源保光
平安時代の公卿。醍醐源氏。代明親王の次男。従二位・中納言。桃園家の祖。
源 保光(みなもと の やすみつ)は、平安時代の公卿。醍醐源氏。代明親王の次男。官位は従二位・中納言。桃園中納言と号す。
時代 | 平安時代 |
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生誕 | 延長2年(924年) |
死没 | 長徳元年5月9日(995年6月9日) |
別名 | 桃園中納言 |
官位 | 従二位、中納言 |
主君 | 村上天皇→冷泉天皇→円融天皇→花山天皇→一条天皇 |
氏族 | 醍醐源氏 |
父母 | 父:代明親王、母:藤原定方の娘 |
兄弟 | 重光、保光、延光、遠光、恵子女王、荘子女王、厳子女王 |
妻 | 不詳 |
子 | 永光、藤原義孝室、藤原懐平室 |
経歴
編集村上朝前期の天暦5年(951年)正月に従四位下に直叙されると、2月には皇孫ながら文章生となる。民部大輔・侍従を歴任したほか、天徳2年(958年)には紀伊権守として地方官も務めた。またこの間の応和3年(963年)従四位上に叙せられている。
村上朝末の康和3年(966年)正月に右中弁に任ぜられると、同年9月に左中弁、康和5年(968年)右大弁と弁官として昇進を重ねる。安和2年(969年)円融天皇の即位後まもなく蔵人頭(頭弁)に補せられ、天禄元年(970年)参議に任ぜられ公卿に列した。
議政官として左右大弁を兼帯する一方、天禄3年(972年)正四位下、天延4年(976年)従三位と昇叙されている。その後も、貞元3年(978年)権中納言、永観2年(984年)正三位と円融・花山・一条朝にかけて昇進を続け、永延2年(988年)に中納言に至る。
正暦6年(995年)正月に従二位に昇るも、当時流行した疫病により同年5月9日薨去。享年72。埋葬地ははじめ松前寺。左京にある邸宅は外孫の藤原行成に伝えられた。
官歴
編集『公卿補任』による。
- 天暦3年(949年) 2月20日:昇殿
- 天暦5年(951年) 正月7日:従四位下(昇殿労、孫王)。2月20日:文章生
- 天暦6年(952年) 正月26日:昇殿
- 天暦8年(954年) 10月22日:民部大輔
- 天暦10年(956年) 正月1日:侍従
- 天徳2年(958年) 正月30日:紀伊権守
- 応和3年(963年) 正月7日:従四位上
- 康和3年(966年) 正月30日:右中弁 9月17日:左中弁
- 康和4年(967年) 6月16日:昇殿(踐祚初)。9月1日:東宮昇殿
- 康和5年(968年) 2月5日:右大弁。6月14日:勘解由長官
- 安和2年(969年) 4月28日:式部大輔、去長官。8月13日:昇殿(踐祚初)。9月12日:蔵人頭
- 天禄元年(970年) 8月5日:参議、右大弁式部大輔如元
- 天禄2年(971年) 正月21日:備前権守。12月15日:左大弁
- 天禄3年(972年) 正月7日:正四位下
- 天延2年(974年) 2月17日:備前守
- 天延4年(976年) 正月7日:従三位
- 貞元2年(977年) 正月28日:近江守
- 貞元3年(978年) 10月2日:権中納言
- 永観2年(984年) 8月9日:正三位(造宮行事賞)
- 永延2年(988年) 正月29日:中納言
- 正暦6年(995年) 正月7日:従二位。5月9日:薨去
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年