神岡町 (岐阜県)
神岡町(かみおかちょう)は、かつて岐阜県吉城郡にあった町[1]。神岡鉱山の町として栄えた。
かみおかちょう 神岡町 | |||||
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廃止日 | 2004年2月1日 | ||||
廃止理由 |
新設合併 古川町・神岡町・宮川村・河合村 → 飛騨市 | ||||
現在の自治体 | 飛騨市 | ||||
廃止時点のデータ | |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 中部地方、東海地方 | ||||
都道府県 | 岐阜県 | ||||
郡 | 吉城郡 | ||||
市町村コード | 21625-9 | ||||
面積 |
312.34[1] km2 (境界未定部分あり) | ||||
総人口 |
10,827人 (2004年1月1日) | ||||
隣接自治体 |
宮川村、古川町、国府町、上宝村 富山県 細入村、大沢野町、大山町 | ||||
町の木 | ヒメコマツ | ||||
町の花 | タンポポ | ||||
町の鳥 | スズメ | ||||
神岡町役場 | |||||
所在地 |
〒506-1111 岐阜県吉城郡神岡町大字東町378番地 (現在の飛騨市役所神岡振興事務所) | ||||
外部リンク | 神岡町(インターネットアーカイブ) | ||||
座標 | 北緯36度19分55秒 東経137度18分05秒 / 北緯36.33197度 東経137.30128度座標: 北緯36度19分55秒 東経137度18分05秒 / 北緯36.33197度 東経137.30128度 | ||||
ウィキプロジェクト |
1950年(昭和25年)6月10日、吉城郡船津町、阿曽布村、袖川村が合併して誕生した[1]。2004年(平成16年)2月1日、吉城郡古川町、宮川村、河合村と合併して飛騨市が発足し、神岡町は廃止された。
地理
編集岐阜県の北東端に位置し、山岳に囲まれた河岸段丘に市街地がある。亜鉛を産出した神岡鉱山があり、この町は特に近世以降は鉱山の町として栄えた。
市街地を神通川の支流高原川と、そのさらに支流の吉田川・山田川が流れ、また町の北部には同じく高原川の支流である跡津川が流れている。
跡津川の支流の打保谷川上流に山之村地区があるが、川沿いに道はなく、市街地から10km以上離れている上どこから行くにも峠越えになり冬季になると往来可能な道が一つだけになるため、年々過疎化が進んでいる。
地形
編集- 山岳
- 河川
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高原川
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船津の商店街
歴史
編集中世
編集室町時代に神岡を含む高原郷を支配したのは、幕府政所執事伊勢氏に近かった江馬氏であった。江馬氏は町内にあたる高原諏訪城を居城として高原郷内にいくつかの支城を設けていた。
戦国時代にはいると同じ飛騨国内の三木氏との対立を深め、最後には三木氏に従うこととなった。しかし天正13年(1585年)には豊臣秀吉の家臣である金森長近によって三木氏も降伏させられ、江馬氏も同時に滅びることとなった。金森氏がはじめて飛騨に入ったのは天正14年(1586年)のことであった。金森氏は飛騨国を治めるにあたって、茂住宗貞を登用するなどして資源の開発に力を注いだので、当地の鉱山もこの時期発展を見ることとなった。文禄年間・慶長年間には茂住銀山(のちの茂住坑)が最盛期を迎え、当時は1000戸以上の家々があったといわれるが、その後茂住銀山は衰退し、戸数も激減を見ることとなった。
近世
編集当町の鉱山が再び賑わいを見せるようになるのは江戸時代のことで、これは江戸幕府が財政難のため、地下資源の開発を命じたことによる。茂住銀山だけでなく和佐保銀山(のちの栃洞坑)も人口が増加し、再びこの地の鉱山が活気付いたのである。
近代
編集明治初期、神岡の鉱山採掘は零細な山師がそれぞれ数坑を持ち行うといった形態だった。1874年(明治7年)には三井組が神岡鉱山蛇腹平坑を取得すると、次々に山師から坑を買収していき、ついに1886年(明治19年)には和佐保すべてを、ついで1889年(明治22年)には茂住のすべてを手に入れ、これをもって神岡鉱山全山が三井の所有となった。三井組は神岡鉱山に多くの資本を投入し、最先端の技術による大規模な採掘を行った。
1895年(明治27年)の船津大火では735戸が焼失し、船津町役場、船津郵便局、銀行、円城寺、大津神社なども焼失した。1920年(大正9年)には高原川の大洪水が起こり、47戸が流出して17人の死者を出した。1929年(昭和4年)の船津大火では594戸が焼失し、1932年(昭和7年)の川西大火では320戸が焼失している。
現代
編集神岡鉱山から流出したカドミウムは高原川を通じて神通川に流れ込み、大正時代には神通川下流の富山県で公害が表面化した。戦後の1968年(昭和43年)にはイタイイタイ病が国の公害病に認定され、三井金属鉱業と被害者の間で長期間にわたる訴訟が行われた。
1970年(昭和45年)には神岡城の模擬天守が建設され、神岡城などからなる高原郷土館が開館した。1973年(昭和48年)には江馬氏の館伝承地の発掘調査が開始され、1980年(昭和55年)には江馬氏城館跡が国の史跡に指定された。
1983年(昭和58年)、鉱山跡地の一つを利用して、ニュートリノ観測所カミオカンデがつくられた。1996年(平成8年)にはスーパーカミオカンデが稼動し、カミオカンデの跡地にはカムランドがつくられた。2001年(平成13年)には神岡鉱山が採掘を停止した。
行政区画の変遷
編集教育
編集高等学校
編集- 岐阜県立飛騨神岡高等学校 - 1997年4月1日、岐阜県立船津高等学校と神岡町立神岡工業高等学校の統合によって誕生。
中学校
編集小学校
編集図書館
編集2004年以前に廃校となった学校
編集- 神岡町立茂住中学校(1968年廃校)
- 神岡町立漆山中学校(1975年廃校)
- 神岡町立大津山中学校(1975年廃校)
- 神岡町立栃洞中学校(1977年廃校)
- 神岡町立山田中学校(1978年廃校)
- 神岡町立森茂小中学校(1982年廃校)
- 神岡町立下之本小中学校(1982年廃校)
- 神岡町立寺林小学校(1963年廃校)
- 神岡町立麻生野小学校(1966年神岡西小へ統合)
- 神岡町立漆山小学校佐古分校(1970年)
- 神岡町立吉田小学校(1971年廃校)
- 神岡町立漆山小学校(1975年廃校)
- 神岡町立漆山小学校跡津川分校(1965年廃校)
- 神岡町立大津山小学校(1975年廃校)
- 神岡町立栃洞小学校(1983年廃校)
- 神岡町立茂住小学校(1984年廃校)
- 神岡町立茂住小学校谷分校(1963年廃校)
交通
編集鉄道
編集神岡鉄道神岡線
編集富山県婦負郡細入村(現・富山市)の猪谷駅から、高原川をさかのぼる形で神岡町の中心部まで、19.9キロメートルの神岡鉄道神岡線がのびていた。列車は一日におよそ10往復運行されていて、うち3往復は神岡の市街地にあたる奥飛騨温泉口駅から神岡鉱山前駅までのみの運転となっていた。神岡鉄道神岡線は2006年(平成18年)12月1日に廃線となった。飛騨神岡駅は旧船津町の、奥飛騨温泉口駅は旧阿曽布村の中心に近かった。
その他の鉄道
編集また、神岡軌道(1967年廃止)や双六・金木戸森林鉄道(1963年廃止)も町内を走っていた。
道路
編集神岡町の西部には、高原川と神岡鉄道に沿って国道41号が通っていた。その他には国道471号も通っている。冬季には通行止めとなる道路がある。
- 一般国道
- 主要地方道
- 一般県道
- 林道
- 高山大山林道
娯楽
編集名所・旧跡・観光スポット
編集出身者
編集脚注
編集- ^ a b c d 山口恵一郎『日本地名辞典 市町村編』東京堂出版、1980年 ISBN 978-4490101355
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』角川書店、1980年、p. 1209
- ^ a b c 『映画年鑑 1963年版 別冊 映画便覧 1963』時事通信社。1963年の映画館(東海地方)「消えた映画館の記憶」を参照。
- ^ a b c 『神岡町史 写真編』飛騨市教育委員会、2010年、p. 297
- ^ a b 飛騨市教育委員会『神岡町史 通史編Ⅱ』飛騨市教育委員会、2008年、p. 333
- ^ a b 飛騨市教育委員会『神岡町史 通史編Ⅱ』飛騨市教育委員会、2008年、pp. 358-359 全国書誌番号:21462345
- ^ a b 「尾留川正平先生略歴・著作目録」『東京教育大学地理学研究報告』地理学研究会、1975年、第19号、pp. 1-10
- ^ 山本正三 (1978)"尾留川正平先生の逝去を悼む"地理学評論(日本地理学会).51 (11):832-833.
- ^ “★神岡図書館でも開催中!HIDA BOOK MEETING 2016”. Blend*Board (2016年9月23日). 2016年10月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月27日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 神岡振興事務所 - 飛騨市
- 飛騨市公式観光ガイド「飛騨の旅」 神岡街歩きガイド
- 神岡商工会議所
- 神岡町(2004年1月29日アーカイブ) - 国立国会図書館Web Archiving Project