河田 羆(かわだ たけし、1842年10月10日天保13年9月7日[1] - 1920年大正9年〉1月4日)は、日本の地理学者明治政府地誌編纂事業に終始関わった唯一の人物である[1]

河田 羆
生誕 1842年10月10日
日本の旗 日本 江戸
死没 (1920-01-04) 1920年1月4日(77歳没)
日本の旗 日本
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衆議院議員経済学者であった田口卯吉の母方(田口氏)の従妹の子で[1]美濃国岩村藩出身の儒学者佐藤一斎の孫にあたる[1]

来歴

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1842年(天保13年)9月7日、儒学者河田迪斎の四男として江戸に生まれる[1]

1855年(安政2年)9月23日、林家の家塾に入門する[1]。1861年(安政6年)1月28日、昌平坂学問所の教授方出役(儒学者に次ぐ重要な役職)に就任する[1]。同年12月27日、外国方の外国奉行支配調役並に就任する[1]。1863年(文久3年)養子縁組を結び、新藤姓を継ぐ[1]。1864年、外国奉行支配調役に昇進する[1]。1868年4月、江戸城の開城に伴う外国方の廃止により、外国奉行の職を解かれる[1]。しかし、明治元年9月に学問所開設の布令が出され、学問所(静岡学問所)の三等教授に就任する[1]。1871年(明治4年)4月までに二等教授に昇進していた[1]。この頃、矢田堀鴻の仲介により、塚本明毅と出会う[1]

1872年8月、学問所が廃校に伴い免職となるが[1]、塚本明毅の手引きにより、同年9月27日に正院十等出仕に任命される[1]。同年10月4日から太政官正院地誌課での勤務を始め[1]ウィーン万国博覧会に出品する『日本地誌提要』の編纂に関与する[1]。1873年(明治6年)『日本地誌提要』が成稿[1]。成稿直後から増補改訂に取りかかっていたが、同年5月5日に皇居(西の丸御殿)で火災が発生し、地誌課の図書類が失われる[1]。同年6月18日に九等官(権大主記)に任命され、同年9月22日には八等官(大主記)に任命された[1]。1874年(明治7年)8月30日、地誌課が正院から内務省地理寮に移され、同年9月3日に八等官(地理大属)に任命された[1]。この頃『日本地誌提要』の増補改訂を済ませ、1879年(明治12年)にかけて刊行した[1]

1875年(明治8年)7月19日、奏任官である地理寮七等出仕に任命される[1]。同年9月20日、地誌課が太政官正院に戻されたため、地誌掛となる[1]。同年9月30日、七等官(三等修撰)に任命され[1]、同年10月24日に正七位を与えられる[1]

1877年(明治10年)修史局が修史館に改組となり、人員削減が行われる[1]。同年1月27日、七等官(四等編修官)に任命された[1]。同年2月には養家と離縁し、河田姓に復姓する[1]。同年12月8日、修史館の地誌業務が廃止され、同月20日に塚本明毅とともに辞職[1]。地誌編纂事業は内務省地理局に引き継がれ[1]桜井勉が責任者となった。1878年1月11日、内務省地理局に地誌課が設置され[1]、同年3月内務省御用掛准判任に任命された[1]。同年8月、塚本明毅が監修し、河田が校正した『実測東京全図』を刊行する[1]

1879年4月18日、東京地学協会に創立と同時に入会する[1]。1880年6月26日、同協会で「論日本地誌源委」と題する講演を行い[1]、のちの地誌論のきっかけとなる[1]。1881年、河田が校正した『大日本国全図』が刊行される[1]

1884年7月、塚本に批判的だった桜井勉によって、皇国地誌編纂事業が中止となる[1]。1885年、六等官に任命され[1]、桜井勉の指示により、地誌課の直轄事業として大日本国誌の編纂を開始する[1]。1886年(明治19年)東京府埼玉県神奈川県及び山梨県の巡回を命じられた[1]。1887年(明治20年)6月7日、文部省の小学校教科用地理書編纂旨意書審査委員を委嘱され[1]、翌年6月14日、文部省の応募編纂小学校用地理書審査委員に委嘱される[1]。1889年(明治22年)桜井勉が徳島県知事に転任した後も、大日本国誌の編纂を継続するが、同年7月2日に地誌課は廃止される[1]。地誌編纂業務は内務省から東京帝国大学に移され、同年10月1日、河田は帝国大学書記となる[1]。翌日、帝国大学に地誌編纂掛が設置される[1]。1891年(明治24年)地誌編纂掛と臨時編年史編纂掛が合併して史誌編纂掛となるが、ここには編纂員が置かれなかったため、河田は非職となり[1]、同年4月16日に免職となる[1]

1892年(明治25年)4月4日、帝国大学文科大学書記に任命され、史誌編纂掛における唯一の地誌編纂員として『補正日本地誌提要』の編纂を開始する[1]。この頃に史学会に入会する[1]。1893年、史誌編纂掛が廃止されて非職となる[1]。同年、6月10日の史学会で「東京地理の沿革」と題した講演を行った後、『史学雑誌』への寄稿は途絶え、1904年(明治37年)に史学会を退会した[1]

1894年頃、岩崎弥之助の援助のもと、静嘉堂文庫での勤務を開始する。1896年(明治29年)、重野安繹と共に『支那疆域沿革図』『支那疆域沿革略説』を刊行する[1]。1897年(明治30年)吉田東伍らと『沿革考證 日本読史地図』『沿革考證 日本読史地図図説』を刊行する[1]

1899年(明治32年)4月、日本歴史地理研究会(日本歴史地理学会)の設立と同時に入会する[1]。1900年(明治33年)から1905年(明治38年)にかけて、田口卯吉の依頼により『東京経済雑誌』に「支那西域考」を連載[1]。1906年、漢文体で書かれた『日俄戦記』を清国で刊行する[1]

1920年(大正9年)1月4日、脳出血により本郷区の自宅で亡くなる。墓は谷中霊園にある。

著作

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  • 『雪泥爪痕』関矢文吉、1898年8月。 NCID BN15079837全国書誌番号:41014290 
  • 『大磯誌』冨山房、1907年7月。 NCID BN14007182全国書誌番号:53014849 
  • 『静嘉堂秘籍志』 全50巻、宇賀正躬、1917年7月-1919年7月。 NCID BN14333732全国書誌番号:43021266 全国書誌番号:53008410 

共著

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共編

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校正

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校閲

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漢訳

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg 島津俊之「河田羆の地理思想と実践」『人文地理』第56巻第4号、人文地理学会、2004年、331-350頁、doi:10.4200/jjhg1948.56.331 

参考文献

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  • 島津俊之(2004):河田羆の地理思想と実践.人文地理,56-4,331-350