96.
- ^ 小谷 2015, p. 320.
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 29 奈良県』角川書店、1990年、662–663頁。ISBN 4-04-001290-9。
- ^ 小谷 2015, pp. 319–320, 324.
- ^ 小谷 2015, p. 317.
- ^ 小谷 2015, pp. 324–325; 馬部 2019, p. 636.
- ^ a b 小谷 2015, p. 325; 馬部 2019, pp. 642–644.
- ^ 小谷 2015, p. 325; 馬部 2019, pp. 643–644.
- ^ 馬部 2019, p. 644.
- ^ a b 馬部 2019, p. 649.
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- ^ “くろんどの森”. 大阪府民の森. 2024年10月21日閲覧。
- ^ “私部公園、倉治公園のネーミングライツパートナーが決定!”. 交野市ホームページ (2022年11月1日). 2024年10月21日閲覧。
- ^ “パシオン情熱Stadium(私部公園)”. 交野市ホームページ (2022年11月15日). 2024年10月21日閲覧。
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- ^ “想善寺”. マピオン電話帳. 株式会社ONE COMPATH. 2024年10月21日閲覧。
- ^ “無量光寺”. マピオン電話帳. 株式会社ONE COMPATH. 2024年10月21日閲覧。
- ^ “妙宗寺”. マピオン電話帳. 株式会社ONE COMPATH. 2024年10月21日閲覧。
- ^ “槃若寺”. マピオン電話帳. 株式会社ONE COMPATH. 2024年10月21日閲覧。
- ^ “稱恩寺”. マピオン電話帳. 株式会社ONE COMPATH. 2024年10月21日閲覧。
- ^ “住吉神社”. マピオン電話帳. 株式会社ONE COMPATH. 2024年10月21日閲覧。
- ^ “市指定史跡・私部城跡(イオ光テレビ「村瀬先生のぶらり歴史歩き」ご来訪)”. 交野市ホームページ. 交野市 (2024年7月23日). 2024年10月21日閲覧。
- ^ “交野市(かたのし):駅情報”. 京阪グループ. 2024年10月21日閲覧。
- ^ “交野営業所(北部地区)管内路線図”. 京阪バス株式会社 (2024年10月6日). 2024年10月21日閲覧。