矢島純吉
日本の海軍軍人
矢島 純吉 (やじま じゅんきち、1865年12月16日(慶応元年10月29日) - 1924年(大正13年)5月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将[1]。山形県出身[1]。
奈良県大和神社の神職となり、「大和史料」の編纂に携わった後、生地酒田市の上日枝神社社司を務めた斎藤美澄(さいとう よしずみ)は実兄である[2]。
人物
編集1886年(明治19年)12月7日、海軍兵学校(12期)卒業。1888年(明治21年)海軍少尉に任じられ比叡分隊士となる。以後、佐世保海兵団分隊長心得(海軍中尉)、海軍兵学校水雷術教官(海軍大尉)、横須賀水雷団第1水雷艇隊艇長(海軍少佐)佐世保水雷団佐世保水雷敷設隊司令(海軍中佐)、舞鶴水雷団長(海軍大佐)等を歴任。1911年(明治44年)12月1日、海軍少将に昇進し第5代海軍水雷学校校長に補される。同職を3年ほど務め待命、1915年(大正4年)12月1日、海軍中将に任じられるが、同日付けで予備役編入。1921年(大正10年)10月20日、後備役編入。1924年(大正13年)5月15日 卒去。
年表
編集- 1886年(明治19年)12月7日 - 海軍兵学校(12期)卒業[1] 1988年(明治21年)に江田島に移転する海軍兵学校は、当時築地にあった。卒業式には明治天皇も臨席した。卒業生19名の首席は江頭安太郎で、矢島純吉は9番の成績だった。同年2月から286日をかけて軍艦筑波に乗艦し、ニュージーランド、オーストラリア、ハワイを巡った卒業前の遠洋航海練習について、江頭安太郎が天皇の御前で演述を行った。同期には山屋他人、有馬良橘等がいて、後に江頭安太郎の三男と山屋他人の五女が結婚し、孫には文芸評論家であった江藤淳、曾孫には皇后雅子がいる。卒業式の様子については「時事新報 明治19年12月8日号」、江頭安太郎の演述内容については「同 12月9日号」を参照。
- 1888年(明治21年)
- 1888年(明治21年)4月9日 - 補 日進分隊士 兼 航海士[4]
- 1889年(明治22年)
- 1890年(明治23年)3月25日 - 補 筑波分隊士
- 1891年(明治24年)
- 1892年(明治25年)
- 1893年(明治26年)12月20日 - 補 海軍兵学校水雷術教官 兼 副官
- 1894年(明治27年)12月5日 - 補 呉水雷隊攻撃部艇長
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年)
- 1898年(明治31年)
- 1899年(明治32年)
- 1900年(明治33年)
- 1901年(明治34年)10月1日 - 補 佐世保水雷団佐世保水雷敷設隊司令
- 1902年(明治35年)
- 1903年(明治36年)8月17日 - 補 佐世保水雷団第1水雷艇隊司令
- 1904年(明治37年)9月11日 - 佐世保鎮守府附
- 1905年(明治38年)
- 1905年(明治38年)
- 1906年(明治39年)11月22日 - 補 大湊要港部参謀長[1]
- 1908年(明治41年)2月20日 - 補 出雲艦長
- 1910年(明治43年)
- 1911年(明治44年)
- 1914年(大正3年)12月1日 - 待命[1]
- 1915年(大正4年)12月1日 - 任 海軍中将、予備役編入[1][13]
- 1921年(大正10年)10月20日 - 後備役編入
- 1924年(大正13年)5月15日 - 卒去。墓所は愛宕の青松寺。
栄典・授章・授賞
編集- 位階
- 1891年(明治24年)1月29日 - 正八位[14]
- 1893年(明治26年)1月31日 - 従七位[15]
- 1895年(明治28年)11月26日 - 正七位[16]
- 1898年(明治31年)4月16日 - 従六位[17]
- 1900年(明治33年)8月8日 - 正六位[18]
- 1905年 (明治38年)2月14日 - 従五位[19]
- 1910年 (明治43年)3月22日 - 正五位[20]
- 1915年(大正4年)
- 勲章等
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m 『帝国海軍将官総覧』150頁
- ^ 荘内日報社「郷土の先人・先覚 74」
- ^ a b 『官報』第1362号「叙任及辞令」1888年1月17日。
- ^ 『官報』第1432号「叙任及辞令」1888年4月12日。
- ^ 『官報』第1780号「叙任及辞令」1889年6月7日。
- ^ 『官報』第1833号「叙任及辞令」1889年8月8日。
- ^ 日本海軍はなぜ敗れたのかー連合艦隊誕生から敗戦までの軌跡ー. 徳間書店. p. 30
- ^ 『官報』第2256号「叙任及辞令」1891年1月9日。
- ^ 『官報』第5689号「叙任及辞令」1902年6月23日。
- ^ 『官報』第8121号「叙任及辞令」1910年7月18日。
- ^ 『官報』第8314号「叙任及辞令」1911年3月13日。
- ^ 『官報』第8373号「叙任及辞令」1911年5月23日。
- ^ 『官報』第1001号「叙任及辞令」1915年12月2日。
- ^ 『官報』第2276号「叙任及辞令」1891年2月3日。
- ^ 『官報』第2875号「叙任及辞令」1893年2月1日。
- ^ 『官報』第3725号「叙任及辞令」1895年11月27日。
- ^ 『官報』第4436号「叙任及辞令」1898年4月18日。
- ^ 『官報』第5131号「叙任及辞令」1900年8月9日。
- ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
- ^ 『官報』第8021号「叙任及辞令」1910年3月23日。
- ^ 『官報』第813号「叙任及辞令」1915年4月21日。
- ^ 『官報』第1024号「叙任及辞令」1915年12月29日。
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1895年12月30日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
参考文献
編集- 『官報』
- 『帝国海軍将官総覧』太平洋戦争研究会