田沼意尊
江戸時代後期の大名 (1819-1870)
田沼 意尊(たぬま おきたか)は、江戸時代後期の大名、明治時代初期の華族。
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 文政2年(1819年) |
死没 | 明治2年12月24日(1870年1月25日) |
改名 | 金弥(幼名)、意尊 |
墓所 | 東京都豊島区、駒込の勝林寺 |
官位 | 従五位下・玄蕃頭 |
幕府 | 江戸幕府 若年寄 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 遠江相良藩主→上総小久保藩主 |
氏族 | 田沼氏 |
父母 | 田沼意留 |
兄弟 | 意尊、久留島通容正室 |
妻 | 久留島通嘉娘 |
子 |
智恵、路 意斉、忠千代、望 |
田沼意次の曽孫で遠江国相良藩主、上総国小久保藩初代藩主、同藩初代知藩事。幕末に江戸幕府の若年寄を務めた。官位は従五位下・玄蕃頭。
略歴
編集田沼意留の子として誕生した。天保11年(1840年)7月20日、22歳で家督を相続する。大坂定番を務めた。文久元年(1861年)9月14日、43歳で若年寄に就任する。
元治元年(1864年)、幕府軍総督として水戸藩浪士による天狗党の乱の鎮圧に努め、天狗党退去後には筑波山を占領しているが、部田野の戦いでは敗北した。なお、乱の鎮圧に必要な軍資金の調達に奔走した家老の井上寛司が、借金を返済できなかったために切腹するという出来事があった。翌元治2年(1865年)、越前国敦賀で降伏をした武田耕雲斎らを処刑した。
慶応2年(1866年)10月4日、若年寄を解任された。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いに幕府軍として参陣した。直後の2月に駿遠地方では最も遅く勤王証書を提出した。
明治元年(1868年)9月21日に上総小久保へ移封され、明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により知藩事となった。洋学を取り入れた近代的な藩校創設に尽力した。同年12月24日、51歳で死去した。
系譜
編集父母
- 田沼意留(父)
正室
- 久留島通嘉の娘
子女
養子